【第一章 】第三話:かりそめの誓い
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養護教諭の手により、彼女が病院に搬送された後も、美化委員の仕事は続いていた。幸い、彼女がぶちまけた洗剤は蓋がしっかり閉まっていたため、放課後を床掃除に費やす羽目にはならずにすんだ。
しかし、あのか細い手がなければ、そこには広がっていたのは洗剤ではなく、私の血だまりだったのかもしれない。あのとき彼女が腕を伸ばさなければ、私は彼女を抱えるどころか、こうして立っていることすら出来なかったはずだ。
私の体がもっと強靭だったなら、このような事態にはならなかった。私はか弱い女性一人の重さを支えきれず、傷を負わせた自身の貧弱さを呪った。
私は彼女に救われたのだ。弱きを救う騎士である、この私が。
保健委員に湿布薬を貼られた私は仕事に戻った。白羽先輩は「頭を打ったかもしれないから」と私を止めたが、そうでないことは守られた私が一番よく知っている。腰は多少痛むが大したことはない。少し痣になる程度だろう。
脳裏では、あのうるんだ大きな琥珀色の瞳が、今も私を見つめていた。責めるでもなく、ただ私をみつめる無機質なまなざし。
そして、耳の奥底では、あのとき後頭部から聞こえたあの乾いた「バキッ」という音が、呪いのようにいつまでも反響していた。
私はそれらを振り払うように黙々と仕事をこなした。
理科準備室で美化委員長の号令と共に、本日の仕事は終わった。
部室棟へ向かって四人で固まって歩いていると、葉月が後ろから私の肩に飛び乗るように手をかけてきた。やめろ葉月、背中が少し痛む。
「ナイト君かっこよかったね」
私は即座に否定する。
「何も格好良くなんかない。支えきれなかったうえに、怪我までさせた」
「そんなことないよ。避けずに受け止めたんでしょ?」
「そうだよー」
右後方から白羽先輩のやさしい声が重なった。
「ナイト君がいなかったら血の海だったかもよー」
私は思わず、地面に頭を打ち付け血だまりを作る彼女を想像した。冷や汗が噴き出し、私はその不謹慎なIFに蓋をした。
「縁起でもないこと言わないでください」
「ごめんねー」
「でも、私はちょっとうれしいな。ナイト君がちゃんとナイト君で」
「意味が分からん」
私は背後の葉月を見もせずに断ずる。
「今回のことは私に落ち度がある」
「そういうところだよ。みんなに自慢しちゃお」
「よせ」
「まあ、美化委員のひとみんな感謝してたからいいんじゃないか? あの子を押しちゃった子なんて泣いてたぞ」
隣を歩く部長が口を開いた。
「結果はどうあれ、立派なことをしたと思うぞ。俺もナイトが口だけのやつじゃないって証明できてうれしいぞ」
「拝聴しました」
「なんか私のときと態度違くない?」
葉月が私の腰にぐりぐりとこぶしをねじ込んでくる。湿布がずれるのでやめろ。
「うーん。ナイト君はみんなのナイト君じゃだめなのかなー?」
突然、白羽先輩が言った。
「どうゆう意味です?」
私は首だけ振り返った。先ほどまで束ねられていた、彼女の性格を表すようなふわふわとした髪が、彼女の歩みに合わせて肩の上で揺れていた。
「誰か一人のためじゃなくて、今回みたいに誰にでもやさしい、みんなから愛されるナイト君じゃだめなのかなーって」
白羽先輩の言葉は、私の心の深いところを爪で引っ搔いた気がした。
しかし、それで魂は救われるのでしょうか?
先輩、私は私を導いてくれるものがないと立っていられません。どのように立って歩いていいのかわからないのです。いまの私は宛のない信仰心の殻を被った空っぽの鎧なのです。大勢からの賛辞は、この鎧に中身を与えてくれるでしょうか。空虚な私に心を与えてくれるのでしょうか。私は恐ろしいのです。導きなき生が。それとも私は選択することから逃げているんでしょうか。
「白羽先輩、それではナイトではなくてヒーローです。私は騎士ですから」
「そっかー」
右後方で白羽先輩は不思議そうに指で髪の毛先を巻いた。
「でも、それって、何が違うの?」
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その夜、私は自身のふがいなさを拭うべくトレーニングに励もうとしたが、まだ背中と腰に痛みがあった。腕立てをしても腹筋をしてもスクワットをしても、患部が鋭く痛む。怪我の治りが遅くなっては元も子もない。私は歯痒い思いをしながら、ひたすらハンドクリップで握力を鍛えた。グリップを握りしめるたび、彼女の骨が折れた音が聞こえてくるようだった。
翌朝、私は昨日の朝刊を巻き腰に差すと、いつもより早く家を出た。
自転車を漕いでいる間も、昨日の光景が脳裏にこびり付いていた。踊り場の窓から差し込んだ強い西日、その逆光。その中をまっすぐ私へ向かって落ちてくる彼女。きらめく髪。
その一瞬、私は魂を抜かれていたのかもしれない。
その気の緩みが今回の件を引き起こしたようでならなかった。一つ言えるのは、私はただの一瞬たりとも、彼女から目が離せなかったのだ。
特別な依頼がなければ朝に部活はない。
私は学校の玄関に立ち、彼女の到着を待った。
本鈴のチャイムが鳴っても彼女は現れなかった。
私は探した。昼食も取らず昼休みを棒に振り、放課後も各教室を見て回った。私は冷静ではなかった。クラスの美化委員から彼女の名前やクラスを聞くことなど容易だったはずだ。だが私は愚直に足を運ぶことで彼女を探そうとした。
今日は登校していないかもしれない。諦めかけたそのときスマホの通知が鳴った。
『ナイト君、まだ学校にいるなら部室来て。いなくても来い。』
葉月からだった。
それで諦めがついた。私は肩を落とし部室棟へ向かった。
部室の扉を開けた私は、そこに待つ光景に絶句した。
部室の粗末なパイプ椅子に、彼女が座っていた。背筋をピンと伸ばし、まるで拘束具のように両腕を二枚の三角巾で吊るしていた。三角巾から覗く両手はギブス覆われ、指先が少し見えるばかり。痛ましいその姿は、まるでこれから火刑にあう聖職者の如く高潔で、私は息を飲んだ。
昨日から彼女に会うことばかり考えていたにも関わらず、私はいざ彼女を前にすると何を話してよいのかまるでわからなかった。彼女に会いたい。そればかりで、その先のことなど何も考えていなかったのだ。
ドアを開けた音に気付いて、彼女は私を見た。苦痛に歪んでいない、はじめて見る彼女の素顔だった。私はその光線のような琥珀色に射貫かれ、敷居をまたぐことすら出来ず立ち尽くした。
「やっぱり折れていたみたいです。両方とも」
彼女は昨日の会話の続きのように、淡々と話し始めた。
「ギブスが取れるまで一か月と少し掛かるみたいです。そのあともリハビリをしないといけないみたいですけど」
そうして彼女は音もなく立ち上がり、深々と私に頭を下げた。その所作に合わせて、二枚の三角巾が垂れ下がる。
「佐藤騎士さん。あなたがいなければきっともっとたいへんな大怪我していました。改めてお礼を言わせてください」
「それは違います!」私は反射的に声を荒げていた。「私がもっとしっかりしていればお怪我をさせることもなかったはずです。そもそも、その手も私をかばうために……!」
「あまりご自分を責めないでください。当の私が感謝しているんですからそれでいいじゃないですか」
彼女は三角巾の中で両腕をグッと胸の前に掲げた。オペ前の医者のようにも見えるが、応援のポーズを見せたかったのだろう。
「……他にお怪我は?」
「大丈夫です」
「おい、無視すんな」
葉月が私の足を蹴った。見れば部室には部長と白羽先輩の姿もあった。
「ヒメちゃんナイト君探してここまで来たんだよ。それなのにきみは部活さぼってどこほっつき歩いてたのかな?」
「ヒメ?」私はその言葉の響きにくだらないことを想像した。実にくだらない。
「ヒメ。ハルミヒメです」
ハルミヒメは三角巾に覆われた腕を伸ばして、指先で私に机の上を見るよう促した。そこには『波瑠美光愛』と書かれた紙が置かれていた。そして、紙の上部には『入部届』と。
「こんな部活動があるなんて知らなかったです。私は帰宅部ですし、これを機会に入部してしまいました。しばらくはお役に立てないですけどね」
心臓が跳ね上がり、私は彼女に駆け寄っていた。
「私をお役に立ててください」
私は間髪入れずに彼女に言い放った。
「あなたがなんとおっしゃろうと、あなたの手を押しつぶしたのは私の頭です。私を使ってください。あなたは私の……いえ、少なくともその手が治るまで、あなたは私の主君です」
「しゅくん?」
彼女は聞きなれない単語に小首をかしげた。
「あー気にしないでいいよ。ナイト君はナイト君だからナイトになりたいんだよ」
葉月が呆れたように口を挟んだ。
「ああ、主君ですね。よくわかりませんけどナイトさんは私のナイトでしたよ。昨日も助けてもらいましたから」
「その役目ありがたく賜ります。そのうえでお伺いしたいのですが、私はあなた様をなんと呼べばよいでしょう」
「ヒメもハルミも名前みたいですけど、ハルミがいいです。響きが好きなんです」
「では今後ハルミ様と」
「様? 様はちょっとはやめてほしいかもです」
「しかし主君ですので」
「私のことはただハルミと呼んでください」
「……それは命令ですか?」
「命令? そうですね、じゃあ命令です。これからはハルミと呼んでください。はい、ハルミ」
「了解しました。……ハルミ」
彼女の名を呼ぶと、神聖な気持ちに包まれた。その瞬間から、その三文字は単なる苗字を超え、高貴で神聖な役職として刻み込まれた。
王を王と呼ぶように、私はハルミをハルミと呼んだ。
「少しこそばゆいですね」
そう言って彼女は静かに微笑んだ。
「その手ではなにかと不自由でしょう。自分の手だと思ってなんでも命令してください」
「そんなに気を使っていただかなくても大丈夫ですよ」
「いえ、それでは私の気が収まりません。いつなんどきどんなご命令でも、この身を賭してお受けいたします。さあご命令を」
「だめだよーヒメちゃん困っちゃうよー」
白羽先輩が眠たげな声を上げた。さきほどまでのハルミ様とは対照的に背もたれに大きくもたれかかり、いつでも入眠しそうな体勢だ。
「そうだよー。まだナイト君のキャラに慣れてないんだから」
葉月も追従した。
「いえ、困ってなんていませんよ。ナイトさんのやさしさにどこまで甘えてしまっていいのか考えてしまっただけなんです」
「何も考えず、思うままに命じてください」
「えー、じゃあアレです! いまからオレンジジュース買ってこーい、一分以内。……なんて冗談ですけど」
「御意に」
私は即座に部室を飛び出した。廊下を駆け階段を飛び降りた。校内の構造は部活動で歩き回ったおかげでおおむね把握している。ここから近い自販機は一階の東口付近だが、この時間なら購買がまだ開いている。購買部は部室棟のすぐ横だ。レジが混んでいる可能性が懸念事項だったが、ホームルームが終わってだいぶ経っている、その線は薄いだろう。購買は予想通り人気がなかった。私は冷蔵庫からパックのジュースをひったくると、レジに走った。
「葉月! 時間は!?」
「測ってねーよ」
部室に戻った私は、オレンジジュースのパックにストローを突き刺し、ハルミ様の座る椅子の前に膝をついて献上した。
「ナイトさん」
ハルミ様はまっすぐな瞳で私のことを見据えられた。
「まずはお買い物ありがとうございます。ストローも刺していただいて助かります。でも廊下を走らないでください。ナイトさんも私のように階段から落ちるつもりですか?」
「おっしゃる通りです! 申し訳ありません」
「では次は私のポーチから財布を取り出して、ジュースの代金を受け取ってください。やらなければ私が自分でやります」
「……御意」
ハルミ様は腰にウエストポーチを付けていらっしゃった。確かに手持ち鞄を持つことはできないし、三角巾のおかげでリュックを背負うことも出来ないだろう。彼女がどれほどの不自由を強いられているのか、私は改めてハルミ様に降りかかった苦難の道を思い知った。
私がハルミ様の財布から金銭を預かっていると
「ヒメちゃん案外上手にナイト君のこと操縦できるかもね」
葉月のそんな声が聞こえた。
ハルミ様がジュースを両手のギブスで挟んで飲まれていると、その白い首からぶら下げていたスマートフォンの着信音が鳴った。
「出てもらえますか?」
ハルミ様の命に、私は一も二もなく頷き、そのお体に触れぬよう慎重に、スマートフォンを持ち上げ彼女の耳元に運ぶと、通話ボタンをスワイプした。
「わかりました。すぐ向かいます」
短い通話を終えると、ハルミ様は名残惜しそうに息を吐き、立ち上がった。
「しばらくは家の人に迎えに来てもらうんです。いま校門に着いたそうです。少し早いですけど」
ハルミ様は部室全体を見回し、深々と頭を下げた。
「まだしばらくは何もできませんが、これからよろしくお願いします」
彼女の丁寧なあいさつに、部長は「よろしくね」白羽先輩は「遊びに来るだけでもいいからねー」葉月は「ナイト君がうっとおしくなったら私に言うんだよ」とそれぞれ返した。
「はい。ではまた明日」
彼女は優雅に微笑んで扉へ向われた。
「校門までお送りします」
私は反射的に彼女の前に出て、膝を折った。ハルミ様は首を横に振られた。
「大丈夫です。私が必要だと思えば、そのときは送っていってくれますか?」
「仰せのままに」
私は廊下で彼女の背中が見えなくなるまで見送った。部室に戻ると三者三様の視線が私に刺さる。
「ナイト君いつもよりキモかった」「ほどほどにしておけよ」「ヒメちゃんを困らせたらだめだよー」
私は黙って席に着いた。腰の新聞紙が椅子に当たってガサッと音を立てた。




