【第一章 】第二話:顕現
「失礼しまーす!」
「失礼します」
部室の戸を開けると、中にはすでに一人の女子生徒がいた。ジャージ姿で、耳にヘッドフォンを付けて、椅子にもたれかかっている。しなやかにウェーブした長い髪を胸に垂らし、ぽつんと置かれた長机にスマホを置いて、まるで眠っているかのように目を閉じ、音楽かなにかに耳を傾けている。
「おつかれー」
その女子生徒、二年生唯一の部員である、白羽流海先輩は目も開けずに手をひらりと振った。相変わらずマイペースなお方だ。
学内ボランティアサークル部の部室はその性質上、ほとんど物が置かれていない。長机が二つと、パイプ椅子が数脚。一応掲示物などの作成を頼まれたとき用に紙や文具が置いてあるが、大抵のものは依頼先にある。更衣室として運用されることがそのほとんどだ。
「じゃあ、みはるちゃんは部長が来る前にジャージに着替えちゃおっかー」
白羽先輩の声は、いつものことと言えばいつものことだが眠たそうだった。まさかここで寝ていたのではあるまいな。六限終了からさして間もないはずだが。
「ナイト君は外でいーい?」
「問題ありません」
「ごめんねー」
私は一旦部室の外に出た。部室棟は人通りが無いわけでもないが、男一人さっと着替えるくらいの猶予はあるだろう。私は周りに女子生徒の姿が見えないことを確認して、素早く制服からジャージに着替えた。
着替え終わったタイミングで部長・冬川来斗氏が部室に到着した。長身であることを除けば、これといった特徴がない男子だが、その高校生とは思えぬ落ち着いた佇まいは学ぶべきものがある。
「冬川部長、すでにお着きになっていたんですか?」
冬川部長はすでにジャージ姿だった。
「ああこれ? 先にトイレで着替えてきたんだよ」
「慧眼ですね。素晴らしい見通しです」
「だろー?」
冬川部長は気の抜けた声を上げると、壁にもたれかかった。
まもなく「おまたせー」と葉月の声がして、女子二人が部室から出てきた。二人とも髪を後ろで結い上げている。葉月は元から短いので必要ないと思うのだが、これも一つの正装か。
「じゃあ、いくかあ」
部長は自分の荷物を雑に部室に放り込むと「忘れ物ないね?」と言って部室に鍵をかけた。
「今日は美化委員の手伝いで、洗剤とかの掃除道具の一斉チェックを手伝うよ。とりあえず俺たちは洗剤とかのある理科準備室に集合」
「承知しました」「はーい」「了解ー」
三者三様の声を上げ、私たちは歩き出した。
理科準備室は校舎の三階にある。我々のいる部室棟からはそれなりの距離だ。こんなことならはじめから現地集合でよかったのではという考えが頭を過ぎったが、ジャージに着替えるためにはやはり部室を利用するのが適切だったのだろう。六限目が体育ならともかく、我々の半分は女子なのだから着替える場所は必要だ。
放課後の校舎は、まだ活気に満ちていた。
部活動に勤しむ者や、ただ目的もなく居残っている者。後者のような生き方を否定する気はない、ただ私が「そう」でないだけだ。私の胸には常に巨大な虚空が口を開けている。その大穴は私を絶えず不安にさす。焦燥が狂い咲いている。導きが欠けているからだ。
彼らは違う。好きな映画や音楽かなにかで簡単にその穴を埋めることができる。友人とのたわいのない会話や、趣味に打ち込むことや、あるいは恋などでも。
「あらら、美化委員もう準備室出ちゃったって」
後ろから部長の声がした。
「急ぎますか?」
私は振り返って尋ねる。
「もう、すぐ上だしどっかですれ違うでしょ」
部長はスマホ画面を長めながら落ち着いた様子で答える。やはり部室棟まで着替えに行くのがロスだったか。
「先に行って確認してきます」
私は歩調を速めた。無論、校内で走るのは校則違反だ。一生徒である前に、騎士として校則を破るわけにはいかない。
一足先に理科準備室のある三階への階段を半分ほど登った時だった。階段の踊り場に、洗剤などの入った段ボール抱えた集団が現れた。
私は足を止め、その集団に
「学内ボランティアサークルです。お待たせしてしまって」
申し訳ありませんと言いかけた、その時だった。
先頭を歩いていた生徒が私に気付いて立ち止まると、背後から来た生徒と衝突し、前方の階段へ向かってつんのめった。
彼女は段ボールを落とし、自らも真っ逆さまに落下を始めた。
逆光の中、彼女は長い髪をイチョウの葉のように、あるいは女神の翼のように広げ、まっすぐに私の上に落ちてきた。
階段を転がり落ちる洗剤のボトル。
私は彼女を受け止めようと咄嗟に腕を伸ばした。
刹那、私の顔を覆う、やわらかな黒髪。
羽のように軽い体。
しかし、勢いのついた彼女の体重を支え切れることはできず、私の体は彼女と共に後方に落下を始めた。
「あぶない」
彼女は耳元で今更なせりふを吐いた。
透き通った白い声。
落下のせいではなく、私の背筋に寒気が走った。
彼女は私の頭に両手を伸ばした。
永遠にも思える数舜の後、私たちは廊下へと墜落した。
腰と背中に強い痛みが走り、耳元で「バキッ」と乾いた音がした。
同時に彼女が私の胸の上で苦悶にまみれた声を上げた。
「……ありがとうございます」
にじんだ声で、やがて彼女は絞り出すように言った。顔はすぐ真横にあった。
至近距離で、彼女と目が合った。光の加減か、涙で濡れた琥珀色の瞳が明るく輝いて見えた。長いまつげと切れ長のまぶたが苦痛に歪んでいる。
「頭をどけてくれると助かるのだけれど……」
その言葉にハッとした。私の後頭部は彼女の両の掌の上にあった。私はにわかに痛む体を彼女の体ごと素早く起こした。
ペタンと廊下に腰を下ろしながら、彼女は苦悶の表情で自らの両手をみつめた。その手はピクリとも動く気配はない。私はその華奢な手をから目を離すことができなかった。
「助けてくれてありがとうございます。頭は打たなかったですか?」
しばらくして彼女は気丈に口を開いた。
私は目を覚ます思いで彼女に言い寄った。
「……そんなことより! 手は無事ですか!?」
「あー……多分、折れていると思います」
そう呟いて、彼女は涙の溜まった瞳で微笑んだ。
「ふふふ。私、骨を折るなんてはじめて」
彼女は色の引いた唇で小さく笑った。
私は彼女に見惚れかけたがすぐに気を取り直して、彼女の体を抱え上げた。
彼女は「キャッ」と小さく声を漏らす。
「失礼します」
私は彼女を抱えたまま、保健室へ急いだ。
こんな軽い体を私は支えきれなかったのか……。私の腕の中の彼女は、ツバメのヒナのように小さく儚い存在だった。
波瑠美光愛 (ハルミ・ヒメ)はこうして私の世界に顕現した。




