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【第六章 】第三話:騎士として


   ■


 その一週間は平穏そのものだった。部の活動に駆り出されたり、何もなく部室でただ過ごしたり、ハルミ様が『校内ボランティアサークル部』に入られてから始った「いつも」を私たちは過ごした。

 ハルミ様は時々悪戯っぽく私に命令をなされ、葉月はよく喋り、白羽先輩は眠たそうにたまに呟き、部長は勉強に精を出していた。その光景に私の魂は安らいでいた。

 そして、その日が来た。放課後、ハルミ様は珍しく私の教室を訪ねて来られた。慌てて廊下にお迎えに上がった私に、彼女は私をまっすぐと見据えて、静かに命令された。

「ナイトさん、これから病院に付き合っていただけませんか?」


 病院は電車で一駅のところにあった。私は自転車通学のため一旦ハルミ様と別れ、ペダルを漕いだ。電車の待ち時間もあり、私たちほとんど同時にその駅で合流した。

「ねえ、後ろに乗せてくれませんか?」

 その言葉は、何とも甘美な誘惑だった。

「二人乗りは法にも校則にも抵触する。だがハルミがどうしてもというのであれば私はかまわんが」

「冗談です。ナイトさんに悪いことはさせられません」

「気遣い感謝する」

 ハルミ様はゆっくり歩かれた。手を気遣ってではない。ハルミ様の手にもう痛みがほとんどないことは知っている。病院に行く足取りは重く、彼女は終始浮かないご様子だった。私をお誘いになったのもその不安を紛らわすためだろう。

「ナイトさん。私今日ギブスを取るんです。もう痛みは大した事ないのですけど、ずっとそこにあったものが無くなるのは少し不安です」

 そんな気はしていた。

「心中お察しする。だがギブスが外れると言うことはハルミにとっていいことだ。前向きに考えたらどうだ?」

「……そうですね。でも怖いので、外すところを見ていてもらえますか?」

「承知した。ちゃんと見ている」


 院内は消毒液の匂いというよりも、病院特有のお香の匂いで満たされていた。私はハルミ様のバックパックから財布を拝借し、診察券とマイナンバーカードを提示した。待合室には高齢者の姿がちらほらとあり、少々待たされた。ハルミ様は一言も発せず、沈黙に座していらした。私は彼女を和ませようと幾度となく口を開きかけたが、言葉にしようとすると私の心は実に陳腐で、結局何一つ発せなかった。

 やがて彼女の名前が呼ばれた。

「付いてきてください」

「承知した」

 私はハルミ様の後に付いて、診察室に入った。医師は私を一瞥したがさして気にした様子もなく診察を始めた。

 前回撮ったというレントゲン写真には綺麗に繋がった骨が映っていた。完全に癒合しているため、ギブスを外しても問題ない。医師の言葉に私は胸をなでおろした。なにせこの骨を砕いた張本人は、他ならぬ私なのだ。

 医師は早速、物騒な機械を取り出した。棒状のマッサージ機に似たその機械の先端には、金属の円盤がついていた。回転するのではなく、振動で切るため、皮膚を怪我する事は無いと説明があったが、そのビジュアルは猟奇的だった。子供ならまず泣き出してしまうだろう。

 ハルミ様が腕を台に乗せると、円盤が細かく振動を始める。けたたましい機械音が診察室中に響き渡るが、医師が円盤をギブスに押し付けると、意外にも静かに石膏は切断されていった。ハルミ様も最初は強張った表情をしていたが、すぐに穏やかな顔に戻られていた。

 一か月ぶりに光を浴びたその両手は、乾燥し荒れていらした。医師は手にクリームを塗った。

 ギブスが外れたというのに、ハルミ様は指をまっすぐと伸びたままだった。

「まったくではないのですけれど、動きませんね」

 ハルミ様は涼しい声でおっしゃられた。

 医師によればそれは珍しいことではないと言う。一か月という期間固定されていた手は、ある種の退化した状態にある。

 ギブスが取れたからといっても終わりではない。これからが大変だと医師はリハビリの重要性を説き、完全に元通りの機能を取り返すにはギブスを着けていた期間以上の時間が必要だと告げた。

 ハルミ様の苦難の道はまだ続く。

 もしもあの時、ハルミ様が私を守られなければ、それ以上の苦難が私の頭に降り掛かっていただろう。

 私は無意識に自分の後頭部を押さえていた。


「ハルミ様はこちらが最寄り駅でしたね。ご自宅までお送りします」

 失礼。と私はハルミ様を優しく抱きかかえて、自転車の荷台に座らせた。

 ハルミ様は「キャッ」と小さな声を上げ、驚いたように肩をすくめる。

「でも、二人乗りは……」

「私が押して歩く。それならおそらく法にも抵触しないだろう。多分だが」

「では、お願いします……」

 そう言うとハルミ様は私の肩に片手を乗せられた。握ろうとしているが、まだ指が固いようだ。

 私は馬を引く従者のように、ゆっくりと自転車を引いて歩いた。

 ふふっ、不意にハルミ様が笑った。

「なんだかお姫様みたいですね」

 当然です、と私は心の中で答えた。私にとって、あなたはずっと仕えるべき姫そのものだった。

「私、名前がヒメだから、小さいころはずっとお姫様に憧れていたんです。ナイトさんと一緒ですね。今はもうそんなことを考えなくなってしまいましたけど、ナイトさんは純粋です」

「まさか。こじらせているだけです」

「そういう自虐的なところがありますよね。でもその自信のなさが自制心になって、ナイトさんに間違った行動をさせないのかもしれませんね。学園祭の準備のときは自信満々で失敗しちゃいましたけど」

「それは言うな」

 ハルミ様はクスクスとお笑いになられた。

「ナイトさん。ギブス取れちゃいましたね。これで私はナイトさんの主君じゃなくなっちゃいました。でも最後にもうひとつ、命令を聞いてもらっていいですか?」

「どんな命でも」

 それが最初の命でも最後の命でも私はそれに応えるだけだ。

「じゃあ二つ命令します。どちらかひとつを選んでください。ひとつは『今後は私をハルミ様と呼んで私の命令に必ず従う』こと、もう一つは『私と本当のただのお友達になってもらう』こと。ナイトさんはどちらを選ばれますか?」

 私は何も考えられなかった。頭の中が真っ白で、出口などない。なぜそんな残酷なことをお聞きになるのか。そのことで頭がいっぱいだった。

「うふふ、冗談です。いじわるしてみました」

 ハルミ様は悪戯っぽく笑われた。

「ハルミはどちらを選んでほしい?」

 私は尋ねた。

「そうですね。私はナイトさんに考えて選んでほしいです。その上での答えなら、私はどちらでも、それ以外でもなんでも受け入れます」

「考えて選ぶ……。私が最も苦手な、いや避けてきたことだな」

「そんなことありません。ナイトさんは自分で選んできました。ツバメを助けたのも、落ちてくる私の前に立ったのも、私を主君に決めたのも全部ナイトさんが決めたことです」

 事の成り行きです、とは言わなかった。私はそう言いたくなかった。ツバメもハルミ様も私が守りたかった。かけがえのない結晶だ。それらが傷つくのは自分が傷つくことよりも、恐ろしいことだ。

 そのとき、ばんっ、と背中が叩かれた。

 ハルミ様はイタタと、叩いた方の手をさすりながら、楽しそうに笑われた。

「男の子でしょう? しっかりしてください」

 彼女の手は、私の頭に巣くう霧を少しだけ払った。

「ハルミ。あなたは違うと言うかもしれないが、その手の怪我の責任の一端は私にある。罪滅ぼしと言うわけじゃない。ただの友人としてリハビリを手伝わせてくれないか」

「……はい」

 それは、うなずくような、静かな声だった。

「ただの友人で、たまたま騎士のナイトさん。これからもよろしくお願いします」


 ハルミの邸宅はご立派だったが、想像していたものより小さかった。私は彼女の振る舞いから勝手に令嬢めいたイメージを抱いていた。あの気高さは、彼女の受けた教育や、生来の品性から来たものなのだ。配下の任を解かれたばかりと言うのに、私はまた彼女を崇拝したい気持ちだった。

「また明日」

「また明日」

 別れの言葉をなぞる。私はまた明日彼女に会う。ハルミは変わらぬ笑顔をしているだろう。だが私はそのときどんな顔をしているのだろう。……乗り越えなければならない。私は歩こう。ハルミと出会う前のように。導き無き生を。しかし、ハルミから授かった心が私を奮い立たせるだろう。ハルミは私に抱えきれぬほどの大きなものを山ほどくれた。支えることしか考えられなかった中学時代ではもうない。私はまわりに支えられ、そして支える。それを覚えた。私は騎士だ。騎士のまま彼女を支える。そこに何に変りもない。主君でなくとも、傷ついた民を救うのが騎士だからだ。

 私は自転車に跨り、走った。

 体が熱い。知恵熱を出すように、体が熱で何かを放出しようとしている。皮が剥けるように自然と涙がこぼれた。私は脱皮しようとしている。ペダルを漕ぐ足に力がこもる。叫びたかった。何を? わからない。だが一つ言えることがある。言いたいことがある。私は騎士だ。母よ、私にこの名前をくれたのは間違いなんかじゃない。私は騎士として生き、蔑まれたが、私は騎士で良かった。幸せな日々を過ごした。私の騎士道は間違ってなんかいない。間違ってなどいないのだ。

 叩かれた背中が熱い。

 あれはハルミの最初で最後の「本当の命令」だったのかもしれない。

 私はしっかりしなければならない。

 暗がりに灯る電灯だけが、私の行く末を照らしていた。

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