*閻魔、こはくの力を知る
こはくは閻魔のすぐ隣まで足を進めてきた。
そして何の躊躇いもなく手を伸ばし、その指先が閻魔の胸元へと触れた。
その瞬間——閻魔の内部へと、途方もない何かがなだれ込んできた。
最初は、何が起きたのかすら分からなかった。
熱も冷も重さもない。
それなのに、胸の深層に存在していた欠落が、一気に押し寄せる奔流によって満たされていく。
閻魔は思わず息を詰まらせた。
「——っ!」
すべてが一度に押し寄せてくる。
体内を過剰な密度を持ったぬるい潮流が駆け巡り、渦を巻く。
本来ならば、人間の理を残した肉体では耐え切れず崩壊するような膨大な力の流入。
けれど、それと同時に——
圧倒的な、快感。
それ以外の言葉が存在しなかった。
全身の細胞が、一瞬にして歓喜で満たされる。これまで味わったことのない、恐ろしいほどの充足感。
「あ、————」
喉から、言葉にならない艶を含んだ声が漏れた。
その時点で、既に己を制し、止めるべきだと頭では理解していた。
だが同時に底知れぬ欲望が、内側から激しく突き上げてくる。
やめなければいけないのに、もっと欲しい。これ以上は危険だと危険信号が鳴り響いているのに、まったく足りない。
「————う、……っ」
息が詰まりそうになり、視界が白く明滅する。
それでも、奔流のような力の流入は途切れない。
こはくの手が、しっかりと閻魔の胸を押し当てていた。その流れをコントロールし、絶え間なく供給し続けている。
「待っ——」
それは懇願に近い掠れ声だった。
けれど、自分が何を求めて叫んでいるのかすら、もう分からなかった。
やめてくれ、と拒んでいるのか。
もっと注ぎ込んでくれ、と強請っているのか。
その相反する感情が、同時に胸の中で渦巻いていた。
やがて唐突に、その供給が途絶えた。
こはくの手が閻魔の胸から離れた瞬間。
恐ろしいほどの虚脱感が全身を襲った。
まるで深く沈められていた蓋が一気に外されたかのような、あるいは満たされていた命の根源を一気に引き抜かれたかのような感覚。
身体の中に、ぽっかりと底なしの穴が穿たれた。
「————」
閻魔はその場に崩れ落ちるように膝をついた。
荒い息を吐き出している。けれど、足りない。
圧倒的に、足りない。
大釜の蓋がゆっくりと下りていく。金属音が徐々に小さくなり、最後に重い響きが地獄の床を伝わってきた。
「何、これ」
掠れた声で、閻魔はこはくを見上げた。
こはくは消耗しているのか、それとも相変わらず澄み渡ったままなのか。視界がぼやけていてはっきりと判別できない。
けれど、こはくの冷たい手が、再び自分の頬へと優しく触れてきた。
手触りの冷たさに確かな存在を感じる。
「また、欲しい」
気づけば、そう呟いていた。
己の理性で止めるべきだと知っていながら。知ってはいけなかった快楽を知ってしまいながら。
その肌に触れるたびに、欲しくなってしまう。
その絶大な力を体感するたびに、またあれで満たされたくなる。
「待ってくれよ」
こはくへ向けて漏らす。待つという言葉の意味すら、自分では正しく理解できていない。
待ってほしいのか、それとも待てないのか。
やめてくれと叫びながら、また欲しいと乞う。
その歪な矛盾を抱え込んだまま。
閻魔はこはくの冷たい手に、縋るようにもう一度触れたのだった。
「……何、これ」
息を整えながら、自然と言葉が漏れ出した。
力をもらった。
そう解釈するのが、一番事実に近かった。
けれど、これまで知っていた能力の増幅とはまったく異質だった。
自分の中に最初から存在していた途方もない欠損が、ぴったりと埋まっていくような感覚。
白く霞んでいた視界が鮮明に澄み渡る。
大釜の内部の構造が、先ほどとは比べものにならないほど明確に把握できた。
どこに邪気の滞りがあり、どの経絡から力を流せばいいのか。
閻魔はしばらくの間、そのまま立ち尽くしていた。
こはくは変わらず隣に佇み、何事もなかったかのような澄んだ顔をしている。
「……すごいな」
ぽつりと呟く。こはくは応えない。
「これ、こはくの力?」
返答はない。けれど、閻魔にはもう直感で理解できていた。
大釜の中に滞留していた穢れは、こはくの持つ絶対的な存在感によって引き寄せられ、散らされたのだ。そしてこはくから分け与えられた力によって、自分はその理を完璧に扱えるようになったのだと。
「便利だね」
軽薄な調子を装って笑い、こはくを見る。
「地獄に欲しいくらい」
それは冗談のつもりだった。
少なくとも、この時の閻魔にとっては。
こはくはいつものように何も語らず、ただ静かに閻魔を見返している。
閻魔はその視線を受け止めながら、ふと自分の掌を見つめた。
先ほどまで全身を支配していた、あの恐ろしいほどの充足感は、すでに綺麗に薄れ去っている。
力が抜け落ちたわけではない。大釜も無事に閉じた。地獄の秩序も元通りだ。仕事としては、何ひとつ問題はない。
なのに。
胸の奥に、ほんの少しだけ「物足りなさ」が残っていた。
「……?」
閻魔は首を傾げる。
付与されていた力が、まるで綱を切られた時のようにするりと身体を離れていく。いつもの自分に戻っただけのこと。
それなのに、何かが狂ってしまったような違和感が消えない。
もう一度、こはくを見つめる。
白い姿は静かにそこに立っている。その白さは光を吸収するようで、周囲の暗がりをさらに深くしているようだった。
「こはく」
呼びかけると、すっと近づいてきた。
閻魔は何となく、その冷たい手を取った。触れるだけだった。力を求めたわけではない。ただ、先ほどのあの感覚がもう一度再現されるのかを確かめたかったのだ。
しかし、何も起こらない。
こはくはただ閻魔を見つめ、閻魔も見返す。
しばらくして、閻魔はゆっくりと手を離した。
「……なんだろ」
理由は分からない。
けれど、今はまだ分からなくていいのだと自分に言い聞かせた。
これは地獄の秩序を維持するために使える、有用な力だ。こはくという神が秘めている、あいつだけの性質。それを知った、ただそれだけのこと。
そう自分を納得させ、閻魔は大釜に背を向けた。
「ありがと。もう大丈夫」
執務室に戻ると、まず書類に手をかけた。
けれど、その時の指先にはまだ、あの力がに残っているような感覚がしていた。
——次も、呼ぶか。
その考えが一瞬脳裏をよぎったが、閻魔は頭を振って払った。




