地獄の大釜
地獄の深淵には、膨大な「大釜」が存在する。
地獄という構造そのものがまだ不完全だった太古の昔から、それだけはそこに在り続けていた。
底知れぬ暗がりの中へ穿たれた巨大な穴。
地獄に流れ込んでくる穢れや怨嗟は、すべてそこへ沈み、混ざり合い、膨大な時間をかけてゆっくりと形を失っていく。
亡者を裁き、理を教え込むことだけであれば、閻魔ひとりでもどうにかなった。
しかし、世界に生きる人間が増え、死が満ちるにつれて、それに伴って生じる不浄の量も跳ね上がっていく。
行き場を失った感情や残された呪詛を受け止める器がなければ、冥府の空気そのものが濁り果ててしまうのだ。
だからこそ、大釜には重厚な蓋が存在した。
普段は固く閉ざされている。
だが、内部に溜まった不浄を循環させ、沈殿した澱みを均すため、決まった周期で蓋を開け放たなければならない日が訪れる。
その日、閻魔は朝から少しだけ不機嫌だった。
「……多くない?」
大釜の縁を見下ろしながら、閻魔は気怠げに呟いた。
答える者はいない。そもそも答えようのない問いだった。釜の底から立ち上る気配は普段よりも明らかに濃く、黒い靄のような不浄が縁から這い出している。
それは通常の煙とは異なり、風に散ることもなく、地獄の冷たい床を粘つくように広がりながら、行き場を求めて揺らめいていた。
「予定通り開けるしかないんだけどなぁ」
閻魔は面倒そうに黒髪を掻きむしり、しばし沈思黙考した後にひょいと手を上げた。
「じゃ、開けて」
控えていた部下たちが一斉に動き出す。
重厚な金属音が地獄の底に響き渡り、蓋が引き上げられると、内部に押し込められていた熱と不浄が一気に吹き出した。
空間全体の空気が、ずしりと沈む。
地獄の底を焼く業火とは質の異なる、全身にねっとりとまとわりつく重圧が広がっていく。
足元から這い上がってくるような吐き気を伴う不快感に、周囲の者たちは思わず身構えた。
閻魔は不快そうに眉を寄せた。
「……やっぱ多いな」
渦巻く邪気が、開きかけた隙間から溢れ出そうとする。
それを閻魔が手元を振るい、片手で押し戻した。
「はいはい、そっちは駄目。戻って」
軽い口調とは裏腹に、込められた威圧は強い。
漏れ出しかけた靄が圧し折られ、大釜の中へと沈んでいく。しかし、ひとつの逃げ道を塞げば、すぐさま別の隙間から不浄が吹き出し、そこを抑え込めばまた別の場所が歪に膨れ上がる。
押し留めること自体は可能だ。けれど、これではいつまで経っても蓋を閉め直すことができない。
「……面倒くさ」
ぼやきを漏らしながら、閻魔は大釜の冷たい縁へ直に手を置いた。
内なる力を流し込む。
地獄という空間そのものが反応し、大釜の周囲に刻まれた呪導の仕組みがひとつずつ駆動を始める。溢れ出ようとする圧力を押さえつけ、内部に流れを作り、底へと沈めようと試みる。
けれど、中から押し返してくる怨嗟の波の方が、わずかに上回っていた。
閻魔は沈黙した。
もう一度、深く腹に力を込める。
それでも、重い蓋はびくとも動かない。
「……あれ?」
さすがにおかしい。
この程度の負荷なら造作もなく処理できていたはずだ。ただ今回に限っては、溜まった不浄の分量が過剰すぎたのだ。
閻魔はしばらく不機嫌そうに大釜を睨みつけていたが、やがて諦めたように小さく息を吐き出した。
「こはく、呼んで」
報せを受けてしばらくすると、闇の中から滑らかにが現れた。
いつものように、一言も言葉を発しない。
閻魔の立つ場所まで滑るように近づくと、少しだけ間を空けて立ち止まった。
「ごめん、ちょっと手伝って」
こはくは閻魔を見つめ、それから大釜へと視線を移す。
「蓋、閉めたいんだけどさ。今日ちょっと多くて」
事情を説明しても、こはくは無言のままだ。
ただ静かな足取りで、大釜の縁へと歩み寄る。
その瞬間だった。
釜の中で荒れ狂っていた黒い気配が、わずかに揺らいだ。
閻魔は最初、それに気づかなかった。あまりにも微小な変化だったからだ。
こはくが一歩踏み出すごとに、大釜から溢れ出ようとしていた不浄の群れが、吸い寄せられるように向きを変える。ざわめいていた邪気が一気に静まっていく。
「……ん?」
閻魔が目を細める。
こはくは術を使うでもなく、ただそこに佇んでいるだけだ。
それにもかかわらず、地獄の底を汚していた濁気が、少しずつ、確実にこはくの身体の周りへと集積していく。
近づき。
肌に触れ。
まとわりつく。
けれど、当のこはく自身は何の変化も見せない。それどころか、こはくの周囲に集まった不浄は、そこからさらに深い虚無の底へと沈降して消えていくようだった。
閻魔は黙ってその現象を見つめていた。
「……そういうこと?」
初めて目にする光景だった。
こはくは力を使って押さえ込んでいるわけではない。ただそこに『存在』しているだけで、地獄を冒涜しようとしていた不浄が勝手に引き寄せられ、消滅していくのだ。
それならば。
閻魔は大釜へと視線を戻した。さっきまで固く閉ざされていた蓋が、かすかに動く。
「なるほど」
閻魔は再び蓋に手をかけた。さっきよりも格段に軽い。
けれど、まだ完全に押し切るには至らなかった。
「こはく」
呼ばれて、こはくが顔を向ける。
「もうちょっとだけ、力貸せる?」




