感情の逆転
それ以来だった。
閻魔がこはくを「意識して見る」ようになったのは。
それまでは、呼吸と同じくらい当たり前だったのだ。隣に佇み、触れ合い、視線を交わす。
こはくは昔からそういう存在だったからこそ、深く突き詰めて考えたことなどなかった。
だが一度でも、「自分だけを見ていたのではないか」と知ってしまえば、もう昔のようにはいられなかった。
途端に、あいつのすべてが気になって仕方がない。
裁定の最中、書類をめくり、亡者の怒号が響き、部下が報告を上げてくるその合間。
ふと横を盗み見ると、必ずこはくがいる。静かな眼差しで、こちらを見つめている。
「……」
閻魔はそこで一瞬、言葉を詰まらせてしまう。
かつてなら流せていた視線。けれど今は「見られている」と強く意識してしまうのだ。
閻魔は誤魔化すように軽く咳払いを挟んだ。
「はい次ー」
声がほんの少しだけ上擦る。部下が不思議そうな顔を浮べていたが、閻魔はそれどころではない。視線が気になって仕方がなかった。
こはくは相変わらず静寂を纏っている。けれどその静けさの気配を感じるたびに、どうしても横顔を探してしまうのだ。
気づけば、自分の方から探している。
あいつの気配を。漆黒の髪を。その手によって均された澄んだ空気を。
そして、目が合う。
その瞬間——閻魔は昔のこはくがしていたように、吸い寄せられるように自然と手を伸ばすようになっていた。
頬に触れる。
肩を抱く。
指先で黒髪を梳き上げる。
自分でも呆れるほど、無意識に、自然な動作で。
その変化に最初に気づいたのは、周りの部下たちだった。
「……閻魔様、最近よく触りますね」
ぽろりと何気なく指摘された瞬間、閻魔は判を押す手のまま固まった。
「え?」
「こはく様に」
数秒の重い沈黙。閻魔は取り繕うようにして苦笑いを浮かべた。
「あー……まあ?」
軽薄さを装った声。だがその最中も、閻魔の手はこはくの肩の上に置かれたままだった。完全に無意識の癖となっていたのだ。
部下たちの何とも言えない表情を見て、閻魔はそこでようやく自身の変化を決定的に自覚する。
——自分の方が見ている。自分の方から触れている。
ある夜の私室。
静まり返った寝台の上で、閻魔はこはくの隣に背を預けていた。
肌と肌、肩と肩が触れ合っている。呼吸の音が聞こえるほど近くにいる。
閻魔はぼんやりと天井の闇を見つめながら、小さく喉を鳴らした。
「なんかさ」
こはくがゆっくりと視線を向けてくる。
「完全に逆転したよね」
閻魔はそのまま、こはくの指先をそっと手の中で弄んだ。昔、あいつが自分にしてきた行為をなぞるように。
「最初、お前の方から俺のことずっと触ってたのに」
指先を滑らせる。冷たく、けれど確かな存在感を持つ手。
「今じゃ俺の方が触ってる」
こはくは相変わらず静かだ。けれど、その双眸はまっすぐに閻魔だけを映し出している。
閻魔は自嘲気味に笑った。
「いやー……参ったな」
飾りのない、素直な本音が漏れる。
「こんな風になるなんて思わなかった」
始まりはただの観察だったはずなのに。
閻魔はこはくの髪に指を入れ、漆黒の束を絡め取る。肌を撫でるようなしなやかさと、わずかな抵抗感が指の腹に伝わってくる。
「お前が悪いんだからね」
半分冗談めかして呟く。
「ずっと、そんな目で見てくるから」
すると、こはくの指先が静かに伸び、閻魔の頬へと触れた。
その瞬間。
閻魔の動きが止まる。
視線が絡み合う。息が触れ合うほどの近さ。
閻魔は数秒ほど絶句したあと、降参したように小さく息を吐き出した。
「……ほら」
掠れた声。
「そういうところ」
また、触れてしまう。無意識のうちに。
閻魔はこはくの細い肩へ腕を回し、そのまま強く自分の方へと引き寄せた。
昔、こはくが自分の存在を繋ぎ止めようとしていた時のように。その温もりを確かめるように。
閻魔はこはくの肩口へ額を押し当て、ゆっくりと目を閉じた。額の位置から、こはくの冷たい肌温が体温に変わっていく過程。その温度差が、鎖のようにするりと胸へ沈み込んでいく。
もう手遅れなほど、この行為は自分の習慣となっていた。
昔は、人間の輪郭を形作るために、こはくがヤマへ触れていた。
今、閻魔はこはくがここに在り続けることを確かめるために、触れ続けている。
永遠とも思える時間をかけて。
二人の関係は、静かに、けれど決定的に反転していたのだった。




