勘違い
死者の数が急激に増え始めた頃の冥府は、現在よりもずっと騒がしかった。
人間は「死」という理を理解できぬまま、唐突に生の終わりを迎える。だからこそ混乱に陥るのだ。
泣き叫ぶ者、激昂して怒鳴り散らす者。その音は地獄の深部を波打つように埋め尽くし、生者の世界へ這い戻ろうと暴れ狂う鎖音が絡み合う。
当時の地獄は、罪を厳格に裁く場というよりは、亡者たちに“死の受容”を教え込む啓蒙の場に近かった。
閻魔はその混乱の中心にいた。
世界で最初の死者であり、最初に死を受け入れた元人間。
だからこそ、他のどのような亡者よりも一歩前に立っていた。
訪れる死者たちは皆、恐れと縋るような哀願を織り交ぜた眼差しで閻魔を仰ぎ見る。閻魔はそれらを、淡々と捌き続けていた。
その傍らには、常にこはくの姿があった。
艶やかな黒髪を揺らす、静謐な人型。誰よりも目立つ異彩を放ちながら、誰よりも言葉を発しない神。
亡者たちは最初、その神聖で圧倒的な気配に恐怖した。だが、こはくが自ら危害を加えることはない。
ただそこに静かに佇み、時折、場を乱す亡者へそっと手を差し伸べるだけだった。まるで不浄を均す作業のように。
泣き叫ぶ死者の肩に触れ、暴れ狂う気配を穏やかに鎮める。そうした最低限の調停を行う。
だから閻魔は当初、「こはくは人間という存在そのものに強い興味を抱いているのだろう」と思い込んでいた。
人間の死、魂の器、膨れ上がる感情。そうした怪奇な現象を観察しているのだと。
だがある時、裁定の間で妙な違和感に気づく。
亡者が列をなし、部下たちが慌ただしく行き交う喧騒の中、書類を捌いていた閻魔はふと横に視線を投げた。
こはくが、じっとこちらを見つめている。
「……何」
軽く声をかけてみるが、こはくは動かない。静かな眼差しだけが、そこに残されている。
肩に指先を置き、落ちる黒髪を撫でる。
逆に、他の亡者たちへは決してそこまで長く触れようとはしない。
必要最低限、気配を均したらそれで終わり。まるで興味を失ったかのように、あっけなく離れてしまう。
ある日、裁定が一段落した後の静まり返った廊下で、閻魔はそれをぼんやりと思い返していた。
廊下の壁に業火の熱が遠く伝わってくる。
時折、炎が爆ぜてはじけるような音が響き、その度に冷気が揺らぐ。
こはくはいつものように、閻魔の歩幅に合わせて隣を歩いていた。
「お前さ」
閻魔が何気なく口を開くと、こはくが静かに視線を向けた。
「他の人間には、あんま興味ないよね」
その場でぴたりと足が止まる。
こはくは言葉を返さない。けれど、否定の気配すら見せなかった。
閻魔は少し思案する。
出会った当初、こはくは確かに「人間」という未知を観察していると思っていた。
だが他の亡者に対する反応の薄さに対して自分だけは違った。昔からずっと触れ、見つめ、隣に座り続けている。
閻魔の思考の途中で、妙な沈黙が落ちた。
「……あれ?」
小さく呟き、思わず眉を寄せる。こはくはどこまでも静かな瞳で閻魔を見返していた。
「もしかしてお前」
そこで言葉が詰まった。バラバラだった思考の欠片が、綺麗にひとつの線で繋がる。
人間という種族が好きだったのではない。
最初の死者、ヤマ。
こはくが見つめ、引き寄せられていたのは——最初からずっと、自分だけだったのではないか。
閻魔はそこで、生まれて初めて長い沈黙を飲み込んだ。地獄の冷たい空気だけが二人の間を静かに流れていく。
やがて閻魔は、自嘲するようにぽつりと笑った。
「……なにそれ」
掠れた声がこぼれ落ちる。
「ちょっと嬉しいじゃん」
こはくは何も答えない。ただ静かに閻魔へ歩み寄り、至極自然な動作でその手に触れた。
その手の温度は依然として冷たいはずなのに、肌へ触れた瞬間だけ温もりに感じられる。
昔から何も変わらない触れ方。己の輪郭を確かめるかのような、繊細な熱。
その感触を受け止めながら、閻魔は小さく息を吐き出した。胸の奥が、妙な熱を帯びて熱かった。
今までずっと“当たり前”の景色として受け入れていたから、気づけなかったのだ。
こはくが常に隣にいることも、躊躇いなく触れてくることも、深遠な視線を向けてくることも。
そのすべてが、自分ひとりだけに捧げられていた特別だったのだということに。
閻魔は困ったように、けれどどこか嬉しそうに目元を緩めた。
「……それ、勘違いするよ」
冗談めかして言ってみたものの、その声は微かに低い。
こはくの指先が、静かに閻魔の手の甲を撫で上げていく。閻魔はそのまま視線を落とした。
「いや」
ぽつり。
「もうしてるかも」




