ヤマ、サーラメーヤと出会う
で、そのあとに現れたのがサーラメーヤだった。
昔も今も、あいつらをうまく説明するのが難しい。
……その時、初めて"終わる"って理解したんだよね。
ああ、俺はもう元いた場所へは戻れないのだと、思い知らされた瞬間だった。
◇
こはくと二人だけで過ごした時間がどれほど流れたのか、当時の俺には知る術もなかった。
昼も夜もない世界。巡る季節もなく。
乾いた冷たい空気だけが肌を撫でる。
ただ深い静寂が満ちる冥府の中で、あいつは相変わらず俺の隣に寄り添い、興味が向けば触れ、満足すれば少し身を弾き、また思い出したら吸い寄せられるように戻ってくる。そんな終わりのない穏やかな日常を繰り返していた。
ある時、こはくがふと顔を上げた。
何かに気づいたかのように、ゆっくりと冥府の薄暗い奥へと視線を向ける。
俺もつられて振り返ると、静けさを切り裂くようにして、二つの足音が近づいてくるのが聞こえた。
規則正しく、澄んだ音だった。
やがて冷気が揺らぎ、闇の境界線を抜けて姿を現したのは、二頭の獣だった。
狼に似た骨格をしている。いや、犬だろうか。
しかし四肢の獣ではなかった。全身は毛に覆われているが人のように衣を纏い、二足歩行をしている。
白と黒の毛並みは美しい艶を帯び、しなやかな尾を滑らかに動かしている。その双眸に宿る鮮烈な金色と水色の左右で異なる光だけが、一直線にこちらを捉えていた。
二頭は俺のすぐ目の前まで辿り着くと、ぴたりと足取りを止めた。
そして——
何一つ迷いのない所作でその場へ粛々と膝を突いたのだった。獣の爪がざらりと地面と擦れる。
「最初の死者様」
右の獣が口を開く。
「お迎えに上がりました」
左の獣が、ごく自然にその言葉を繋いだ。
俺は思わず二頭を交互に見比べる。
双子なのだろうか、と真っ先に思った。
「……お前ら」
右の獣に視線を落とす。
「名前は?」
「サーラメーヤです」
左の獣が答える。
「冥府の境界を守る番」
右の獣が言葉を重ねた。
「……どっちが?」
そう尋ねてみると、二頭は示し合わせたかのように同時に首を傾げた。
角度もタイミングも、寸分狂わぬ動きだった。
「どちらも」
「どちらでも」
「我々です」
「……は?」
理解が追いつかず、眉間に皺が寄る。
今度は右の獣が滑らかに話し始めた。
「感覚を」
左の獣が受ける。
「共有しております」
右。
「意識も」
左。
「一つです」
その会話のやり取りには、恐ろしいほど継ぎ目がなかった。
片方が言い終えたからもう片方が交代して話しているのではない。最初からたった一人の存在が紡いでいるひとつの文章を、たまたま二つの口に分けて発声しているだけのような、奇怪なほどの自然さがあった。
俺はしばらく無言のまま固まっていた。
右側へ回り込み、左側を見つめ、また右側へ視線を戻す。
二頭とも、同じ透明感を持った眼差しで俺を見返してきた。
確かに二つの身体があるはずなのに、目の前に鎮座している視線はただひとつしか存在しないような、不気味な錯覚に囚われる。人ならざるものの気配に、背筋に冷たいものが走る。
「……気味悪いな」
口から出たのは、偽らざる正直な感想だった。
だが二頭は害された様子もなく、淡々と受け止める。
「よく言われます」
「ですが問題ありません」
それすらも流れるように続いていく。
俺は小さく溜め息を吐き出した。
「で、そのサーラメーヤが何しに来た」
俺の問いを受け、二頭は改めて背筋を正した。
「お伝えするためです」
「あなたに」
「ここが冥府であることを」
「あなたが最初の死者であることを」
「そして」
「これより先」
「人は終われば」
「ここへ辿り着くことを」
静まり返った冥府の空間に、その言葉だけが朗々と響き渡った。
俺は言葉を失い、ただ立ち尽くすしかなかった。
終わる。
その単語だけが、胸の奥に妙に重く引っかかる。
今まで無意識に考えないよう覆い隠していたものへ、唐突に名前という烙印を押されたような感覚だった。
「……終わる」
掠れた声で、思わず呟いていた。
「はい」
「死です」
その一言は、あまりにも淡々としていて、あっけなかった。
憐れむでもなく、脅かすでもない。ただそこに在る厳然たる事実として告げられた声だった。
俺は己の足元へ視線を落とした。
死。
その『言葉』を知らなかっただけで、本当は薄々感づいていたのだ。
自分はもう戻れない。あの日々やあの場所へは決して帰れないのだと。ここはそういう途切れ果てた場所なのだと。
けれど、それが“死”という現象なのだと突きつけられた瞬間、不思議なほどすんなりと、胸の深層へその事実が落ちてきた。
「ああ」
自嘲混じりの声が漏れる。
「そういうことか」
二頭は静かに頭を下げ、理解を示した。
そのすぐ隣で、こはくは相変わらず何も言わず、ただ静寂の中で俺を見つめ続けていた。
こはくはきっと、最初からすべてを知っていたのだろう。
それでも俺に説明しなかった。できなかったのか、あるいは最初から説明する気などなかったのかは分からない。
俺は乾いた笑いを漏らした。
「お前、喋れないなら最初から誰か連れてこいよ」
こはくは返事の代わりに、かるく首を傾げてみせるだけだった。
その無垢な様子を見て、二頭のサーラメーヤの口元がほんのわずかに緩む。
そして彼らは再び、揃って深々と頭を垂れた。
「本日より」
「我々は」
「あなたの忠実な下僕として」
「その歩みを支えます」
その言葉に微かな迷いすら存在しなかった。
それは新たに誓う忠誠というよりは、世界の始まりから定められていた自らの役目を、当然のこととして確認しているかのような静かな響きだった。
その日、俺は初めて悟ったのだ。
こはくは世界の側に座す存在で。
サーラメーヤは世界の理を伝えるための存在であるのだと。
そして俺だけが、そのどちらの側にも属していない。
ただ人として最初に『終わり』へと辿り着いてしまった、世界でたった一人の存在なのだと。




