ヤマの死、こはくとの出会い
最初の死者、俺なんだよね。
まあ、正確に言うと、“人間の死”そのものの始まりなんだけど。
昔は、人って死んでなかったんだよ。
だから朝と夜も分かれてなかったし、空はずっと曖昧だった。
区切りがなかったんだよね、世界に。
始まりも終わりも、全部ぼやけてた。
で、俺が最初にこっちへ来た。
……来た、っていうか、落ちた、かな。
当時の俺は当然、“死んだ”って分かってない。
だってそんな概念、まだ世界にないから。
気づいたら知らない場所に立ってて、真っ黒で、静かで、音も風もないのに、何かだけがずっと流れてる変な場所だった。
今思えば、あれが冥府だった。
でも当時は分かんない。
生きてる感じもしないし、かといって消えてるわけでもない。
ただ、自分の中身だけが妙に静かでさ。
ああ、なんか戻れないんだろうな、くらいの感覚だけあった。
その時、いたんだよね。
白いやつ。
あれ今でも説明できないな。
多分、俺ずっとあいつのこと説明できないままなんだろうけど。
とにかく、“ああ、これは世界の側の存在だな”ってだけは分かった。
生き物じゃない。
神って言葉すらまだ曖昧だったけど、たぶん人間が後から神って呼ぶものは、ああいうのなんだろうなって思った。
たまに勘違いされるけど、俺がこはくに似てるんじゃないの。逆。あっちが俺に寄せた。
最初に見た人間が俺だったから。
まあ、気まぐれな観察だったんだろうね。
あいつ、基本そういう感じだし。
◇
地獄はまだ、深い静寂の中に微睡んでいた。
死の香りはまだない。燃える炎は業火ではく、冷えた紫の鬼火が揺らめく。
溢れ返る亡者の姿もなく、地獄という仕組みそのものが曖昧で、魂を裁く秩序すら定まりきっていなかった頃のことだ。
その中心に佇んでいたのは、人間で最初の死者。
ヤマ。
後に閻魔大王と呼ばれることになる、ただの男だった。
最初の頃のヤマは、何も理解できていなかった。自分がすでに命を落としたという事実も、ここがどこであるのかも、なぜ生者の世界へ戻れないのかさえも。
ただ、ひとつの「白い気配」だけがその傍らにあった。
明確な輪郭を持たない存在。光とも霧ともつかない神秘的な何かが、暗がりの中で異彩を放っている。
それはじっと、飽きる様子もなくヤマを見つめ続けていた。
「……何」
当時のヤマは今よりもずっと口数が少なく、その声は冷え切った空間に低く落ちた。
問いかけても、当然のように返事はない。白い気配はただ、静かにヤマの懐へと近づいてくる。
そして、遠慮なく触れてきた。
指先の形すらおぼつかない曖昧な揺らめきが、ヤマの頬を撫で、髪をすり抜け、喉元から肩のラインへと躊躇いなく滑っていく。触られているはずなのに、温度や触覚がまるでない。ただ存在感だけが纏わりつく。
距離感というものを知らぬその不躾な振る舞いに、ヤマは不快そうに眉を寄せた。
「いや、だから何?」
やはり返答はない。
白い気配はそのままじっと、ヤマの顔を至近距離でのぞき込んでいた。まるで未知の存在を深く観察し、その構造をひとつずつ理解しようと試みているかのように。
やがてヤマは、触れられた場所から徐々に「変化」が起きていることに気づく。
最初は霞のように曖昧だった指先が、肌をなぞるたびに少しずつ人間の骨格を形作っていくのだ。
触れられた頬の輪郭が整い、肩の線が鮮明になり、落ちた髪が艶やかな黒に染まっていく。外気の冷たさとの境界に体温が生まれる。
ヤマはそこで初めて悟った。
「……俺、真似されてる?」
白い気配は応えない。
だが直後、目と鼻の先にひとつの「人間の顔」が浮かび上がった。
まだどこか不完全で輪郭もぼやけており、感情の伺えない薄い表情。それでも確かに、自分自身の面に酷似している。
ヤマはしばらく無言でそれを踏みつけにするように見つめていたが、やがて小さく息を吐き出した。
「気味悪……」
それが偽らざる正直な感想だった。
しかし白い存在は気にした風もなく、吸い寄せられるように再び距離を詰めてくる。
再び、触れる。
冷たい頬。
骨張った手。
黒い髪。
まるで泥で型取りをするかのように、何度も、何度も確かめるように触れてくる。ヤマは最初こそ鬱陶しそうに身を引いていた。
だが、数日も経つ頃にはその接触に少しずつ慣れてしまっていた。
どうやらこの異質な存在に、害意や悪意の類はないらしい。それどころか、自分に触れれば触れるほど、その不定形な姿は人間の形として安定していくようだった。
滑らかに完成度を増していく指先。
静かに整っていく声なき呼吸。
流れるように落ちる黒髪。
そして何より、ヤマの体に触れている間だけ、その白い存在はどこか安らかな落ち着きを見せるのだった。
「……お前、俺触ってると安定するのか」
投げかけた問いに言葉の返信はない。
けれど、白い存在は吸い寄せられるようにヤマの掌へすり寄ってきた。言葉などなくとも、その一動作だけで答えとしては十分すぎるほどだった。
——それからだった。
互いに触れ合うことが、呼吸と同じくらい当たり前の日常になったのは。
ヤマが腰を下ろせば当然のように隣へ寄り添い、髪を弄られ、肩に重みを預けられ、顔を覗き込まれる。気づけば視線の届く距離に、常にその存在が佇んでいた。
ヤマも次第に、それを拒まなくなった。
ある日のこと、白い存在がヤマの手元をじっと見つめていたことがあった。
皮膚の質感。
骨の凹凸。
関節の動き。
それらを観察するように見つめる視線に気づき、ヤマは何気なく手を伸ばした。
今度は逆に、自分の方から触れてみたのだ。相手の白い頬へと。
その瞬間、白い存在の動きがぴたりと止まった。
ヤマは少し目を細め、その反応を可笑しそうに見つめる。
「……お前、触られるのも嫌じゃないんだ」
白い存在は拒絶を示すこともなく、そのまま静かに目を伏せた。
嫌がっていないと知り、ヤマはもう一度その肌に触れる。
指先で髪を梳き、輪郭を優しくなぞる。
まだかすかに曖昧さを残すその輪郭は、ヤマが触れるたびに、確固たるカタチを取り戻していくようだった。
ヤマは満足そうに、小さく喉を鳴らして笑った。
「へえ」
面白い、と純粋に思った。
それが、すべての始まりだった。
そこからの時間は、あまりにも自然に流れていった。
触れられるから触り返し、隣に立ち止まるから隣に身を置く。気づけば互いに触れ合う行為そのものが、二人の日常の中に溶け込んでいた。
ある日、こはくの指が冷たい石の壁より少しだけ温かかった。閻魔はこの奇妙な観察が終わりに近いことを知る。




