こはくはヤマを眺める
冥府は、深閑とした静寂に満ちていた。
音がまったく存在しないわけではない。途切れることなく流れる魂たちの揺らめきや、遠くで重厚な門が軋む低い残響が常に漂っている。
だがそれらすべては、光の届かない深い水の底へ沈んでいくかのように、静けさの中へ呑み込まれていくのだった。
その冷えた静寂の中心で、ひとつの「白い気配」がゆらりと揺らめいていた。
明確な輪郭を持たず、人の姿すら形作っていない。ただ、暗がりの中に淡く漂う純白の意志。
冥府の深淵に身を置きながら、その気配は遥か遠くの現世を静かに見つめていた。
まだ命の灯火を宿している、ひとりの人間を。
その傍らには、二頭のサーラメーヤが従順に控えている。
黒と白の斑柄を持つ犬の獣人。左右で異色の瞳を煌めかせた二対の眼差しが、白い気配と同じ遥か遠くの地平を見つめていた。
「……また、彼を見ているのですか」
「随分と長く」
二つの口が、ひとつの呼吸のように滑らかに言葉を繋ぐ。
それを聞いた白い気配は、ただゆるやかに揺れた。無言の肯定だった。
現世には、まだ幼さの残る若い人間がいた。
ヤマ。
人の身でありながら、誰よりも重い罪と裁きの概念をその背に負おうとする男。
白い気配は、その孤高な佇まいを気に掛けている。
「……変わったお方ですね」
「生者をそこまで長く見ることは、滅多にない」
サーラメーヤたちは静かに言葉を交わす。
死者を統べる冥府の存在が、生者へ深く干渉することはない。ただ死の瞬間を待ち、魂を迎え入れることこそが理だからだ。
だが、この白い気配だけは違っていた。
まるで慈しむように見守り、その時が訪れるのをひたすら待つように。
やがて、サーラメーヤの片方が細く長い目をさらに細めた。
「いずれ」
「彼はここへ来ます」
白い気配の揺らめきが、わずかに輪郭を強めた。否定ではなかった。
「貴方は」
「それを望んでいるのですか」
一瞬の静寂が落ちる。
直後、白い気配はほんのわずかに距離を詰め、サーラメーヤの鼻先を撫でるように流れていった。
二頭の獣人は心地よさそうに目を細める。
問いに対する明確な答えは返ってこなかった。けれど、その雄弁な沈黙だけで彼らには十分だった。
——望んではいない。
ただ彼が命を終え、ここへ辿り着くという未来を、確かに知っているだけなのだと。
サーラメーヤたちは、再び視線を現世へと向けた。
そこにいるのは、後に世界の理を塗り替え、地獄の王と呼ばれることになる男。
だが今はまだ——何者でもない、ただの人間だった。




