表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

2/20

こはくはヤマを眺める

冥府は、深閑とした静寂に満ちていた。

音がまったく存在しないわけではない。途切れることなく流れる魂たちの揺らめきや、遠くで重厚な門が軋む低い残響が常に漂っている。

だがそれらすべては、光の届かない深い水の底へ沈んでいくかのように、静けさの中へ呑み込まれていくのだった。


その冷えた静寂の中心で、ひとつの「白い気配」がゆらりと揺らめいていた。

明確な輪郭を持たず、人の姿すら形作っていない。ただ、暗がりの中に淡く漂う純白の意志。


冥府の深淵に身を置きながら、その気配は遥か遠くの現世を静かに見つめていた。

まだ命の灯火を宿している、ひとりの人間を。


その傍らには、二頭のサーラメーヤが従順に控えている。

黒と白の斑柄を持つ犬の獣人。左右で異色の瞳を煌めかせた二対の眼差しが、白い気配と同じ遥か遠くの地平を見つめていた。


「……また、彼を見ているのですか」

「随分と長く」


二つの口が、ひとつの呼吸のように滑らかに言葉を繋ぐ。

それを聞いた白い気配は、ただゆるやかに揺れた。無言の肯定だった。


現世には、まだ幼さの残る若い人間がいた。

ヤマ。

人の身でありながら、誰よりも重い罪と裁きの概念をその背に負おうとする男。

白い気配は、その孤高な佇まいを気に掛けている。


「……変わったお方ですね」

「生者をそこまで長く見ることは、滅多にない」


サーラメーヤたちは静かに言葉を交わす。

死者を統べる冥府の存在が、生者へ深く干渉することはない。ただ死の瞬間を待ち、魂を迎え入れることこそが理だからだ。


だが、この白い気配だけは違っていた。

まるで慈しむように見守り、その時が訪れるのをひたすら待つように。

やがて、サーラメーヤの片方が細く長い目をさらに細めた。


「いずれ」

「彼はここへ来ます」


白い気配の揺らめきが、わずかに輪郭を強めた。否定ではなかった。


「貴方は」

「それを望んでいるのですか」


一瞬の静寂が落ちる。

直後、白い気配はほんのわずかに距離を詰め、サーラメーヤの鼻先を撫でるように流れていった。

二頭の獣人は心地よさそうに目を細める。

問いに対する明確な答えは返ってこなかった。けれど、その雄弁な沈黙だけで彼らには十分だった。


——望んではいない。

ただ彼が命を終え、ここへ辿り着くという未来を、確かに知っているだけなのだと。

サーラメーヤたちは、再び視線を現世へと向けた。


そこにいるのは、後に世界の理を塗り替え、地獄の王と呼ばれることになる男。

だが今はまだ——何者でもない、ただの人間だった。

 

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ