ノイズ
「こはく様は本日も屋敷におります」
「そう」
「獄露様もおります」
「……あいつも?」
「はい。いつもおります」
その報告を聞かされるたび、胸の奥に不快な澱が残った。
獄露が秘める性質の全貌は測りかねるが、あの異常なまでの順応性を見る限り、こはくとの親和性は恐ろしいほどに高い。
ならば、こはくの力を摂取しているはずだ。
一度や二度にとどまらず、何度も。
あれほどの強大な質量を持ちながら、こはくに触れることで完全に自己を繋ぎ止められるのなら、その手を求めない理由など存在しない。
案の定、サーラメーヤに問えば、無感情な肯首が返ってきた。
「獄露は、こはく様から力をいただいております」
「……やっぱり?」
「はい」
短く、淡々と。
俺は黙り込み、手元の書類に視線を落とした。
俺だけが知っていたあの感覚を、あの化け物も共有している。こはくに触れ、その莫大な存在の密度を受け止め、満たされていく悦びを知っている。
その事実が、どうしようもなく腑に落ちなかった。
だが、不快感の理由はそれだけに留まらなかった。問題は、獄露がこはくに向ける眼差しが、単なる敬愛や信仰の域を遥かに踏み越えている。
あいつは、明らかにこはくという存在そのものに執着している。そしてその執着の毒は、屋敷の隅々にまで浸透しつつあった。
久しぶりに屋敷へ足を運んだ際、その変化は顕著だった。
門を潜り抜けた瞬間、肌を刺す空気の質が異なる。以前からあの場所には、浮世離れした静寂が横たわっていた。無数の人ならざるものや使用人が行き交うにもかかわらず、外界の喧騒から隔絶された独特の気配。
しかし今の屋敷には、それとは異なる異質な「秩序」が張り巡らされていた。
誰がどこで蠢き、何を遂行し、何刻にどの領域へ向かうのか。
屋敷内で起きるすべての動きが、恐ろしいほどの精度で統制されている。廊下を歩けば、すれ違う使用人たちが一切の無駄なく壁際へ身を寄せ、道を開ける。
乱雑だった仕事の割り振りまでもが、完璧な配置転換によって最適化されていた。
「随分変わったな」
漏らした呟きに、後ろに控えていたサーラメーヤが即答する。
「獄露様が管理しておりますので」
「……あいつ、そこまでやってんの?」
「はい。屋敷内のことは、ほぼ把握しているかと」
ほぼ、どころの騒ぎではないだろう。
喉まで出かかった言葉を飲み込み、奥の回廊を進む。
やがて、目的の白い気配が視界に収まった。こはくはいつものように、静謐な佇まいでそこにいた。
そしてそのすぐ隣に、獄露が佇んでいた。
俺は自然と足を止める。
獄露はこはくのすぐ横に控えていた。仕えるというよりは、そこがはじめから己の場所であると疑わない、傲慢なまでの揺るぎなさ。
こはくが言葉を発せずとも、近づこうとする者を無言の手振りに圧を込めて遠ざける。座せばその周囲の気配を整え、立ち上がろうとすれば先回りして道筋を掃き清める。
至れり尽くせりの従者——そう片付けるには、あまりに過剰で歪な挙動が混じっていた。
こはくが移動しようとすれば、当然のようにその細い腕を掴む。他の者が差し出した品をこはくが受け取ろうとすれば、横から割り込んで手繰り寄せ、危険がないか改める。誰かがこはくに執拗に近づけば、いつの間にかその者を別の雑務へと追い散らす。
支えている。確かに従事している。
だが、俺の目には真逆の光景に映っていた。
獄露がこはくという存在を、完全に自らの管理下に置こうとしている。
「……」
俺はただ、その光景を冷ややかに注視していた。
こはくは拒まない。獄露がその肩に触れようが、腕を拘束しようが、隣に腰掛けようが、風が吹いた程度にしか気にしていない。
あの日、大釜の底で起きた現象と同じだ。こはくの圧倒的な密度に触れても崩壊せず、その力に適応する。そしてこはく自身も、その介入を自然体で受け容れている。
二人の間で、その関係はもう成立してしまっていた。
俺には、それが理解できてしまう。
もしこはくが不快感を示しているなら、俺は迷わずあの化け物を叩き潰しただろう。けれど、拒絶がない。ならば、俺が口を挟む大義名分など存在しない。
だから、黙認するしかない。
ただ——。
(近いな)
胸の奥で、苦いものが蠢く。
近すぎる。
こはくの周囲には、常に静かな空気が漂っている。誰が隣にいようとも侵せない、あいつ固有の領域。
俺はそれを誰よりも深く知っている。長い時を共に過ごしてきたからこそ、その領域に土足で踏み込む泥臭い存在が、異様に目につくのだ。
こはくの隣。その背後。手を伸ばせば触れられる至近距離。
そして獄露は、さも当然のようにその肌へ触れる。
躊躇いもなく、遠慮もなく。まるで、その権利が最初から約束されていたかのように。
俺は苛立ちを隠さず眉根を寄せた。
(あいつ、それが許されて当然だと思ってやがるのが、一番気に喰わない)
何がこれほど気に障るのか、自分でも判然としない。獄露がこはくを重んじていることは確かだ。むしろ、誰よりも苛烈な執着をもって守ろうとしているのだろう。屋敷を完璧に統括しているのも、こはくの居心地を害さないためだ。
頭では理解できる。理解できてしまうからこそ、余計に腹の虫が納まらない。
俺の視線が注がれる前で、獄露がこはくの漆黒の髪に触れた。滑らかな毛並みを弄ぶ指先。こはくは微動だにしない。獄露は確認する素振りすら見せず、当然のように手を離した。
その一連の動作には、あまりに濃密な日常が滲み出ていた。
「……」
俺は不機嫌に目を背けた。
文句は言わない。言う権利もない。こはく自身が許容している以上、外野の俺が立ち入る隙間などないのだ。あいつが誰を傍らに置くかは、あいつの絶対的な自由だ。
それに——。
俺自身だって、こはくの神気を喰らい、その肌に触れ、隣に侍ってきたのだから。
獄露の執着だけを断罪する資格など、俺にはない。
だから、手は出さない。
ただ、不愉快なものはどこまでいっても不愉快だ。
屋敷での用事を済ませ、俺は地獄へ持ち帰る申請書類の束を整理していた。
屋敷側の承認印が押された欄には、またしてもあの墨跡が刻まれている。
獄露。
以前なら聞き覚えのなかった名。今や、日常の至る所で見かける文字。
配下の差配、物資の滞留、外界との折衝、そしてこはくの身の回りの調整。あらゆる権限の根底に、あの化け物の意図が張り巡らされている。
「……」
俺はその文字を、拭うように指先でなぞった。
大釜の泥底から生まれ出た、名もなき蠢く影に過ぎなかった存在。それが今や、こはくの領域を丸ごと自らの手中に納めようとしている。
そしてその中心に、揺るぎなく佇むこはく。
獄露は忠実に仕えている。だが同時に、屋敷という箱庭ごと、こはくを己の抱擁の中に閉じ込めているようにも見えた。
外から見れば過剰なまでに忠実な下僕。しかし俺の目には、到底そんな美しいものには映らない。
あいつは近すぎる。
こはくの静寂な聖域に、我が物顔で居座り続けている。
最初からそこが己の指定席であったかのような顔をして。
「……なんなの、あいつ」
誰もいない裁定の間に、吐き捨てるような呟きが落ちた。
それにもかかわらず、手元の書類の端には、嘲笑うかのように「獄露」の二文字が躍っている。
俺は不快感を隠しもせず、苦い顔でそれを見つめ続けた。
まったく、気に喰わない。
だが、こはくがそれを許している以上、俺はただそれを苦々しく見つめることしかできなかった。




