屋敷に根付いた者
地獄は、何事もなかったかのように平穏を取り戻していた。
大釜の縁をなめる熱気も凪ぎ、あの日鳴り響いていた地鳴りのような重低音も、今はもう嘘のように静まり返っている。
大釜の底から這い上がってきた、正体の掴めない不気味な気配。名前すら持たなかった異形は、こはくの手によって屋敷へと引き取られていった。
あの日、あの場所で何が起きたのか。閻魔はその詳細を知らない。ただ、あの白い気配が紅炎の存在を連れて去ったという事実だけが、燻るように閻魔の胸に残っていた。
「獄露様、ですか」
冷ややかな沈黙を破り、サーラメーヤが淡々と声を紡ぐ。
「こはく様のお側におります」
「……へえ」
閻魔は手元の書類から視線を上げた。
耳慣れない響きの名前だった。だが、名が付いたこと自体はどうでもいい。問題は、その名が持つ意味の変容だった。
「で?」
「屋敷でかなりの勢力を持つようになっております」
「かなり?」
「はい」
サーラメーヤは無表情のまま、わずかな間を置いた。
「……かなり、です」
サーラメーヤの短い沈黙が、やけに長く感じられた。繰り返されたその一言に、閻魔の眉間がぴくりと歪む。
「具体的には?」
「屋敷の管理者たちを、ほぼ力で黙らせました」
「…………」
閻魔は数秒、言葉を失った。手にしていた筆が、ことりと机に転がる。
「揉め事でもあったの?」
「いえ。獄露様が上に立つことに反対する者がいたようですが」
「いたようですが?」
「力で全員捻じ伏せたそうです」
「納得のさせ方が雑だな」
サーラメーヤは否定も頷きもしない。
「獄露様は非常に強力です」
「それは見た」
大釜の底という絶対の禁忌を喰らい尽くして這い上がってきたのだ。尋常ならざる存在であることくらい、最初から理解している。
だが――。
「強いからって、そんな簡単に上に行けるもんなの?」
「屋敷では、それだけでも十分な意味がありますので」
「そういうものかねえ」
腑に落ちない。閻魔の記憶にある屋敷は、癖のある連中が好き勝手にのさばる無法地帯に近かったはずだ。こはくの周囲に侍る者たちも、一筋縄ではいかない者ばかり。
そこへ突如として現れた、底知れぬ異形。それが力任せに支配権を握り、着々と階層を駆け上がっていく。
そしてその日は来た。
「……屋敷付きの上役?」
「はい」
「もう?」
「はい」
早すぎる。
閻魔は呆れたように天井の暗がりを見上げた。あいつは何を考えているのか。
思考を巡らせるうち、卓上に積まれた地獄と屋敷の定期書簡へ視線が滑る。そういえば、ここ最近の処理能力は異常なまでに洗練されていた。屋敷側から送られてくる木簡や紙片には、これまで見られなかった厳格な書式が追加されている。
確認。担当。承認。
そして、その最下部に刻まれた新しい墨跡。力強く、迷いのない筆致だった。
――獄露。
「……これ、いつから?」
「最近です」
「最近って」
「獄露様が屋敷付きの上役になってからです」
閻魔はしばらくの間、その黒々と力強い文字を見つめ続けた。指先でそっとなぞると、墨の凹凸が硬く、生々しい実感として伝わってくる。
大釜の底で蠢いていたはずの存在が、いつのまにか屋敷の屋台骨を支える重要文書にまでその名を連ねている。
「こいつ、強いだけじゃないの?」
「はい」
即座に返ってきた言葉。
「屋敷内の人事をほぼすべて把握しております」
「人事まで?」
「誰がどこに所属しているか。誰が何を担当しているか。誰と誰が関わっているか。どの仕事が滞っているか。誰をどこへ動かすべきか」
サーラメーヤの声は相変わらず一定の調子を崩さない。感情のない声だからこそ、並べられていく情報の異常さが、余計に閻魔の耳にこびりついた。
「すべて把握しているようです」
「……」
閻魔はそっと書類を卓上へ戻した。
圧倒的な武力。研ぎ澄まされた知略。
さらには巨大な屋敷の隅々にまで張り巡らせた管理網。
閻魔は両手で額を押さえた。どう考えても、あの災厄のように蠢いていた不気味な気配と、この整然とした署名の主が同一人物とは思えない。
だが、現実に承認欄の最後には、揺るぎない確信をもってその名が刻まれている。
――獄露。
「……なんなの、あいつ」
己の知らぬ暗がりで。こはくの目前に陣取り。勝手に頂点へ登り詰め。勝手に屋敷全体を手中に収めている。
どうしてか、胸の奥がちりちりと焦げつくような感覚があった。
「……まあ」
閻魔はもう一度、その墨跡に指先で触れた。
「こはくが連れてったんだから、いいけどさ」
納得など到底していない。
だが、あの最悪の底から這い出た異形が、今もなお白い気配の傍らで絶対の楯となっていることだけは、嫌というほど伝わってきた。




