地獄の大釜から生まれしもの
地獄の大釜は周期的に開く。
地獄に流れ着いたものは、すべてがそのまま消えていくわけではない。亡者が抱えていた怨みや呪い、生きている間に積み重なった穢れは、肉体を失ったあとも残る。
それらは地獄の底へ沈み、大釜へ集められていく。
大釜は、それを受け止めるためにある。
普段は重い蓋に閉ざされているが、溜まったものを循環させるため、定期的に開ける必要がある。開ければ中の穢れが動き出し、しばらくの間は釜の周囲にも影響が出る。だから、その日も閻魔は大釜の前に立っていた。
「……さて」
閻魔が重い蓋に手をかける。今日もいつもと変わらぬ作業に過ぎない――そう高を括っていた。
そのわずか後方には、静けさを纏ったこはくが控えている。口を開くことはない。ただ息を潜め、閻魔の影のように寄り添っていた。
蓋がわずかに持ち上がると、大釜の底に潜む黒い濁りが、まるでこはくの気配を察知したかのように蠢き始めた。
隙間から漏れ出しかけていた煙までもが、こはくの足元を目指して磁石に吸われる鉄粉のように、すっと向きを変えていく。
その光景を横目で確認し、閻魔は再び釜へと視線を戻した。見慣れた処理の儀だ。こはくがその場に佇んでいるだけで、大釜に満ちる穢れは吸い寄せられるように一箇所へとまとまっていく。
強大な力で力任せに押さえつけるよりも、遥かに効率的な循環だった。
だからこそ、今日も滞りなく終わるはずだったのである。その時までは。
突如、大釜の深部で不穏な質量が爆ぜた。
たった一つ。異質な存在が、抗っていた。
「……?」
閻魔の視線が鋭く研ぎ澄まされる。
大釜の底。あらゆる穢れが沈殿する、最も濃度が高い暗闇。そこから、重く固まった穢れを突き破って、何が浮かび上がってくる。
それは、こはくへ向かってなだらかに流れるはずの穢れを撥ね退け、力任せに引き裂きながら、まっすぐに登ってくる。ただ周囲の暗濁を破壊しながら突き進む力強さがあった。
「……なんだ、あれ」
閻魔の手が止まった。
単なる「異変」という言葉では片付けられない。釜に囚われたものは、どんな強い穢れもいずれ底に沈んで溶け合い、大釜に混ざりきってしまうはずだった。
しかし、眼下のそれだけは違った。縁に立つこはくへ向かう黒い奔流の中で、唯一つ、物理的な質量を持って垂直に這い上がってくる。
沈殿するどころか、接近するにつれてその存在感は苛烈さを増していく。
黒ずんだ穢れの渦の奥底に、無骨で巨大な輪郭が浮き彫りになった。
「……生き物?」
呆然と呟く声が漏れた。だが、理屈に合わない。死者の穢れの集積地であるこの大釜から、新たな生命が生まれるはずがない。
閻魔の固直した視線の先で、それはまた一つ、黒い塊を砕いて浮上した。
大釜の底では、何重にも積もった不浄がドロドロと絡み合っていた。怨みも呪いも溶けて混ざり合い、黒い泥となって沈んでいく場所――そこに留まろうとすれば飲み込まれ、形を成そうとすれば崩壊する。
それにもかかわらず、その存在はただまっすぐに上を見据えていた。
纏わりつく黒い穢れを振り払い、こはくへ向かう強い引き寄せの力に抗いながら、一歩ずつ確実な足踏みを刻む。
自らの意志で、暗闇を足蹴にして進む。
その足取りに同調するように、大釜全体が重低音を響かせて揺れた。
「……っ」
閻魔は息を呑んだ。
穢れが暴走しているのではない。中の何かが、自らの力でこの牢獄を破ろうとしているのだ。
やがて、黒い泥を纏った強靭な腕が大釜の縁を掴んだ。厚い蓋の隙間から、圧倒的な質量を持つ体躯が這い出していく。穢れの泥がぼたぼたと剥がれ落ちると、その下から、業火を纏った巨大な身体が現れた。
燃えさかる炭のような肌からは、呼吸のたびに爆ぜる火の粉が舞い散り、周囲の空気を焼き焦がす。
釜の中ではいまだ無数の穢れが蠢いているが、その男だけはもう二度と沈まない。
釜の縁を跨ぎ越すと、業火の巨躯は静かにこはくの目と鼻の先へと立ちふさがった。
「……」
閻魔は言葉を失った。
大釜の口からは、今もなお黒い煙が吐き出され、濃密な死気が漂っている。いつもならそのすべてがこはくへと吸い込まれていくはずだった。
だが、目の前の男だけは違う。異剰な力に引っ張られることもなく、ただまっすぐにこはくを視界に収めている。
やがて男は、眼前の存在を砕き折らんとばかりに太い腕を伸ばした。こはくは身じろぎ一つしない。焦土のような指先が、こはくの肌に触れる。
次の瞬間、破壊の衝撃は訪れなかった。
男の目が驚愕に見開かれる。あらゆるものを粉砕してきた自らの拳が、目の前の華奢な存在には通じなかったのだ。
「……は」
苛烈な異形から、低く掠れた声が漏れ出た。
そして、男は凶暴に唇を歪めて笑った。
その表情に宿るのは驚きか、歓喜か、あるいは未知への昂ぶりか。理屈など関係なく、ただ『壊れない』という事実そのものに、男は強く惹きつけられていた。
「いいな」
男は触れた手を離さず、確信に満ちた声を落とす。
「お前、いい」
燃える指先を触れさせたまま、男は動かない。
閻魔にも、それが何者であり、いかなる因果で大釜の底から湧き出たのかも不明だった。
しかし、一つだけ明瞭な事実がある。この異質を、ここに留めておくわけにはいかないということだ。
その時、ずっと静観していたこはくが、かすかに身を揺らした。
大釜の濁りだけを見つめていた瞳が男を捉え、その華奢な手が、業火を纏う男の胸元へと伸ばされる。
指先が触れ合った瞬間。
男の全身から噴出していた猛烈な業火が、まるで風が止んだかのように静まり返った。
「……っ」
閻魔が弾かれたように顔を上げる。
先ほどまで大釜を壊しかねないほど荒れ狂っていた力が、嘘のように穏やかで澄んだ流れに変わっていた。
乱れが消えただけではない。過不足なく、完璧な循環を保って流れている。
閻魔は目を細め、眼前に繰り広げられる現象を注視した。
「……おい」
違和感が確信へと変わる。こはくが力任せに男の勢いを吸い取っているのではない。いつもの無差別な引き寄せとは、根本的に質が異なっていた。
これは――適合だ。
男の内側から溢れ出す破壊的な力が、こはくに触れた途端、過剰な分は削られ、不足した分は補われ、狂いなく噛み合っていく。
力がどちらか一方へ傾くのではない。二人の間には無駄も隙間もなく、不思議なほどの釣り合いが生まれていた。
大釜を揺らしたほどの猛火が、今は耳をすませば消えてしまいそうなほど静寂に満ちている。
「……なんだよ、それ」
思わず口から漏れた呟きは、虚空に消えた。
これほどの規模で他者の存在と力を「噛み合わせる」真似ができる者を、閻魔は知らない。そもそも、誰かに合わせて自らの力を変質させるこはくの姿など、見たこともなかった。
こはくは何も語らず、男の手をそっと引いた。
男が一歩、引かれるように足を踏み出す。無理やりではなく、自分の意志でその後を追っていた。こはくは大釜に背を向け、なだらかな足取りで歩き始める。
「……は?」
閻魔は思考をフリーズさせた。
こはくは一度も振り返ることなく、拾い上げた業火の男を連れたまま、大釜の領域を離れていく。
「ちょっと、待って!」
閻魔の呼びかけも、静寂の中に吸い込まれていく。
釜の周囲にはまだ処理しきれていない不浄の煙が漂い、大釜の蓋すら閉まり切っていない。しかしこはくは一切の未練を見せず、当然のような顔で連れ立っていく。男もまた、自らの意思でその背中を追っていた。
遠ざかる背中を呆然と見送っていた閻魔は、数秒の沈黙の後、深く溜め息をついた。
「……おい!」
もう一度張った声も虚しく届かない。
頭を抱え、閻魔は深く思案する。
止めるべきか?――いや、どうやって?
男はこはくから離れる気など微塵もなく、こはくもまた、離す気がない。ならば、答えは最初から決まっていた。
「……マジか」
閻魔は片手で額を押さえ、吐き捨てるように呟いた。
「そっちが持ってくのかよ……」
大釜から溢れる穢れを相殺するために呼び寄せたはずが、底から湧いた正体不明の異質を連れ帰る羽目になるとは。
二人の後ろ姿が、薄暗い地獄の靄の中に小さくなっていく。歩みは決して止まりそうにない。
閻魔は本日一番の溜め息を吐き出し、ぽつりと落とした。
「……まぁいいか」
あきらめの境地に達した閻魔は、遠ざかる二人の背中に向けて、小さく言葉を投げかけた。
「……ちゃんと面倒見ろよ」




