閻魔と整力 後編
「……遅いですね」
地獄の裁定場。
定刻を告げる時計の針はとっくにその位置を過ぎ去り、部屋の空気は張り詰めていた。
処理されるべき重要書類は山を成し、審判を待つ亡者たちの列は遥か彼方の廊下まで滞り、空間全体が苛立ちを孕んで硬直している。
「あの閻魔様が、時間になっても現れないというのは……極めて珍しい」
古参の部下の一人が、眼鏡の奥の目を光らせながら静かに言った。
その言葉を否定する者は、この場に一人もいなかった。
普段の閻魔は、いかに仕事に対して適当で、いい加減で、気怠げな態度を崩さなくても――このような、職務そのものを物理的に“遅らせる”ような失態だけは絶対に冒さなかったからだ。
そのとき、裁定場の巨大な扉が、一切の予兆なく音もなく開いた。
「……あー、ごめんねー。ちょっと寝過ごしちゃって」
間延びした、緊迫感のひとかけらもない声。
いつもの、人を食ったような調子。
衣服の乱れを微塵も感じさせない完璧な姿で、閻魔が室内へと足を踏み入れてきた。
「どうされたのですか? あなたが遅刻するなど、滅多にないことです」
机に近づいた瞬間、鋭い問いが浴びせられ、室内のすべての視線が彼の一点へと集中する。
閻魔は歩を進めながら、一瞬だけ、その切れ長の目を細めた。
それから、いつものようににこりと微笑んでみせる。それは寸分の隙もない、張り付けたような、綺麗すぎる完璧な笑顔だった。
「お前たちが、知っていいことじゃないよ」
鈴を転がすような軽い調子。
だが、その声音の底には、それ以上の追及を絶対に拒絶する、鋭利な刃物のような一線が明確に引かれていた。
その場の空気が、一瞬にして数度下がったかのように冷たく引き締まる。
「あー、はいはい。分かったからその怖い顔をやめてよ」
閻魔は部下たちの沈黙を気にする風もなく、そのまま自らの最高裁定官の席へと着いた。
重厚な椅子に身体を預けるその動きが、いつもより重く、沈み込んでいるように見える。
だが、その違和感を指摘する者は誰もいなかった。――いや、あまりの威圧感に、誰も指摘することなどできなかったのだ。
「はー……、仕事仕事。さっさと片付けちゃおうか」
山の一角から書類を一枚引き寄せ、木机の上に広げる。
視線を落とす。その声は、いつも通りの、投げやりで退屈そうなものだった。
「次」
短く、空間を切り裂くように告げる。
いつも通り。何一つ、変わったことなどない。
周囲にそう誤認させるように、完璧な王の振る舞いで。
滞っていた執務が、恐ろしい速度で再開される。一切の滞りなく、寸分の狂いもなく、正確無比に。
ただ、その完璧な仮面の奥に隠された、魂を削るような凄絶な疲労の残滓を知る者は、この広大な地獄において、ただの一人も存在しなかった。
◇
最後の重要書簡に鮮やかな決裁の朱印を落としたとき、閻魔はしばらくの間、その姿勢のまま微動だにしなかった。
筆を硯へと戻す、コン、というかすかな音が、誰もいない部屋にやけに重く響き渡る。
「……終わったぁ……」
誰に聞かせるでもなく、天井に向かってぽつりと呟く。
椅子の背もたれに完全に身体を預けると、緊張の糸が千切れ、どっと身体の奥から力が抜けていった。
これまで部下たちの前で完璧に誤魔化し、虚勢を張り続けていた肉体的な疲弊が、一気の濁流となって押し寄せてくる。
「はー……、しんど。身体が鉛みたいだ」
零れ出た声はひどく小さく、誰もいなくなった寂寞たる執務室の床に、静かに吸い込まれて消える。
それでも、今日の分の仕事はすべて終わらせた。完璧に。滞りなく。
いつも通りの、冷酷で完璧な閻魔として。
それだけで、今は十分だと己の魂に言い聞かせるように、閻魔は長い時間をかけてゆっくりと立ち上がった。
一歩を踏み出す足取りは、目に見えて重い。
床を引きずるほど無様ではないが、決していつものような軽快さはなかった。
彼はそのまま、重い扉を押し開けて外の廊下へと出、そのまま庁舎の外へと歩みを進める。
地獄の空は、今日も相変わらず、世界の終わりを予感させるように仄暗い。
だが、それは完全な光を失った闇の世界ではない。どこか血の混じったような、暗赤色の光が、雲の隙間から薄く地表全体を照らし出している。
遥か遠方では、亡者を焼く業火の帯が生き物のようにうねり、風など一切吹いていないのにもかかわらず、炎の先端だけがゆらゆらと不気味に揺れていた。
本来なら肌を焦がすほどの狂気的な熱量があるはずなのに、この中枢においては、それすらも“当たり前の風景”として、冷酷に均されている。
足元に広がるのは、何万年もの熱で黒く乾ききった大地。
至る所に走る不規則なひび割れの隙間から、時折、脈動するように赤いマグマの光が覗いていた。
閻魔は、その荒涼とした世界の中心を、ゆっくりと歩いていく。
自室へと続く、ただ一つの帰路。
誰も立ち入らない、静まり返った一本道。
いつもと何一つ変わらない、退屈で、残酷な景色。
――のはずだった。
ふと、彼の切れ長の視線が、空間の一点で完全に凍りついた。
少し離れた、荒れ地のただ中。
揺れていた。紅蓮の炎が。
だが、それはいつもの、亡者を呪うための“悍ましい燃え方”では断じてなかった。
まるで、生き物のように跳ねるように。
重力から解き放たれて舞うように。
明確な意志と知性を持ったかのように、空中でその形を滑らかに変えている。
細いリボンのように伸び、ほどけ、
また一箇所へと集まり、完璧な円を描いては霧散する。
それはまるで、無垢な子供が玩具で遊んでいるかのような、無邪気な光景だった。
そして、その超常的な炎の舞踏の中心に、こはくがいた。
何も言わず、指先一つ動かさず、ただそこに、一本の楔のように佇んでいるだけ。
それだけであるのにもかかわらず、地獄の猛火はこはくの身体を避けるように、あるいは親愛を示すように、彼の周囲で静かに踊り狂っていた。
爆ぜる赤い光が、こはくの纏う煤ひとつない白い衣に反射し、淡い桜色となって優しく揺れる。
その身を焦がすこともなく、不躾に触れることもなく、ただ“寄り添う”ようにして。
その異様な光景は、ここが凄惨な地獄であることを忘れさせるほどに、ひどく穏やかで、美しかった。
「……なにそれ、意味分かんないんだけど」
閻魔の乾いた唇から、小さく、掠れた笑いが漏れた。
声音には隠しきれない疲労が滲んでいたが、その表情は、ここ数日間で最も柔らかく緩んでいた。
「もしかして、遊んでるの? ひとりで」
問いかけに対する言葉の返事はない。
いつも通りの、静謐な沈黙。
だが――。
こはくの周囲を回っていた炎の帯が、ひとつ、生き物のように大きく綺麗な弧を描いて空へと跳ね上がった。
まるで、彼の言葉に対して、不器用に肯いてみせるかのように。
「……はは、なんだそれ」
短く、喉の奥から息を漏らす。
その刹那、閻魔の肩を押し潰していた目に見えない重力が、ふっと嘘のように霧散した。
あれほど鉛のように重く、引きずるようだった肉体が、奇妙なほどに少しだけ軽くなる。
その現象に、大層な理由や世界の法則なんて必要なかった。
ただ、眼前の存在が“無事だ”と、自らの目で確認できるだけでいい。それだけで、彼にとってはすべての代償が支払われる。
「……まあ、いいか」
ぽつり、と満足げに言葉を落とす。
閻魔はそれ以上近づくこともせず、しばらくの間その場に佇んだまま、こはくの周囲で揺らめき続ける炎の残像を眺めていた。
業火は、存在を祝福するように静かに踊り続ける。
こはくは、変わらず世界の中心でそこにいる。
地獄の世界は、何一つとして変わっていない。
それでも、今日一日、彼の全神経を磨り潰していた重苦しさが、ほんの少しだけ、綺麗にほどけていく気がした。
やがて閻魔は、愛おしそうに目を細めた後、ゆっくりと視線を進行方向へと戻す。
「またね」
届くかどうかも分からない距離のまま、軽く告げた。
返事なんて最初から期待していない。それでも、これで十分すぎるほどだった。
背を向けて、彼は再び自室への道を歩き出す。
帰るべき道のりはまだ少しだけ続く。
だが、その足取りは、この場所へと辿り着いたときよりも、ずっと、羽のように軽やかだった。




