*閻魔と整力 中編
力の流れは、一向に衰える気配を見せない。
ただ肌を触れ合わせているというそれだけの理由で、こはくの奥底から果てしない濁流が流れ込んでくる。
形を持たない未調律の力は、凶器のような純粋な“量”として、閻魔の経絡を焼きながら押し寄せていた。
「……ほんとに」
閻魔が短く、熱を帯びた息を吐き出す。
「お前の力には、限度というものがないわけ?」
零れ出たのは軽口だったが、その視線は、こはくの白い手元から寸分も動かない。
荒れ狂う嵐のまま侵入してくる力を、一本の従順な糸へと束ね直すように。そのまま、余分な質量を削ぎ落としていく。少しずつ、だが確実に、世界の均衡を取り戻すために。
「多いな……。流石に眩暈がしてきた」
自嘲気味な苦笑が漏れる。引き受けても、引き受けても、一向に底が見えない。それどころか、こはくの魂の奥底から、新しく純粋な力が泉のように湧き上がってくる感覚すらあった。
「寝ているだけで力が増すなんて、一体どういう理屈なの」
独りごちる。当然、静寂が答えを返すことはない。
こはくの紅い瞳は、未だ定まることなく彷徨っていた。焦点の合わない、虚ろな硝子のまま、ただ重力の赴くように閻魔の顔の方を向いている。
そのとき、こはくの指先が、微かな摩擦を伴ってわずかに動いた。
閻魔の手を強く掴むわけでも、拒絶して引き剥がすわけでもなく、ただ、互いの指が複雑に絡み合い、決して「離れない形」へと自発的に変容していく。
「……はいはい」
それを見た閻魔の、切れ長の目が細められた。
「今度は、俺を逃がさないってこと?」
面白そうに、低く囁く。
こはくは何も答えない。だが、その指先のわずかな、確実な自己主張だけで、彼にとっては十分すぎるほどの対価だった。
「いいよ」
紡がれた声は、先ほどよりもずっと柔らかく、甘やかすような響きを帯びていた。
「そのほうが、こっちとしてもやりやすい」
重ね合わせた手を、さらに自らの胸元へと少しだけ深く引き込む。
「そう、これ」
小さく満足げに頷く。
言葉を交わさずとも、二人の呼吸と力の波長が合致していく。まるで、最初からこうなることが世界の理で決まっていたかのように、滑らかに。
こはくの胸の上下が、ほんのわずかに深くなった。熱に浮かされたようだった吐息が、静かに、落ち着きを持って落ちる。さっきまで彼の存在を覆っていた“意識の曖昧さ”が、霧が晴れるように少しずつ薄れていく。
「……ようやく、戻ってきたね」
閻魔は、その生存の輪郭を確認するように、安堵を込めて言った。それでも、閻魔はその手を離そうとはしなかった。まだ、引き受けるべき澱みが残っている。
「もう少し、あと少しだけ」
独り言のように言葉を落とす。
「ほら、身を任せな」
わずかに、手前に向かって手を引く。
その誘導に、こはくの内なる流れが、驚くほど素直に従ってついてくる。
「ちゃんと、綺麗に流れてるよ」
そのとき、こはくの紅い瞳の奥が、微かに揺らめいた。次の瞬間、深い闇の奥で、焦点がほんの一瞬だけ、明確に閻魔の姿を捉えた。
「……あ」
閻魔が小さく、子供のように笑う。
「戻った? 俺のこと、分かる?」
問いかける。
しかし、期待された言葉の返事はない。だが、絡み合っていた指先の力が、ほんの少しだけ弛緩した。
さっきまでの、縋るような“掴む形”から、ただ互いの肌が触れ合っているだけの、平穏な状態への移行。
「うん」
閻魔は納得したように深く頷いた。
「そのくらいでいい。上出来だ」
深く、肺に残った熱を吐き出す。
「……ほんとお前ってやつは、いちいち手間のかかる存在だよね」
ぼやきながらも、その声音はどこまでも穏やかで、慈しむような響きに満ちていた。
室内に立ち込めていたあの異常な密度が、ようやく元の平穏な、冷たい空気へと落ち着いていく。
満ちすぎて世界を圧迫していたものが、静かに、あるべき場所へと収まったのだ。
こはくは、変わらずそこに横たわっている。ただ、先ほどよりも確実に、その存在の輪郭が“はっきり”と、この世に繋ぎ止められていた。
◇
「……はー」
深く、長い、魂の底をさらうような息が室内に落ちた。
二人の手は、未だに離れることなく繋がったままだ。暴虐な流れは完全に収まり、均された力は、今や二人の身体の間を穏やかな小川のように静かに巡っている。
「俺も、さすがに……今回はしんどいな」
カクリと、閻魔の頑丈な肩が落ちた。
いつものように軽口として放ったつもりの言葉だったが、引き受けた質量があまりにも肥大だったため、自らの声が思った以上に重く、掠れて部屋に響いた。身体の芯が、膨大な力で満たされたことで、逆にひどく激しい疲弊を訴えている。
こはくは、何も変わらない。ただそこに、静かに横たわっているだけ。
だが、その“ただそこにいるだけ”の圧倒的な存在感に、閻魔の意識はまだわずかに引かれ、囚われていた。
体内に残る、こはくの力の残滓と熱。
それらが完全に抜けきっておらず、彼の神経を心地よく麻痺させていく。
「……ほんと、あらゆる意味で規格外だよ」
乾いた苦笑が唇から漏れる。
急速に、視界の端から輪郭がぼやけ始めていた。限界まで稼働させた脳の回路が停止を求め、意識が、深い底へと少しずつ遠のいていく。
「まあ……、仕事は後回しでいいか」
ぽつり、と誰に対するものでもない諦めの言葉を落とす。
閻魔は繋いだ手を決して離さないまま、自らの大きな身体を、こはくのすぐ隣の空間へと預けた。
静かに、音もなく、糸が切れた人形のように崩れ落ちる動きで、こはくの隣の寝台へと滑り込む。
「ちょっとだけ、貸してよ……」
それ以上は、もはや意味を成す言葉にならなかった。脳のスイッチが完全に切れる。
閻魔は、こはくの纏う純白の香りと異質な体温に包まれながら、泥のような深い眠りへと沈んでいった。
気が整った部屋は、再び完全に静まり返った。
ただ、二つの異なる、けれど確かに調和した呼吸の音だけが、かすかに重なり合って響き続けていた。




