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*整力と閻魔 前編

地獄の最奥に位置する閻魔の自室は、本来であればいかなる高位の亡者も、直属の部下さえも足を踏み入れることを許されない、絶対的な静域である。

重厚な黒檀の扉は常に固く閉ざされているはずだった。


――だが、その日は違った。

わずかに、数寸ほど隙間を開けて、その扉は静止していた。

自室に戻った閻魔は、その手前で一瞬だけ躊躇うように足を止める。


見る前に、肌を刺す気配がすべてを告げていた。異質な密度が、扉の向こうからこちらの廊下へとじわりと滲み出している。


「……いるね」


吐き捨てるようなため息混じりの呟きとともに、閻魔は長い指先で扉を押し開けた

室内の視界が開けた瞬間、彼の視線は部屋の中央に据えられた寝台へと吸い寄せられた。


そこに、こはくがいた。

一切の汚れを拒絶するような純白の着物を纏ったまま、ただそこに投げ出されたように横たわっている。


履物を脱ぐという最低限の猶予すらなく、まるで空からその場所に墜ちてきたかのように、微動だにしない。

肺腑を動かす呼吸の気配すらほとんど感じられず、まるで精巧に作られた死蝋の彫刻のようでもあった。


だが――確かに、そこに在る。

ただそこに肉体が存在しているというそれだけの事実が、部屋の空気の限界まで押し潰し、神気の密度を狂わせていた。


「……なんでここ」


返ってくる言葉がないことも、彼がここへ至った理路整然とした理由など存在しないことも、最初から理解していた。

閻魔は音を立てずに数歩近づき、寝台の傍らから冷徹な視線を落とす。


こはくの長い睫毛は、その双眸を隠すように完全に閉じられていた。

何かを憂うでも、安らぎを得るでもない、永久に変わることのない無表情。ただ静かに、深い精神の底へと沈み込んでいる。


「……まあ、いいか」


喉の奥から小さく息を吐き出す。

いまさらこの存在を部屋から追い出す理由もなければ、その眠りを乱暴に呼び起こす必要性も見当たらない。


「ここなら、まだマシ、か」


誰の耳にも届かないほどの、夜霧のような声音で呟いた。

ここは地獄の中枢であり、自らが敷いた結界の最深部だ。どれほど世界の理を揺るがす存在であっても、余計な有象無象の干渉は届かない。少なくとも、視線に晒される“外”の世界よりは、隠しておくには都合が良かった。


閻魔はそれ以上、その白い衣服の端にすら触れることなく、冷ややかに踵を返す。


「勝手に使っていいけど」


閉まりゆく扉の向こう、背中を向けたまま、いつもの軽薄さを装った声で言い置く。


「壊さないでよ、俺の部屋」


当然、暗闇からの返答はない。だが、彼にとってはそれで充分だった。

重い扉がカチリと音を立てて完全に閉ざされ、部屋には再び、濃密すぎる静寂だけが取り残された。


◇


どれほどの時間が経過しただろうか。課せられた執務をひと通り終え、閻魔が再び自室の前へと戻ってきたとき、状況は一変していた。


時間にして、さほど長い離脱ではなかったはずだった。にもかかわらず、彼は扉に手をかける手前で、明確な戦慄とともに足を止めた。


「……あれ」


開ける前から、鼓膜と肌が異常を察知していた。

扉一枚を隔てた向こう側の“濃さ”が、数時間前とは明らかに異次元の領域へと達している。


「……さすがに、やりすぎでしょ」


呆れと、それを上回るかすかな焦燥を隠すように呟き、閻魔は扉を乱暴に開け放った。

瞬間、室内に充満していた目に見えない質量が、津波のように廊下へと溢れ出し、彼の肩を重く沈めさせた。


視界に映る光景そのものは、先ほどと何も変わらない。寝台の上で横たわる、こはくの姿。

変わらない姿勢。変わらない、凍りついたような表情。

――それなのに、決定的な何かが崩壊しかけていた。


「増えてるね。いや……満ちてる、か」


閻魔は声を低くし、静かに呟いた。

こはくの身体の輪郭をなぞるように、本来なら凡夫の目には見えないはずの力が、陽炎のように空間を歪めて満ち満ちていた。


それは周囲へ向けて牙を剥き、溢れ出しているわけではない。だが、その空間が保持できる限界値へと、確実に近づいている。

ただそこにあるだけで周囲の法則を書き換えてしまうような、未調律の巨万の力が、ただ底なしに湧き出していた。


「……眠っているだけでこれなんて、冗談きついな」


乾いた苦笑が漏れる。

閻魔は革靴の音を殺し、ゆっくりとその絶対領域へと足を向けた。

一歩。

その足を進めるだけで、周囲の空間がガラスの軋むような音を立ててわずかに歪む。


「……これは」


閻魔の声音から、いつもの軽薄さが完全に削ぎ落とされる。

このままこの暴走する質量を放置すれば、遠からずこの部屋の壁を突き破り、地獄の全土へと滲み出すだろう。ここはどれほど強固な地獄の内側であっても、世界としての最低限の均衡というものがある。


「さすがに、そのまま寝かせておくわけにはいかないか」


寝台の真脇で足を止め、閻魔は眼下の存在を凝視した。こはくは相変わらず動かない。自らの内側から溢れ出る濁流が、世界を崩壊させかねないことなど、何も知らないかのように深く眠り続けている。


――あるいは、実際にはすべてを自覚していながら、ただ狂おしいほどに「どうでもいい」だけなのかもしれなかった。

閻魔はしばらくの間、その神聖な破壊の器を見下ろしていた。


「……困るんだよね、俺としても」


ぽつり、と夜の底に言葉を落とす。

彼は静かに、その長い右手を伸ばした。


「……ほんと、お前を見てると基準が狂うよ」


閻魔は自嘲するように小さく笑った。

意を決し、その指先がこはくの頬にわずかに触れる。

その瞬間、部屋全体の空間が、さらに深く、底のない沼のように沈み込んだ。

沈殿していた高密度の力がわずかに揺らぐ。


「……ん」


閻魔の喉から、小さく、押し潰されたような息が漏れた。

触れられた刺激に、遅れてこはくの指先が、ほんのわずかに脈打つように動いた。それだけ。


やがて、閉じられていた瞼が、世界の終わりを告げるようにゆっくりと開かれる。

現れたのは、深い深紅の瞳。

だが、その双眸にはいかなる焦点も結ばれていなかった。

その瞳の奥は、まるで高熱を持ったかのように、鈍く、昏く濁っていた。


「起きた?」


声をかける。

返答はない。だが、こはくの視線がほんのわずかに、吸い寄せられるようにしてこちらへと動いた。

焦点は依然として合っていない。


「……あー」


閻魔はその混濁した様子を至近距離で見つめ、小さく、呆れたように笑う。


「これは、完全にだめなやつだね」


口調こそいつもの軽薄さを取り戻していたが、冷徹な脳が下す判断は迅速だった。

こはくの吐き出す呼吸が、わずかに浅く、熱を帯びている。内側で際限なく膨らみすぎた無秩序な力が、“意識の輪郭”そのものを曖昧にし、内側から焼き焦がしているのだ。


「抜かないと、壊れる」


ぽつりと言った。

こはくは動かない。その処置に対する拒絶も、肯定も、あるいは感謝もなかった。ただ、重ねられた指先が、ほんの少しだけ開かれる。彼ができる精一杯の、あるいは無意識の、受容の兆し。


「……いいね、素直で」


閻魔は迷うことなく、その開かれた手の上に自らの掌を重ねた。

互いの掌が完全に密着した、その瞬間。部屋の密度が、限界を超えてさらに深く沈降する。


「っ……!」


閻魔の胸の奥で、わずかに息が詰まった。

重い。一切の制御を受けず、形すら持たない濁流のような力が、接触面を通じてそのまま閻魔の体内へと容赦なく流れ込んでくる。


「ほんと、加減を知らないというか……容赦ないな」


顔を歪めながらも、苦笑を浮かべる。だが、どれほどの衝撃が身体を駆け巡ろうとも、その手を離すことだけはしなかった。


こはくの紅い瞳は、いまだ焦点を結ばない。ぼんやりとした硝子玉のようなまま、ただ閻魔のある方向を向いている。

それでも、閻魔はその手を握り締め続ける。


「大丈夫」


自分自身に言い聞かせるように、軽く言った。


「全部、こっちで引き受けるから」


呼吸を深くし、体内に流れ込む力を強引に“整える”。

ただ闇雲に引き抜くだけではない。入ってきた力が自らの内で暴れないように、そしてこはくの霊脈が歪まないように。薄氷を踏むような慎重さで、少しずつ、少しずつその濁流を濾過していく。


こはくの身体が、電流を流されたようにかすかに揺れた。その唇から、微かな、熱い吐息が零れ落ちる。それだけの、微小な反応。


「……ほら」


閻魔は視線をその繋いだ手元に落としたまま、作業を続ける。


「溜め込みすぎなんだよ、いつも」


咎めるような言葉の響きの中に、責める意図はひとかけらも存在しなかった。


こはくは何も言わない。だが、重ねられた手はそのままだ。そこから逃れようと引き抜くことも、逆に強く拒むこともなく。ただ、確固たる質量として“そこにある”。


「いいよ、そのまま動かないで」


閻魔は、昏い歓喜を滲ませて小さく笑った。


「全部、俺がここで処理してあげる」


静寂に満ちた部屋に、その声だけが優しく、かつ支配的に響く。


そのまま、果てのない時間をかけてゆっくりと。

満ちすぎてこはくを蝕んでいた大いなるものを、削ぎ落とすように、自らの内へと吸収していく。


地獄の夜は、まだどこまでも深い。

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