不敬 / 地獄の道
屋敷の客間には、硝子を一枚隔てたような冷ややかな緊張が流れていた。外界の神。頭頂から長い角を生やしたその神格は、こはくの屋敷へ幾度か足を運んでいる訪客であった。
だが、今日の空気は明らかに一線を画している。
「……所詮は曖昧な存在でしょう」
嘲弄を孕んだ声が静寂を割る。
「形も定まらぬものに、そこまでの価値がありますか?」
瞬時に客間の呼吸が止まる。控えていた屋敷付きたちが息を呑んだ。
だが、誰よりも早く動いたのはサーラメーヤだった。こはくの斜め後ろで静観していた黒白の獣耳が、ぴたりと止まる。毛並みを揺らしていた尾の動きも完全に途絶えた。
静かに、怖ろしいほど静かに。サーラメーヤは一歩、前へ踏み出す。
「発言を訂正してください」
地の底から響くような低い威圧。だが神は鼻で笑い散らした。
「事実でしょう。“白い気配”など、定義すら曖昧だ。神格として不安定――」
そこまでだった。言葉の続きが、唐突に途切れる。
空間が歪んだ。神の足元に広がる、一切の光を呑み込む黒い裂け目。地獄への道が開いたのだ。
神が滑稽なほど目を見開く。
「な――」
重力に従い、身を躍らせる余裕すらなく落ちていく。絶叫すら途切れて届かなかった。
静寂が再び客間へと降り立つ。
あまりの事態に屋敷付きたちが凍りつく中、サーラメーヤは何事もなかったかのように、しなやかな所作でこはくへ向き直った。
「失礼致しました」
こはくは何も言わない。ただ静かに、雪のように冷ややかな白い視線を向けているだけだった。
その頃、地獄の裁定の間。
「閻魔様」
地獄側のサーラメーヤが淡々と口を開く。閻魔は散らかった書類に目を落としたまま、気のない声を返した。
「んー?」
「屋敷側より報告。外界神一柱、こはく様へ不敬」
閻魔の走らせていた筆先が、ぴたりと止まる。
「……へぇ」
「現在、地獄へ投下済みです」
空気が一変した。ほんの一瞬で裁定の間の温度が急降下し、壁面の岩肌が霜を纏っていく。
閻魔はゆっくりと顔を上げた。いつも浮かべている軽薄な笑みが、跡形もなく消え去っている。
「どの程度?」
サーラメーヤが淡々と、機械のように言葉を重ねる。
「存在否定に類する侮辱。こはく様個人、及び存在性への軽視発言を確認」
落雷の前の沈黙。閻魔は静かに立ち上がった。その瞬間――。
地獄の奥底で、伏していた業火が咆哮を上げた。突風のような轟音とともに、赤黒い炎が空間を激しく引き裂く。
天から叩き付けられた外界神が、黒焦げの地面へ無様に転がった。
「が、っ……!」
神が苦痛に歪む顔を上げる。
その目前に、閻魔が立っていた。足音すら立てず、怒鳴り散らすこともない。だが、全身から放たれる圧殺的な気が、皮膚を焼き切らんばかりに迫っていた。
神はようやく事態の致命性を悟る。まずい、これは、本当に――。
閻魔はその前へ立ち塞がる。赤い瞳は、極寒の氷床のように冷え切っていた。
「外界に居ると忘れるのかな」
穏やかな声調。だが、そこには一切の熱が存在しない。
「神なら許されると思った?」
業火が狂おしく広がり、神の足元を容赦なく焼き尽くしていく。
鼓膜を刺す悲鳴。
だが閻魔の眉ひとつ動かない。
「神とて、許されないことはあるよ」
熾烈さを増す赤黒い火柱が、神格そのものを内側から灼き崩していく。
神が喘ぐように喉を鳴らす。
「や、め……」
閻魔は冷酷な眼差しで見下ろしていた。
「君さ“曖昧”を軽んじたよね」
一歩踏み出すごとに、業火が歓喜するように揺らめく。
「形が定まらないから弱い? 定義できないから価値が無い?」
閻魔の唇が小さく弧を描いた。血の通わないその笑みこそが、何よりも恐ろしい。
「だから嫌なんだよ、外界の神って」
爆発する炎。灼熱の激痛に伴う神の悲鳴が、地獄の空洞へ虚しく響き渡る。
周りに控える裁定官たちも、獄卒たちも、固唾を呑んで絶句している。
その禁忌を踏み越えた者に待っているのは、容赦のない破壊だけだった。
閻魔は静かに燃え盛る炎を見下ろし、冷え切った一言を言い渡す。
「――焼けるまで反省してて」
閻魔はその光景を退屈そうに見やりながら、隣に佇むサーラメーヤへ視線を流した。
「お前さぁ」
「はい」
「判断早くない?」
サーラメーヤは静かに頭を垂れる。
「こはく様への不敬でしたので」
「いや、それはそうなんだけど」
閻魔は呆れたように笑いを殺した。
「普通、一回くらい警告とか挟まない?」
「必要性を感じませんでした」
間髪をいれぬ即答。閻魔はついに吹き出した。
「ははっ、やっぱ最近ちょっと俺寄りじゃない?」
「閻魔様は、こはく様関連への対処が極めて迅速ですので。事前対応が合理的かと」
閻魔の動きが数秒ほど固まる。そして、抗議するように口を尖らせた。
「合理的って言い方やめて。なんか俺が危険人物みたいじゃん」
サーラメーヤは無表情のまま、静かに瞬く。
「違うのですか」
「違くはないけど」
閻魔は苦笑した。その頃にはもう、周囲を圧迫していた冷酷な空気は霧散している。
ただ業火だけが不気味に燃え続けていた。閻魔は深く椅子へ背を預ける。
「でも助かるよ」
息を吐くように、ぽつりと呟いた。
「俺が出る前に、大体お前らが弾いてくれるし」
屋敷側での未然防衛、危険排除、空気の精査。果ては地獄への転送。あまりに隙のない手際の良さだった。
閻魔はサーラメーヤを見上げる。大きな黒白の獣耳と揺るぎない尾。常に完璧な礼節を保ちながら、その内側は恐ろしく苛烈だ――こはくの件に限って、ではあるが。
「いや〜……俺の部下優秀〜」
その言葉に、サーラメーヤの尾がゆったりと弧を描いた。最高の賛辞として受け取ったらしい。閻魔はそれを見て、さらに目尻を下げた。
「しかも勝手に俺基準学習してるし」
「効率化です」
「怖い怖い」
口ではそう言いながらも、表情には隠しきれない満足感が滲んでいた。自分が直接手を下す前にサーラメーヤが察知し、しかも二層の空間で同時に連携処理してくれる。もはや優秀な側近を超え、己の神経が拡張されたかのような快適さだった。
炎の向こうで、外界神が弱々しく呻く。閻魔は冷ややかな目をそちらに向けた。
「ほら、次から気を付けなよ」
軽い口調だが、神の全身は恐怖でガタガタと震え上がった。先ほど見せつけられた、底なしの絶対的な冷酷さを知ってしまったからだ。
閻魔はその震えを冷ややかに見送り、隣のサーラメーヤへ誇らしげに語りかけた。
「いやほんと、お前居ると仕事しやすいわ」
◇
地獄と屋敷の二領域は、本来ならば生と死の境界線で固く隔てられている。高位の神格であっても、往来には厳格な手順と相応の代償を払わねばならない。
だが、こはくという存在だけは例外だった。その深淵なる境界を、サーラメーヤという不変の架け橋が繋ぎ止めているからである。
静まり返った夜の屋敷廊下。行灯の灯火は落とされ、濃密な闇が足元を覆っている。その暗がりの中を、こはくが静閑に歩を進めていた。先導するのは、屋敷側のサーラメーヤ。静寂を破る獣の足音が、木床に刻まれる。
渡り廊下の半ばで、サーラメーヤが唐突に足を止めた。振り返る所作とともに――。
「こはく様」
静謐な声に応じるように、足元から暗黒の亀裂が走る。空間が悲鳴を上げて軋み、固唾を呑んだ屋敷付きたちの肌を刺すような衝撃波が抜けた。
地獄へと通じる歪みの道。サーラメーヤが二つの領域を強制接合した移動路である。暗黒の割れ目の奥底には、揺らめく赤黒い業火の残光が覗いていた。
こはくは躊躇うことなく一歩を踏み出す。裂け目へ足を沈めた瞬間、屋敷の静かな空気は消散した。
肌を灼く熱気と、鼻腔を突く濃密な死の匂い。視界が一面の赤へと染まり、こはくは滑らかに地獄の地へと降り立った。
裁定の間では、閻魔が机に突っ伏して絶望的な声を上げていた。
「……無理ぃ」
山積みの書類。伸び続ける亡者の処理、外界神からの理不尽な苦情、古き封印の更新作業。閻魔の精神は擦り切れかけていた。
その時、地獄側サーラメーヤの耳がぴくりと動く。
「閻魔様」
「ん〜……?」
「こはく様到着」
閻魔が弾かれたように顔を上げた。
「えっ来たの!?」
死人のようだった顔に、一瞬で生気が蘇る。サーラメーヤは淡々と状況を通知した。
「屋敷側より移送完了。現在、第六門通過」
閻魔は勢いよく立ち上がる。
「早っ」
通常、領域の移動には莫大な時間と手順を要する。しかしサーラメーヤを触媒にすれば、二つの領域は直通の回廊へと変貌するのだ。
間もなく、裁定の間の空間が歪み、黒い門が静かに開かれた。
その亀裂から、こはくが姿を現す。圧倒的な白い気配が、地獄の重苦しい空気を浄化するように浸透していく。
閻魔は破顔した。
「いらっしゃい」
こはくは応えず、静かに歩み寄ってくる。
両脇に控えたサーラメーヤたちが門の維持を続ける中、閻魔は感心しきりといった様子で口を開いた。
「ほんと便利だねぇ、お前ら」
サーラメーヤは素っ気なく応じる。
「領域接続は、我々の役割の一部ですので」
「いや役割多すぎでしょ」
閻魔は爆笑した。だが、客観的に見れば異常極まる能力だった。本来なら絶対に交わらない生者と死者の領域を、一本の安定した回廊として繋ぎ止めてみせる。
緊急時にはこはくを即座に地獄へ避難させ、逆に閻魔が屋敷へ臨幸することも叶う。さらには、先ほどの外界神のように、即座に罪人を地獄へ投獄する手段としても機能するのだ。
その圧倒的な利便性を思い返し、閻魔は再び目尻を下げた。
「いや〜……ほんと俺の部下優秀」




