サーラメーヤとこはくの力 後編
冷えた佇まいを保つ冥府の深淵にて、空間のひずみが一瞬だけ弾けた。気配の波紋が広がり、秩序ある空気が微かに輪郭を乱す。その歪みの中心には、白く揺らめく光が佇んでいた。
こはく。
いつもなら完璧に研ぎ澄まされている存在だが、今は内なる力が高密度の質量となって膨張していた。
その異変を感知し、影が素早く滑り込んだ。双子の獄卒、サーラメーヤ。
「こはく様」
呼びかける声は凪いでいる。返答の代わりに白霧のような気配が微動した瞬間、サーラメーヤは迷わずその身体を抱え上げた。
肉体の重みではなく、領域そのものの質量が腕に圧しかかる。触れる者を摩耗させる存在の密度をそのまま受け止めながら、サーラメーヤはただ粛々と脚を進めた。向かうは、閻魔の座す裁定の間。
腕の中のこはくは暴れもせず、ただ過密な気配を静かに内側へ沈めていく。淡々と運ぶその足取りに、躊躇や迷いは一切存在しなかった。
重厚な扉が開き、書類の山に埋もれていた閻魔が顔を上げる。
「……こはく、乱れてるの?」
溜め息混じりの呟き。腕の中の白い光に視線を止めると、持っていた書類を机へ放り投げた。
「いやさ、それ普通に持ってくるものじゃないんだけど」
サーラメーヤは躊躇なく膝を折る。
「整力が必要と判断しました」
「いや、分かるけどさぁ」
視線を注がれたこはくの気配は、荒れ狂う波のようでありながら壊れてはいない。ただ満ち満ちて熱にうなされているように短く息をしている。
「ていうかさ、お前よく平気だね。力が乱れてるときのこはく触るの、普通結構きついよ?」
触れ続ければ魂の感覚すら擦り切れる高密度の気配を、当然のように抱え続ける姿への純粋な疑問。
「慣れておりますので」
一切の感情を排した答えに、閻魔は短く息を吐いた。
「慣れ、ね」
椅子を蹴るように立ち上がり、こはくの側へと歩み寄る。
「お前らってそういうとこあるよね」
微動だにせず支え続けるサーラメーヤへ向け、閻魔は気配の輪郭へと手を伸ばした。接触する直前、皮膚を刺す圧を感じて指を止める。
「抜いて整えてる、って感じか」
「はい」
「俺はさ、それ、触るのちょっと怖いんだけど」
冗談めかした口調の裏にある本心。
サーラメーヤは抱えていた身体をゆっくりと滑らせ、閻魔の腕へと預けた。受け渡された瞬間、荒れていた白が安らぎを得たように静まり返っていく。
「……はいはい、いつも通りだね」
閻魔の傍らで穏やかに沈殿していく気配を確認し、サーラメーヤは滑らかに立ち上がった。
「では。復帰確認は不要と判断します」
「いいよいいよ、いつも助かってる」
静寂を残して去っていく背中を目で追い、閻魔は呟いた。
「慣れてる、ねえ」
隣に漂う温かな気配に視線を落とし、困り果てたような苦笑を浮かべる。
「……あいつらさ、お前の扱い俺より上手くない?」
刻一刻と巡る地獄の時間の中で、こはくは閻魔の隣に静かに佇み、徐々に元の静謐を取り戻していった。
◇
その日、こはくは外界の神域で行われる祭祀に招かれていた。付き従うのは、こはくに仕える片方のサーラメーヤだった。
祭壇の並ぶ広場を、こはくは静かな足取りで進む。サーラメーヤは一定の距離を保ちながら、周囲の気配を絶えず精査していた。
穏やかな観測は、唐突に崩れ去る。外部からの過剰な情報の渦に巻き込まれ、こはくの気配が急激に乱れ始めたのだ。
屋敷へ持ち帰る猶予もない。整力を持たぬ自分にできるのは、ただこの高密度の存在を抱えて帰還することのみ。サーラメーヤの判断は一瞬だった。
同時に、地獄側の片割れへと情報が伝播する。
裁定の間。書類の山と格闘していたサーラメーヤの動作が止まった。
「閻魔様。こはく様が、出先にて力の乱れを起こしております」
「また?」
聞き慣れた報告に眉をひそめる閻魔へ、淡々と状況が告げられる。
「距離が遠く、屋敷への帰還は困難。現在、片割れが単独で対応中」
そして、静かな決意を込めて告げた。
「……地獄に繋げても、よろしいでしょうか」
書類を押さえていた手が止まり、閻魔の視線が鋭く刺さる。
「つなげるって、アレね」
本来交わることのない別層の空間。だが、すべてを共有しているサーラメーヤの特異な回路を使えば、地獄と外界の間に無理やり道を作ることができる。
「あー、いいよ。落としてきて」
「承知しました」
空間の縫い目が引き裂かれ、地獄と外界が直結する。次元の歪みを通じ、乱れた気配を抱えたままの存在が手繰り寄せられていく。
直後、サーラメーヤの腕の中にこはくの姿が実体化した。外の乱調を身に纏いながらも、無事に収容された姿。
「……来たね」
「無事転送完了しました」
歪んだ気配を静めるように寄り添う閻魔は、膝をつくサーラメーヤへ近づき、その歪みを確かめるように見下ろした。
「お前さ、ほんと便利なとこにいるよね」
沈黙を守るサーラメーヤの横で、閻魔はこはくの目線まで屈み込む。
「……助かった」
それは、危機を脱した安堵と共に、この場所に帰ってきた存在そのものへ向けられた、静かで温かな吐息だった。
こはくは何も語らない。ただ閻魔の放つ気配に抱かれながら、乱れた密度をゆっくりと解きほぐされていった。




