サーラメーヤとこはくの力 前編
冥府の廊下は、今日も静けさに満ちていた。
亡者たちの気配は遠く、裁定の間から響く事務的な物音だけが、かすかにこの場所の"生きている"感覚を保っている。
書類を片手に歩いていた閻魔は、ふと足を止める。その視線の先には、寸分違わぬ二つの影が並んでいた。同じ気配を纏う双子の獄卒、サーラメーヤ。常に変わらぬ端正な姿勢で控える彼らに向け、閻魔は軽く肩を回しながら近づいた。
「なあ」
手元の書類をひらひらとなびかせる。
「ちょっと聞きたいんだけどさ」
寸分の狂いもなく、ふたつの頭が同時に下がる。
「はい、閻魔様」
閻魔は何でもないように問いかけた。
「お前さこはくの力、受けたことある?」
その瞬間、静寂が廊下に沈殿する。獄卒らしからぬわずかな間を置いて、返答は滑り落ちた。
「ありません」
迷いのない即答。閻魔は眉をわずかに寄せ、瞳を細める。
「へえ、意外」
軽薄な声遣いとは裏腹に、その眼差しは冷ややかだった。
歩みを再開し、床を踏み鳴らしながら言葉を継ぐ。
「距離的には一番近いのに」
サーラメーヤは視線を伏せたまま、淡々と音を紡ぐ。
「我々は仕えるものですので」
「それ以上の接触は必要ありません」
閻魔の喉から、小さく乾いた笑いが漏れた。
「律儀だねえ」
ふっと吐息を混じえ、低く落ちるような本音を覗かせる。
「でもさ、俺より長くいるのに」
双子の獄卒へ静かに焦点を合わせる。
「よく耐えられるね」
冥府の空気へ、鉛のような重みが微かに混じり始める。
「こはくの力ってさ、普通に崩れる神、結構いるよ」
言葉通りの事実だった。押し潰すような威圧や圧迫感ではない。ただ、存在そのものが持つ極度の密度が、周囲の領域を容赦なく摩耗させていく。近づくだけで息の根を止められる神気。
それにもかかわらず、平然と佇む双子の獄卒はやっと顔を上げた。
「こはく様は」
「我々に対して力を向けることがありません」
一拍の静寂。
「そもそも」
「向ける対象として認識されていないのだと思われます」
閻魔は肩を竦め、息を吐き出した。
「それ、ちょっと悲しくない?」
軽口に混じる好奇。だが、サーラメーヤの表情は一切揺らがない。
「いいえ」
「それで構いません」
退路を断ち切ったような断定。閻魔は壁に背を預け、興味深そうに腕を組む。
「ふーん。じゃあさ、お前ら的にはこはくってどういう扱いなの」
わずかなタメすらも、完璧な間合いとして統制されていた。
「主です」
「それ以上でも、それ以下でもありません」
閻魔の眼差しが鋭さを増す。
「でもさ、お前らって割と強いじゃん。それでも“力向けられない”って結構特別じゃない?」
「はい」
「ですが、それは恐怖ではありません」
閻魔が首を傾ける仕草だけで返事をする。
「ある種の“縛り”です」
その単語に、閻魔の眉がわずかに跳ね上がる。
「縛り?」
サーラメーヤは静かに頷いた。
「我々は仕えるものとして」
「こはく様は在るものとして」
「その関係性が最初から固定されている」
「ゆえに、力の干渉が発生しない」
沈黙が二人の間に落ちる。やがて、閻魔の唇がゆっくりと弧を描いた。
「へぇ。それ、結構いい関係だね」
声の軽さの奥に、本音が微かに滲む。沈黙を守るサーラメーヤの背後で、閻魔は暗い天井を見上げた。
「俺さ、こはくに対してそういうの全然ないんだよね」
答える者のない静寂の中、閻魔は苦笑混じりに肩を揺らす。
「縛りとか距離とかさ、普通はあるもんじゃん」
自嘲気味な笑みが漏れた。
「でもあいつ、全部無視してくるからな」
呆れ果てた言葉の裏に揺らぐ、不思議な安心感。閻魔は視線を手元に戻す。
「まあいいや」
手を軽くひらめかせた。
「変な話ありがと」
「恐れ入ります」
サーラメーヤが一礼して歩き出すと、その気配は水滴が落ちるように暗がりへ溶けていった。去り行く背中を見つめ、閻魔は一人ごちる。
「縛り、ねえ」
小さく息を漏らした。
「……こっちはもう、そういうの全部自分で壊してるけどな」




