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地獄の業火の王

 その日、こはくには地獄へ行く予定が入っていた。

 閻魔は地獄の王としての仕事を果たすため、自ら屋敷まで迎えにやってきていた。廊下を静かに歩いていたこはくの姿を見つけると、親しげに寄り添う。


「あーいたいた、迎えに来たよ」


 声をかけた直後、廊下の奥にある執務室の扉が開き、体格の良い大男が姿を現した。獄露だ。

屋敷の予定を仕切っている獄露が、こはくの動きを見逃すはずもない。こはくが外へ出ること自体を嫌がる獄露にとって、出先で行動を共にする男が馴れ馴れしく近づいてくる光景は、見過ごせるものではなかった。


 刺すような視線を感じつつも、閻魔は気にした様子もなく、こはくだけを見つめる。


「じゃあ、借りるね」


 軽い一言。その瞬間に、張りつめていた緊張が弾け飛んだ。


「……待て」


低い制止の声。だが、それよりも早く閻魔の手がこはくへ伸びる。


 一気に踏み込む獄露の足が、床板を激しく軋ませた。焦げるような熱気が、その一歩ごとに廊下へ押し寄せてくる。距離を詰める突進。止めるための動きだが、その勢いは到底止まりそうにない。巨体の輪郭が不気味に歪む。


「――触るなァッ!!」


 咆哮。音というよりも、空気を押し潰すような重い圧力だった。次の瞬間、肉体が膨れ上がる。

人の形が崩れ、骨が軋み、肉が引き裂かれるように広がって、巨大な水牛の姿へと変貌した。炭火のように赤黒い業火を全身に纏い、その巨体が踏み出すだけで床が深々と沈み込む。

鋭い角を閻魔へ向け、一直線に突き進む。止められる者など、ここにはいない。


「うわ、マジか」

 閻魔は呆れたように目を細めたが、退く気配は見せない。伸ばした指を少しだけ動かす。

ボコッと空間が裂け、内側から粘りつくような赤黒い業火が溢れ出した。

それが鎖のように、水牛となった獄露の足元へ絡みつく。


「――ッ!!」


 獄露は床を噛み砕きながら、閻魔の喉元へとまっすぐに迫る。


「元気だねえ」


 軽い声。次の瞬間、空間そのものが一気に炎に包まれた。地面から、虚空から生じた炎の帯が、脚、胴、太い首を容赦なく縛り上げていく。

締め付けられ、肉を灼かれながらも、獄露は進む。力任せに炎を引きちぎりながら、無理やりに前へ。 


「はいはい」


 閻魔が一歩だけ距離を詰め、ゼロになる。そのまま、突き出された水牛の額へ軽く触れた。瞬間、外を覆っていた炎が内側へと逆流する。

獄露の身体がびくりと硬直して、動きが完全に止まった。


「落ち着いて」


 高低のない声。命令でも何でもない、ただの処理としての言葉。炎が内側から押し潰すように締め上げると、膨れ上がっていた肉体が軋みながら縮んでいく。

骨が組み替わり、無理やり人の姿へと引き戻された。

膝が床につき、獄露の荒い息遣いだけが響く。だが、その瞳に宿る凶暴な光は消えていない。


「……っ、返せ」


 絞り出すような声。その瞬間、炎の拘束がさらに強まった。


「地獄生まれのお前が俺に勝てるわけないでしょ」


 即答。どこまでも軽い声だった。指一本動かせないほど、完全に縛り上げられる。

 

 閻魔はもうそちらを見てもいない。自然な動作でこはくの手を取った。何か特別なことをしている風でもなく、ごく普通に。 


 こはくは抵抗せず、視線も動かさない。ただ静かに、倒れ伏す獄露を見つめている。


「じゃ、行ってくるね」


 ひらひらと手を振って、閻魔は背を向けた。

 獄露は動けぬまま、遠ざかる背中を呪わしげに睨みつける。届かず、止められず、何もできないまま。


 こはくもまた、立ち止まったまま静かに獄露を見つめ、やがて閻魔のあとに続いて歩き出した。


 その光景を背中で感じながら、閻魔の胸には、どこか意地の悪い満足感がじわりと広がっていた。

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