ここぞとばかりに甘える
閻魔の自室は静まり返っていた。
本日の裁定も全て終わり、急な呼び出しもなく、久しぶりに完全な空白の時間が落ちていた。
広い寝台の上で、こはくはいつものように静かに座していた。
漆黒の髪。
ほの暗い灯りを吸い込むような深い色。
人のカタチをとっているというのに、人間よりも遥かに静かな気配を纏っている。
その隣へと、閻魔がどさりと身を投げ出してきた。
姿は、瑞々しさを残した十代半ばの姿だった。
同じ黒髪。
よく似た輪郭。
こはくと鏡のように対になった姿。
だが、そこに流れる空気だけはまるで異なっている。
閻魔は深々と溜め息を吐き出すと、そのままこはくの華奢な肩へと己の額を押し当てた。
「聞いてよ」
少し高い声に似合わない疲れ切った声。
こはくは動かず、ただそこに佇んでいる。
閻魔は構わずに愚痴をこぼし始めた。
「今日さぁ、“こはくの代わりになってください”とか言ってきた馬鹿がいてさ」
静かな間。
部屋の空気が、ひやりと肌を刺すように冷えた。
行灯の灯りまでもが、心なしか揺れを止めたように感じられた。
気づいた上で、少しだけ苦笑いを浮かべた。
「でしょ? 俺もまったく意味分かんなかったもん」
ぐりぐりと、こはくの肩へ頬を擦り寄せる。
「姿が似てるのは分かるよ? でもさぁ」
声には明らかな不満が混ざっていた。
「こはくの代わりなんて、誰に務まるわけないじゃん。俺はこはくじゃないし。そもそもさ、こはくで満たされないからって俺で穴埋めしようとしてるその神経が嫌」
ぶつぶつと文句を重ねる。
こはくは静かにそれを受け止めている。離れる素振りは見せない。
波が打ち寄せる岩のように、閻魔の愚痴を静かに吸い込んでいくだけだった。
閻魔はそのまま、さらに身体を密着させた。
「しかもさ」
ふっと顔を上げる。酷く不満そうな表情。
「俺なら誤魔化されてくれると思われてるのが、普通に失礼じゃない? 俺だって、ちゃんと区別してるのにさ」
そこで再び、こはくの身体へと抱きついた。
今度は逃がさないように、完全に抱え込むような形で腕を回す。
「酷くない?」
ぐりぐりと、漆黒の髪へと顔を埋める。
「俺、かわいそう!」
完全に甘えきっていた。
ついさっきまで業火で神格を焼き尽くしていた男と同一人物とは、到底思えないような惨状だった。
閻魔はこはくの肩口に顔を埋めたまま、なおも喋り続ける。
「なんか俺が妥協案みたいに扱われてるじゃん。そういうの、すっごく嫌なんだけど。俺さ、こはくの偽物扱いされるの、結構本気で腹立つんだよね」
こはくは何も言わない。
ただ静かに、その抱擁を受け入れている。
閻魔はその静かな沈黙へと、さらに深く体重を預けた。
「……まあ、こはくが悪いんだけどね」
ぽつり。
「最初に俺の顔を真似したの、こはくだし」
酷い責任転嫁まで始める始末だった。
けれど、その声音にはもう激しい怒りは残っていない。
むしろ、この存在の隣にいるという圧倒的な安心感に満たされていた。
「でもさぁ」
ぐり、ともう一度強く頬を擦り寄せる。
「こはくを見てるとさ、“似てるだけで代わりになるわけがない”って、すごくよく分かるよね」
静かで、温かな声だった。
「全然、違うもん」
こはくの纏う気配は深い湖の底をそっと覗き込んだときのように、どこまでも均されている。
ただこうして隣に存在するだけで、世界そのものが落ち着きを取り戻していくような感覚がある。
閻魔はゆっくりと目を閉じた。
「……俺しかそれが分からなくたって、別にいいけどさ」
小さく口元を緩める。
「でも、俺にははっきりと分かるから」
そのまま身体から完全に力を抜いた。
全身の体重を、惜しげもなくこはくへと預け切る。
「だから余計に、腹が立ったんだよね」
最後のぼやき。
けれどその声には、もう怒りの刺々しさは存在しなかった。
ただ子供のように甘える姿勢のまま、こはくへと強く抱きつき、動かなくなっていった。
しばらくの静寂の後。
「……なでて」
小さく落とされたその声だけが、少しだけ拗ねた響きを帯びていたのだった。




