地雷
地獄の奥深くに存在する、業火の管理区画は静まり返っていた。
黒みを帯びた赤々とした炎が、絶え間なく揺らめいている。
ただ燃えているだけではない。光の温もりよりも先に、圧倒的な“圧力”が空間を支配する火だ。
罪深き亡者を裁く火。
業深き魂を焼き尽くす火。
他ならぬ、地獄の王である閻魔の支配領域。
その火の海の中央で、一柱の神格が一人、酷くぎこちない様子で佇んでいた。
視線は定まらず、指先は固く強張っている。
その対面に立っているのが、閻魔だった。
今日は青年期の姿をとっていた。
流れるような黒髪。
静謐さを感じさせる整った顔立ち。
こはくに酷似した輪郭。
だが、そこに漂う気配は本物のこはくとはまるで異なっていた。
軽薄で、人間臭く、どこか妙に親しみやすい。
だからこそ——その親しみやすさゆえに、神格は一瞬だけ「この男なら許してくれるのではないか」という致命的な錯覚を抱いてしまったのだ。
閻魔は揺らめく炎を見つめながら、気軽なトーンで問いかけた。
「で、相談って何?」
神格は一瞬だけ躊躇した。
だが、ここまで足を踏み入れた以上、退くわけにはいかなかった。
意を決して口を開く。
「……その」
緊張から喉がカラカラに乾く。
閻魔は静かに待っている。笑ってはいないが、まだその表情には柔らかさが残っていた。
神格は覚悟を決めて言葉を紡いだ。
「閻魔様は……こはく様に、酷く姿が似ておられますので」
その瞬間。
ピタリと、空間の全空気が停止した。
絶え間なく揺れていた業火の動きすら、ピタリと固まる。
神格は遅れて理解した。
自分は取り返しのつかない言葉の選択を誤ったのだと。
だが、もう遅かった。
閻魔は黙しこくっていた。
その顔から、一切の表情が消失していたのだ。
ついさっきまでそこに存在していた軽薄さや親しみやすさが、跡形もなく消え去っている。
神格は恐ろしさに震えながらも、言葉を続けるしかなかった。
「ですので……その、ほんの少しだけでも、代わりに——」
「そういうのはね」
言葉が、静かに遮られた。
低く、静かな声だった。
決して声を荒らげているわけではない。
けれど、そこには一切の温度が存在しなかった。
閻魔がゆっくりと視線をこちらへと向ける。
瞳の奥に宿る漆黒の闇を目にした瞬間、神格の背筋に猛烈な悪寒が駆け走った。
駄目だ、と全身の本能が警鐘を鳴らし続ける。
閻魔は笑っていなかった。
いつもの軽さも、人間臭さも、何一つとして残っていない。
そこにいたのは、冷徹なる地獄の絶対者としての王だけだった。
「ダメ」
短く、淡々とした拒絶。
神格は息を呑むことしかできない。
閻魔はそのまま、温度のない声で言葉を紡いだ。
「俺さ、確かにこはくに似てるけど」
周囲の業火が、地鳴りのような低音を響かせて揺れる。
「別に、こはくじゃないから」
淡々と告げられる事実。
それが逆に、狂おしいほどの恐怖となって迫り来る。
「似てるだけ。それ以上でも、それ以下でもない」
神格は金縛りに遭ったかのように動くことができない。
閻魔は少しだけ目を細めた。
「……っていうかさ」
そこで初めて、その静かな声の中にかすかな感情の揺らぎが混ざり込んだ。
冷え切った、激しい苛立ち。
「なんで“代わり”なんかで満たされようとしてるわけ?」
声のトーンは静かなままだ。
だが、周囲の業火が爆発的な圧力を増して大きく揺らめいた。
神格の顔が青ざめていく。
閻魔は言葉を重ねる。
「本気で好きならさ、そんなところで妥協なんかしないでしょ。似てればそれでいいとか、代わりに隣に置ければ満足だとかさ。お前の“好き”って、そんなもので誤魔化せる程度の軽さなんだ?」
言葉の口調だけは、いつもの軽いものへと戻っている。
なのに、それが余計に恐ろしかった。
神格は声すら出すことができない。
閻魔は燃え盛る火の海を見下ろした。
「俺さ、大嫌いなんだよね、そういうの」
ぽつりと落とされた呟き。
「“こはくの代わり”を探してるような奴」
そこで、口元だけに小さな笑みが浮かんだ。
けれど、その瞳は氷のように冷え切ったままだ。
「あとさ」
閻魔は神格の顔を真正面から見つめ返した。
「俺がこはくの代わりになれるとか、本気で思ってるんだとしたら」
一拍の置かれた静寂。
「それ、相当失礼だから」
次の瞬間。
轟音と共に、膨大な業火が天井に向かって噴き上がった。
赤黒い熱線が、一瞬にして神格の全身を包み込む。
悲鳴すら上げる猶予すら与えられない。
魂が灼かれる短い擦過音だけが、虚しく空間に響き渡った。
閻魔はその激しい炎の渦を、無感情な瞳で見下ろしていた。
激怒している、というのとはどこか違っていた。
ただ「許容し得ない不快な存在」を排除した。それだけのことだった。
やがて炎が静まり、静寂が戻ってくる。
閻魔は小さくため息を吐き出した。
「……まあ、気持ちは分かるけどね」
ぽつり。
「あいつを好きになるのは、まあ、仕方ないよ」
その言葉にだけは、わずかな柔らかさが混ざっていた。
だが。
「だからって、“似てるから代わりでいい”なんて話にはならないでしょ」
閻魔は業火へと背を向けた。
黒い髪がさらりと揺れる。
「俺ですら、そんなこと一度も思ったことないのに」




