慰めの触れ合い
閻魔の自室は、深夜を迎えるとすべての音が静かに沈み込んでいく。
地獄のどこかでは絶えず亡者の叫び声が響き渡り、業火が激しく燃え続けているはずだった。
けれど、この部屋の中にだけは、不思議なほど深い静寂が落ちていた。
行灯の灯りも低く落とされている。
広い寝台の上で、こはくは壁に背を預けるようにして座していた。
漆黒の髪がさらりと肩へと落ちている。
透き通るような白い肌との対比が、薄闇の中でぼんやりと浮かび上がり、その輪郭だけが確かにそこに存在していた。
そのすぐ隣へ、閻魔が身体を滑り込ませる。
先ほどまで散々文句を言い散らしていたせいか、今の閻魔はどこか少しだけ疲れた表情を浮かべていた。
それでも、こはくへと身体を寄せるその動作にだけは、一切の迷いがない。
肩へと額を深く押し当てる。
背中に腕を回し、離さないように強く抱きすくめる。
相手の体温を確かめるように、ゆっくりと身体を密着させていく。
こはくは拒まない。
静寂を纏ったまま、その熱をただ受け入れている。
閻魔はしばらくの間、無言のままその体温を感じていた。
互いの呼吸の音だけが、酷く近くに響く。
それから、閻魔は小さく呼吸を吐き出した。
「……やっぱ嫌なんだよね」
ぽつり。
低く、くぐもった声。
「こはくの代わりとかさ」
ぐりぐりと、頬をこはくの首筋へと擦り寄せる。
指先が漆黒の髪へと触れる。
その滑らかな感触を確かめるように、ゆっくりと指を通していく。
「似てるだけで満足できる程度のものならさ」
閻魔はゆっくりと目を伏せた。
「俺、多分こんなにも執着してないし」
その言葉は、決して冗談などではなかった。
途方もない時間の重みが、その短い言葉の中に凝縮されていた。
閻魔は片手を伸ばし、こはくの首筋へと優しく指先を滑らせる。
静かな皮膚のなめらかさ。
人の姿をとってはいるが、明らかに人間とは異なる何かがそこに宿っている。
酷く深く沈んだ、静かな水面のような気配。
閻魔はそのままの手つきで、ゆっくりと力を受け取り始めた。
無理やりに奪い取るのではない。
触れ合った場所から、熱を分けてもらうかのように。
こはくの持つ莫大な力は、触れたものを静かに満たし、均していく。
だからこそ閻魔は時折こうして、直接肌を重ねることで己の荒んだ存在を整えてもらうのだ。
静かに。
浸透していくように。
力を引き抜かれたこはくの吐息が、わずかに揺れた。
「……っ」
ほんの微かな、漏れ出たような呼吸。
閻魔は愛おしそうに目を細めた。
「ん」
それだけを低く返し、さらに深く身体を寄せ合う。
首筋に額を押し当てるようにして、その高純度の神気を少しずつ身体へと馴染ませていく。
熱ではない。
けれど、己の存在の奥底へと静かに落ちてくる確かな感覚があった。
限界まで張り詰めていた感情が、固く絞られた縄がほどけるようにゆっくりと緩んでいく。
閻魔は掠れた声で、小さく笑った。
「これ」
弱々しい、甘えた声音。
「こはくじゃないと駄目なんだよな」
こはくの肩へと腕を回し、より一層強く抱きしめる。
その強固な力込めは、甘えているようでもあり、目の前の存在を必死に繋ぎ止めようとしているようでもあった。
「俺のこと、触ってて」
ぽつり。
「ちゃんと、俺だって分かるようにさ」
閻魔はそう言い添えると、こはくの細い手をすくい上げ、自らの頬へとそっと導いた。
白い指先が、閻魔の肌へと触れる。
閻魔はゆっくりと目を閉じた。
その温もりへと、擦り寄るように深く顔を寄せる。
「……そう」
安心したように、深く長い息を吐き出した。
こはくの静かな力が体内に流れ込んでくるたび、閻魔の呼吸は少しずつ深さを取り戻していく。
蓄積していた疲労。
身勝手な神格への激しい苛立ち。
地獄という巨大な仕組みを動かし続けるために積み重なった、無数の熱。
そうした重荷が、少しずつ解け去っていく。
こはくの吐息が、再び小さく漏れた。
「……ぁ」
閻魔はそのかすかな音を聞きつけ、満足そうに口元を緩めた。
「平気」
宥めるような、優しい声。
「取りすぎたりしないから」
そう言いながら、再びこはくの首筋へと深く顔を埋めた。
そこには、外界の誰の前でも決して見せることのない、完全に無防備な顔があった。
閻魔は元々、一人の「人間」だった。
この世界で最初に死を迎えた、最初の死者。
だからこそなのか、こうして追いつめられた時、妙なほどに「直接触れて確かめる」という行為に執着してしまうのだ。
こはくが確かにここに存在していること。
己という存在を、そのまま受け入れてくれていること。
決して拒絶しないこと。
それを、肌の触れ合いを通じて確認せずにはいられないのだ。
こはくの白い指先が、静かに閻魔の黒髪へと滑り込む。
そのままゆっくりと、慈しむように頭を撫で下ろしていった。
閻魔の背中から、すっと強張りが抜けていく。
「……ん」
満足感に満ちた、小さな呟き。
そのまま全身の力を抜け切らせ、相手へと身を預けた。
こはくの力を受け取りながら、閻魔は薄く微笑んだ。
「やっぱ、一番落ち着く」
掠れた声が、静寂に満ちた部屋の闇へと深く沈んでいく。
「お前の代わりなんてさ、この世界のどこ探したっていないよ」
それは誰かに言い聞かせるためでもない、閻魔の胸の奥底から溢れ出た、唯一無二の本音だった。




