年齢操作 後編
深刻な問題が発生したのは、その直後のことだった。
緊急の要件で閻魔を探していた部下が、部屋の入り口に足を踏み入れ、そのまま石のように氷ついた。
そこにいたのは——こはくと、そのこはくと全く同じ年頃に見える一人の少年。
二人は共に黒い髪を垂らし、無言のまま静かに並んで座っていたのだ。
部下の思考は完全にフリーズした。
「……?」
少年の姿をした閻魔が、不審そうに顔を上げる。
「どうしたの?」
「……え、閻魔様?」
「そうだけど」
部下は困惑したようにこはくへと視線を向けた。
こはくはいつも通りの無表情でそこにいる。
部下の顔が、かつてないほどの困惑と恐慌に染まっていく。
「も、申し訳ありません、どちらがどちらなのか……」
「だから俺が閻魔」
閻魔は腹を抱えて笑った。
「そんなに分かんない?」
部下はもはや回答すら作れず、青い顔で絶句している。
すると、隣にいたこはくが、すっと小さな動きで閻魔の方へと身体を寄せた。
閻魔はその愛らしい挙動を目にして、さらに可笑しそうに笑う。
「ほら。こはくも俺のこと分かってるよ」
部下は酷く複雑で、頭を抱えたそうな顔をした。
「それは……こはく様は分かっておられるでしょうが……」
「俺も分かるよ。こはくのこと」
「そういう問題ではありません!」
「そう?」
閻魔は心底楽しそうだった。
結局その日は、その少年の姿のまましばらくの時間を過ごすこととなった。
別の要件で部下が訪れるたびに。
「閻魔様……?」
「そう」
「……こはく様……?」
「そっちはこはく」
という全く同じ不毛なやり取りが、幾度となく繰り返されたのだった。
やがて部下たちは、見た目だけで二人を識別することを完全に諦めた。
声のトーンを聞けば判別がつく。
特有の仕草を見れば、なんとなく察しはつく。
だが、純粋な視覚情報だけでは、どうにもならなかったのだ。
そして当の閻魔は、己の引き起こした周囲の混乱を、これ以上ないほど面白がっていた。
「これ、結構いいな」
「閻魔様、お願いですから戻ってください……」
「やだ」
「本日の裁定書類が——」
「俺が閻魔だって分かるならいいじゃん」
「分かりません!」
「じゃあ余計に面白いじゃん」
部下は深く深く、絶望的なため息を吐き出した。
その途方に暮れる姿を眺めながら、こはくはいつも通りの平然とした顔で佇んでいる。
閻魔はその隣で、子供のように無邪気に笑い続けていたのだった。
◇
しばらくして、疲弊しきった部下が去っていくと、閻魔は隣のこはくへと視線を向けた。
「お前、俺だってすぐ分かるんだね」
こはくは言葉を返さない。
「俺が少年でも、青年でも、おじさんでも」
こはくは静かな赤みを帯びた瞳で、じっと閻魔を見つめ返してくる。
閻魔は何も言わず可笑しそうに笑うと、そっと手を伸ばしてこはくの柔らかい黒髪に触れた。
「俺も、お前のことならすぐ分かるけど」
それは、閻魔にとってあまりにも当然のことだった。
こはくという存在が、何も持たない曖昧な気配から、人の姿を獲得していくその途方もない過程を、自分はずっと一番近くで見守り続けてきたのだ。
だからこそ、こはくの姿が変質した程度で、その本質を見失うことなどあり得なかった。
それと同じように、こはくもまた「容姿」という表面的な肉体ではなく、「閻魔」という存在そのものの本質を直接捉えているのだろう。
そのことを、閻魔は昔からなんとなく肌で理解していた。
だからこそ、この日もただ単純に楽しかったのだ。
自分がこはくと全く同じ等身の姿となり、そのすぐ隣で肩を並べている。
それだけの単純な事実が、思っていた以上に心地よく、悪くないものに思えたのだ。
◇
その夜。
仕事を終え、一人になった閻魔は、再び静かな水面を覗き込んだ。
揺らめく水鏡の中に映し出される、様々な己の影。
十代の少年の姿。
瑞々しい青年の姿。
重厚な三十歳の男の姿。
さらに長い年月を刻んだ、深みのある壮年の姿。
どれもが間違いなく、自分という存在の破片だった。
昔は、予期せぬ姿の変化が起きるたびに焦り、困惑していた。
けれど、今は違う。
己の意志一つで、どんな姿へも変幻自在に肉体を変えられる。
好きな容姿を選択できる。
いつだって、元の姿へと戻ることができるのだ。
そこに至って初めて、閻魔はふと動作を止め、思考を巡らせた。
「……そっか」
これまでは、単に「姿が変わる」ということの利便性や滑稽さばかりに気を取られていた。
けれど、己の意志で年齢すら自在に操作できるようになった今なら、はっきりと理解できた。
「俺も、とうとう人間じゃなくなったんだな」
いつの間にか自分は、現世で生きていた頃の自分とは、遥か遠いところまで来てしまっていたのだと。
閻魔は水面に映る己の変幻自在な影をしばらく見つめたあと、見慣れた「三十歳ほど」の男の姿へと肉体を戻した。
「……まあ、今さらか」
明日もまた、果てのない裁定が待っている。
その場に立つなら、やはりこの威厳ある姿が一番やりやすい。
そして仕事が終われば、また好きな姿へと変化すればいいだけの話だ。
こはくの隣に座るのであれば、あの十四歳ほどの少年の姿で並ぶのも、決して悪くはないのだから。
そう心の中で呟きながら、閻魔は静かに水面から離れていった。
翌日の裁定は、何事もなかったかのように、いつもの三十歳ほどの男の姿で行われた。
「はい次ー」
亡者たちの罪を裁き、膨大な書類を捌き、部下たちへと矢継ぎ早に指示を出す。
昨日、この地獄の王がこはくと全く同じ少年の姿となり、部下たちを極度の混乱に陥れていたことなど、誰一人として知る由もない。
そして閻魔自身もまた、己の年齢や姿形を変えることに対して、何の特別な感情も抱かなくなっていた。
地獄の長としては、威厳ある三十歳。
こはくの隣に寄り添う時は、少し若い少年の姿。
必要とあらば、青年にも老人にもなれる。
流動的に変わり続ける閻魔と、十四歳ほどの姿のまま永遠に変わることのないこはく。
その見た目の違いも、あるいは変化の有無さえも、二人の間に存在する確固たる絆の前には、何の問題にもならなかったのだから。




