こはくと信仰
こはくが本拠を置く屋敷——生者の世界から少し外れた、人ならざる者たちの領域に建つあの場所には、サーラメーヤをはじめ、こはくを絶対的に敬い仕える者たちがいる。
一方で、その屋敷の庇護下に属さない神々は、外界にそれぞれの神域を持ち、人間たちからの独自の信仰を集めていた。
そして——こはくが宿す源初的な神気には、神々ですら抗い難い強烈な惹きつけの力がある。
こはくを拝みに来る神がいるのは知っていた。だが、それがどういうことなのか、閻魔は今日まで知らなかった。
地獄には、時折「神」が訪れる。
外界の神域からの定期的な視察や、地上との境界に関する公的な用事で訪れる神々が存在するのだ。
閻魔はその案内役として、共に地獄の回廊を歩いていた。
そしてその道中、ふらりと散策に出ていたこはくへと出会うこととなった。
「……こはく様」
神が、ぴたりと足を止めた。
こはくは地獄の一角、静謐な空気が漂う岩陰に静かに座し、無垢な瞳で遠くを眺めていた。
神は目を細めると、尊者に対する敬意を露わにしながら、ゆったりとした足取りで近づいていく。
「久しいの」
こはくは答えない。声も発さず、ただ静かに見つめ返すのみだ。
だが神はその無反応さに慣れているようだった。
「相変わらず、何も仰らぬか」
後ろに立つ閻魔が、少し苦笑いを浮かべる。
「そこは昔から変わらないみたいですね」
「うむ」
古い神はこはくの目の前で静かに膝をついた。
そして、祈りを捧げるかのようにそっと手を伸ばす。
こはくは拒もうとはしない。
神の指先が、こはくの白い手に触れる。
その瞬間、閻魔は気付いた。
周りの空気が、かすかに変質した。
神の全身を覆っていた厳かな神威が、こはくの肌へと触れた場所から、解け合うように馴染んでいく。
同時に——こはくの体内に宿る莫大な力が、ほんの僅かだけ、その神へと静かに流れ込んでいった。
ほんの、ごく僅か。
けれど、決定的な密度の重みを持って。
神は静かに瞳を閉じ、深く噛み締めるように息を吐き出した。
「……ありがたきことよ」
閻魔は無意識に目を細めた。
「力、もらってるんですか?」
神はゆっくりと手を離すと、振り返って閻魔を見た。
「こはく様を信仰する者にとって、これは何よりの恩寵よ」
その重みのある言葉を聞き、閻魔は改めてこはくへと視線を走らせる。
神は穏やかな声音で言葉を続けた。
「我らにとって、こはく様は古き神であり、大いなる信仰の対象でもある」
「なるほど」
「そなたは、こはく様を信仰せぬのか?」
問いかけられ、閻魔は少しの間だけ思考を巡らせた。
「俺?」
それから、座り込むこはくを見つめる。
「信仰っていうより……」
言葉が喉の途中で引っかかった。うまく言葉にして説明できない。
こはくは神だ。己などよりも遥かに古く、計り知れない歳月を生きてきた存在だ。
けれど、閻魔にとってはそれ以前に——ずっと、自分の隣で息づいてきた存在だった。
「まあ、俺は俺なりの付き合い方なんで」
古い神は、どこか可笑しそうに少しだけ笑った。
「奇妙な男よの」
「よく言われます」
さらりと返しながら、閻魔は目の前の神を注視する。
自分のまったく知らないこはくの姿をこの神は、知っているのだ。
「……ところで」
神がこはくの横顔を見つめながら、ふと呟いた。
「そなたは、随分と近くにおるな」
「そうです?」
「我らでさえ、あまり無遠慮には近づかぬ」
「俺は昔からこんな感じですよ」
閻魔は何気ない動作で、こはくのすぐ隣へと進み出て立った。
こはくは嫌がる素振りも見せず、特に反応しない。
それを見て、神が小さく笑みを漏らした。
「昔はもっと近づき難い存在であった」
「昔?」
閻魔の瞳の奥が、ぴくりと細くなった。
「そなたが知るより、ずっと前の話よ」
神は慈しむようにこはくを見つめる。
「我が知るこはく様は、まだ人の形を取っておらなんだ」
閻魔は沈黙した。
「白い気配のような姿でな。形も曖昧で、人の姿など必要としておられなかった」
「……へえ」
「そなたと出会うより、遥か昔の話よ」
閻魔は無言でこはくを見下ろした。
今のこはくは、人の姿をしている。
柔らかく流れる黒い髪。なめらかな白い肌。
器用にものを掴む、人の形をした手。
それが今では当たり前の光景になっている。
「でも、人の姿になったのは俺と会ったあとですよ」
神がゆっくりと閻魔を見上げる。
「そうなのか」
「はい」
閻魔は口元に小さく笑みを浮かべた。
「最初は本当に白い気配みたいなものでしたよ。俺をずっと観察してて、そのうち俺の形を真似し始めたんです」
「……ほう」
「顔も手も髪も。最初は結構曖昧で」
神は黙って、閻魔の言葉に耳を傾けている。
心なしか、閻魔の言葉尻が弾んでいた。
「だから、昔のこはくを知ってるのはあなたの方ですけど、こはくが人の姿になっていくところを知ってるのは俺です」
神は静かに、納得したように笑った。
「なるほど」
「お互い、知らないところがあるってことですね」
「そういうことになろう」
その言葉の後に、すっと静寂が落ちた。
神は再びこはくへと視線を向ける。
「されど、そなたはこはく様の力を受けたことがあるのか?」
閻魔の思考が一瞬だけ停止した。
「……ありますけど」
「そうか」
神はどこか得心がいったように、深く深く頷いた。
「ならば、そなたも我らと同じよ」
「同じ?」
「こはく様の力を求める者という意味ではな」
閻魔はすぐには答えなかった。
こはくの力を受け取った。
それを初めてその身に受けた日の記憶が、一瞬だけ脳裏を過る。
全身が満たされるような感覚。
そしてその後に残った、決して埋まることのない決定的な渇望と足りなさ。
閻魔は無意識のうちに、己の手のひらを見つめていた。
「……まあ」
少しだけ、自嘲気味に笑う。
「俺の場合は、信仰とは違いますけどね」
神はそれ以上、追求しようとはしなかった。
ただ、閻魔を見るその瞳の奥に、わずかな色の変化が混ざっていた。
こはくには、自分の知らない繋がりがまだ幾つもあるらしい。それに気づいて、閻魔は少しだけ胸の奥が軋むのを感じた。
けれど、それ以上に——。
「……昔の話、もっと聞きたいです」
神が目を細めた。
「知りたいか」
「はい」
閻魔はまっすぐにこはくを見つめた。
「俺の知らないこはくなので」
その飾りのない言葉に、古い神は小さく、満足そうに笑った。
「随分と熱心なことよ」
「まあ、好きなので」
あまりにも自然に、当然のことのように言い切ったため、神は一瞬だけ言葉を失い沈黙した。
閻魔は迷いなく、こはくのすぐ隣へと腰を下ろす。
こはくは何も言わず、静かにその体温を感じていた。
神はそんな二人を交互に見つめ、どこか晴れやかな笑みを浮かべた。
「では、古き頃の話をしてやろう」
「お願いします」
地獄の公的な視察は、いつの間にか別の時間へと姿を変えていた。
古い神は、閻魔のまだ知らないこはくの遥かな過去を語り始める。
閻魔はただの一語も聞き漏らすまいと、真剣な眼差しでその言葉に耳を傾けていたのだった。




