半獣 後編
こはくはもう完全に、抵抗する気力を放棄していた。
廊下の太い柱へと軽く身を預け、半獣の姿のまま脱力して静かに息を吐いている。
立ち上がっていた白い耳からは完全に力が抜け、尾もだらりと垂れ下がっていた。
角の付け根を撫でられるたび、肩が小さく跳ねる。
尾の付け根へと指先が触れると、びく、と素直すぎる拒絶と甘えの反応を返した。
閻魔は完全に味を占めていた。
「ここ? それともこっち?」
耳。角。尾。
弱点となっている場所を順番になぞり、確かめていく。
そのたびに、こはくの耳がぴくぴく、ぴくぴくと揺れる。
普段の浮世離れした静謐な佇まいからは到底考えられないほど、その反応はあまりにも無防備で素直だった。
「……っふ」
閻魔は込み上げる笑いを殺しきれない。
「だめだ、面白すぎる」
当のこはくは、どちらかと言えば完全にへろへろ状態に陥っていた。
撫で回される感覚があまりにも心地良すぎるのだ。
獣の器官が表出したことで感覚が異常に鋭くなっているせいか、触れられるたびに身体の奥から力が抜けていってしまう。
逃げ出す気力すら湧かない。
というより、こうして触れられていると、このまま動きたくなくなってしまうのだ。
白い尾は完全に閻魔の腰へと強固に巻き付いていた。
閻魔はその状態のまま、また耳の後ろをわしゃわしゃと無遠慮に撫で回す。
こはくの頭が、撫でられる勢いのまま小さく揺れた。
「……大型犬じゃんもう」
その時だった。
廊下の向こう側から、爪音が近づいてきた。
規則正しく、一切の乱れもない音。
サーラメーヤだ。
現世の屋敷に常駐している片方が、廊下の角を折れて歩いてくる。
そして——目の前の光景を目にした瞬間、ぴたりと足を止めた。
金と水色、左右で異なる神聖な双眸が、目の前の惨状を捉える。
柱に寄りかかり、へろへろになって脱力しているこはく。
その耳や尾を心底楽しそうに撫で回している閻魔。
閻魔の腰に固く絡みついた、白い尾。
数秒間の、絶対的な沈黙。
「……何をしているのですか」
驚異的に困惑した声だった。
閻魔はひょいと振り向く。
そして、にやっと悪戯っぽく笑ってみせた。
「見て〜」
こはくの耳を、もう一回ぐりぐりと撫でる。
ぴく、と耳が震え、こはくの肩から完全に生気が抜けた。
閻魔は実に楽しそうに告げる。
「撫でられてる時のお前そっくり」
サーラメーヤの動きが止まった。
その大きな耳が、わずかに伏せられる。
「……閻魔様」
返答に困り果てている。
神獣として、非常に困惑していた。
だが、興奮した閻魔は一向に気に留めない。
「いやほんと似てるって。耳の動きとか完全に一緒」
そう言いながら、また尾の付け根へと指先を滑らせる。
こはくの尾がぶわりと揺れ、逃れるどころか閻魔の腰へとさらに強く巻き付いた。
サーラメーヤは悟ったように、静かに視線を逸らした。
「……こはく様、完全に警戒が解けていますね」
閻魔は誇らしげに笑う。
「でしょ? 普段こんな顔しないから面白くてさぁ」
サーラメーヤは数秒の沈黙の後、深く静かなため息を吐き出した。
「……閻魔様」
「何」
「そのまま撫で続けると、こはく様が動けなくなります」
閻魔が手元のこはくを見下ろす。
こはくはすでに、うっとりと完全に蕩けきった表情を浮かべていた。
耳はへたりと伏せられ、尾は閻魔へと固く巻き付いたまま、逃げ出す気配など微塵もない。
閻魔は数秒間黙り込み。
それから、腹を抱えて吹き出した。
「……ほんとだ。お前そっくりじゃん」
◇
それ以来、閻魔はこはくが「半獣」の姿をとるたびに、妙に複雑な表情を浮かべるようになった。
露骨な嫌悪ではない。
だが確実に、あの日の強烈な体験を思い出している顔だった。
例えば、閻魔庁の廊下ですれ違った時。
白銀の髪の間から、白い耳がぴくりと動く。
その瞬間。
(……あそこ触るとすごい反応するんだよな)
などと頭の中で反芻してしまう。
あるいは、庭先で白い尾が優美に揺れているのを目撃した時。
(尾の付け根、完全に弱かったな……)
などと、触感まで思い出してしまうのだ。
しかも当のこはく本人は、そんな閻魔の葛藤など露知らず、当たり前のように半獣の姿で地獄を散策し、日和を過ごしている。
それが余計に毒だった。
無防備に見えてしまうのだ。妙な隙があるように感じられてしまう。
耳が揺れるたび、尾がさらりと流れるたび、閻魔の脳裏にはあの夜のへろへろに蕩けていたこはくの姿が鮮明に蘇ってしまうのだった。
「……」
地獄の裁定の間で、書類を精査しながら、閻魔は一人で口元を固く押さえた。
危ない。油断するとニヤけてしまいそうだ。
傍らに控える地獄側のサーラメーヤが、静かにその冷たい視線を向けてくる。
「閻魔様」
「何」
「本日三度目です」
「何が」
「こはく様の耳を見て笑っています」
「見てないけど?」
「見ています」
一切の情を挟まない即答。
閻魔はコホンと大きく咳払いをしてみせた。
だが、閻魔にとっての本当の問題は、単にニヤけてしまうことだけではなかった。
半獣の姿を目にするたび、胸の奥底から同時に別の、どろりとした感情が湧き上がってくるのだ。
——他の奴に、絶対触られてないだろうな。
あの柔らかい耳も。小さな角も。なめらかな尾も。
あの無防備で、蕩けるような反応を、他の誰の前でも見せてはいないだろうな。
閻魔はそこで、不吉な思考を強引に遮断する。
「……」
嫌だ。
想像しただけで、猛烈に不快だった。
こはくという存在は、根本的に生や個に対する警戒心が薄い。
特に、一度気を許した相手に対してはあまりにも無防備だ。
だからこそ、余計に心配で、気になって仕方がない。
閻魔はついに朱筆を机の上に叩きつけた。
「……サーラメーヤ」
「はい」
「こはく、最近半獣姿よくなってる?」
「頻度は増えています」
「やっぱり」
閻魔は苦々しそうに少しだけ眉根を寄せた。
「外でも?」
「時折」
「……ふぅん」
落ちてきた声は、冷たく低かった。
サーラメーヤは淡々と事実を告げる。
「麒麟との接触以降、維持が安定しているようです」
「便利なんだろうねぇ……」
閻魔は不機嫌そうに頬杖をついた。
便利であることくらい、言われなくとも分かっている。
異形の中に紛れ込みやすい。身体能力も格段に上がる。どこまでも合理的だ。
だが、その合理性と、閻魔自身の内に渦巻く執着や感情は、まったく別物だった。
◇
その日の夜のことだった。
現世の屋敷の静かな縁側に、こはくが半獣姿のまま一人腰かけていた。
夜風を受けて、白い尾がゆっくりと弧を描いて揺れている。
風が白銀の髪を優しくなでつけ、頭上の獣耳が時折ぴくりと微かに動いていた。
そこへ、足音を忍ばせて閻魔がやってくる。
そのまま、こはくのすぐ隣へと腰を下ろした。
しばらくの間、二人の間に言葉はない。
「……ねぇ」
こはくがすっと視線を向けてくる。
閻魔は何かを深く思案するように、わざとらしく間を空けた。
本当の理由を口に出すべきか、迷っている顔。
だが結局、回りくどい言い方を選択する。
「その姿さ」
そっと手を伸ばし、白い耳へ軽く触れた。
こはくの耳がぴくりと跳ねる。
閻魔の脳裏に、あの夜のへろへろに蕩けていた反応が色鮮やかに蘇った。
危ない。気を抜くとまた楽しくなってきてしまう。
「……できるだけ、人の姿でいてね」
こはくが静かに瞬きを繰り返す。
理由を尋ねるような、純粋な赤い瞳。
閻魔は耐えかねて視線を逸らした。
「いや、その姿だとさ」
少しだけ言葉に詰まる。
同調しているサーラメーヤであれば、きっともう全てを察して呆れていることだろう。
だが、こはく本人にだけは、この見っとも無い独占欲を知られたくはなかった。
閻魔は結局、少しだけ困り果てたように、苦く笑ってみせた。
「……なんか、隙あるから」




