半獣 前編
月明かりが射し込む屋敷の廊下は、しんとしていた。
障子越しに洩れる小さな行灯の灯りが、細く長い光の筋となって磨き上げられた床へと落ちている。外からは、遠く草むらで鳴く虫の声だけが、かすかに届いていた。
閻魔は裁定の書類を片手に、一人廊下を歩いていた。
本来であれば、まだ地獄の裁定の間で作業に追われている時間だ。
だが部下たちの目を掻い潜り、気分転換を兼ねて現世の屋敷へと足を伸ばしていたのだ。
「……肩痛」
ぼそりと呟きながら歩を進める。
その時、廊下の突き当たり——中庭へと続く渡り廊下の陰に、ふと見覚えのある気配が揺れた。
白。
閻魔は足を止めた。
こはくだ。
「……ん?」
たが何かが、いつもと違っていた。
気配に気づいたのか、こはくが静かにこちらへと振り向く。
差し込んできた青い月の光が、その姿を克明に照らし出した。
そこで閻魔は、ようやくその違和感の真正を理解した。
髪が白い。
いつもの見慣れた人型の黒髪ではない。
白銀に近い、なめらかな髪が夜風にさらりと揺れて肩を撫でている。
そして、その頭部。
獣耳。ぴくりと愛らしく動く、雪のように白い耳。
さらにその頭には、緩やかに後方へ向かって流れる二本の角。
小ぶりではあるが、滑らかな螺旋を描いて確かに生えていた。
腰の後ろからは、細く長い尾がゆっくりと揺らめいている。
かといって、完全な獣の姿というわけでもない。
全体の骨格や輪郭は、ほぼ人型のままだった。
人の肉体の上に、人間ではない部分が、静かに、けれど明確に滲み出ているのだ。
閻魔は数秒間、言葉もなくその姿を見つめた。
こはくも逃げようとはせず、静かに佇んだまま、まっすぐこちらを見返している。
廊下を涼やかな風が吹き抜けた。
白い髪が、きらきらと月光を反射する。閻魔はその境界線の曖昧な姿を眺めながら、ふっと口元を緩めた。
「……へぇ」
ゆっくりと距離を詰める。
木の床が、静かに擦れる音を立てた。
「半分とかも出来るんだね」
こはくの白い耳が、ぴくりと反応して跳ねる。
閻魔は興味津々といった様子で、その小ぶりな角へと手を伸ばした。触れる。
硬い。けれど、完全な麒麟形態の時のような重厚な威圧感はない。
「なるほどなぁ……」
今度は、白い耳へと指先を伸ばした。
ふわりとした、短く密な毛並み。
撫で回されると、こはくは心地よさそうに少しだけ目を細めた。
「完全に変えるより、こっちの方が楽なの?」
声での返答はない。
だが、腰の後ろの白い尾がゆっくりと揺れた。
肯定の意思表示らしい。
閻魔は深く深く頷いた。
「まあ確かに、人型残してるもんね」
そのまま、こはくの周囲をゆっくりと半歩回り込む。
しなやかな白い尾。頭の角。柔らかい耳。白銀の髪。
人間と異形の境界線が融解したような、なんとも不安定な姿。
だが、恐ろしいほどにこの存在には似合っていた。
閻魔はしばらく顎に手を当てて考え込む。
「あー……」
納得したように、小さな声を漏らした。
「異形に紛れるには、ちょうどいいかもね」
地獄や人ならざるものの世界には、完全な人の形をしていない存在など山ほどいる。
巨大な獣。鬼。龍。あるいは古き半神。
そうした異形の者たちの輪の中に混ざり込むのであれば、この程度の曖昧さはむしろ自然で、余計な摩擦を生まないのだろう。
こはくは静かに閻魔の挙動を追っている。
その深く澄んだ赤い瞳だけは、どんな姿をとろうとも一切変わらない。
閻魔はその視線を全身で浴びながら、楽しそうに笑った。
「でもさ」
揺れる尾へと軽く指先を触れさせる。
「急にこれで出てきたら、ちょっとびっくりするからね?」
こはくの耳が、またぴくりと跳ねた。
その素直な反応が可愛らしくて、閻魔は思わず声を漏らして笑ってしまう。
「……似合ってるけど」
そう口にしたあとも、閻魔の手は離れようとしなかった。
白い耳の輪郭を、指先で愛おしそうに撫で上げる。
短く柔らかな毛並み。撫でるたびに、時折ぴくりと動く感触が面白くてたまらない。
こはくは身を引こうとせず、ただ静かに閻魔を見つめている。
その無抵抗な反応が、逆に閻魔の悪戯心と好奇心を強く刺激した。
「ちょっと触らせてよ」
一応の許可を取るような言葉を口にしながらも、手はすでに存分に触り倒している。
閻魔は悪戯っぽく笑いながら、耳の裏側をわしゃわしゃと撫で回した。
途端に、こはくの耳がびくりと大きく跳ね上がる。
揺れていた尾も、一瞬だけピタリと止まった。
「あ、そこ弱い?」
こはくは答えない。
だが、その赤い瞳がわずかに細められる。
閻魔は完全に面白がり始めていた。
「へぇ〜……」
今度は、小ぶりな角へと手を滑らせる。
滑らかな磁器のような質感。
その根元の頭皮を指先で軽くなぞった瞬間、こはくの細い肩がぴくりと震えた。
閻魔の手が止まる。
「……ん?」
もう一度。
角の付け根の皮膚を、指先で円を描くようにゆっくりと撫で上げてみる。
すると、こはくの白い耳がぴたりと頭に伏せられ、尾が大きく左右に揺れ動いた。
閻魔は驚きに目を丸くする。
「え、何そこも?」
面白い。尋常ではなく面白い。
渦中のこはく自身も、何が起きているのかよく分かっていないような、呆然とした表情を浮かべていた。
身体の奥がじんわりと落ち着く。
けれど同時に、妙な熱が皮膚の表面を駆け昇っていく。
気持ちが良いのか、くすぐったいのか、それとも全身の警戒が強制的に解かれていくのか。
感覚の輪郭があまりにも曖昧だった。
閻魔は、その事実に完全に気づいてしまった。
「……へぇ〜〜?」
甘く、酷く楽しそうな声。
こはくが困惑したように、少しだけ視線を逸らす。
そんな人間じみた弱々しい反応すら、この存在にしては極めて珍しいことだった。
閻魔は楽しそうに笑いながら、今度は腰の後ろで揺れる尾へと手を伸ばした。
白い尾は長く、表面を覆う毛並みはさらさらと指を滑っていく。
すっと指を通すと、尾は愛おしそうにゆっくりと揺れた。
「これも触り心地いいなぁ……」
すると、こはくの尾が本能のまま無意識に伸び、閻魔の腕へとスルスルと絡みついた。
その瞬間。
閻魔の動きがぴたりと止まる。
「……あ」
こはくの動きも止まった。
数秒の静寂。
次の瞬間、閻魔は堪えきれずに吹き出した。
「なにそれ、無意識?」
腕には、いまだ白い尾が固く巻き付いたままだ。
こはくは、少しだけ耳を伏せてみせる。
閻魔のテンションは完全に最高潮に達していた。
「かわい〜」
「…………」
「いや今のは完全に大型獣の甘え方だったって」
そのまま、尾の付け根の鱗になっている場所に手を滑らせ、軽く撫で上げる。
瞬間、こはくの華奢な身体がびくんと大きく跳ね上がった。
伏せられていた耳が跳ね起き、尾の毛並みが一瞬だけぶわりと膨らむ。
閻魔は目を見開いた。
「うわ、そこめちゃくちゃ効くじゃん」
たまらず、こはくが一歩後ろへ下がろうと足を開く。
だが閻魔は逃がさなかった。
「待って待って、もう一回」
再び、付け根の敏感な部分を撫で回す。
尾が大きく揺れ、耳が力なく伏せられる。
こはくは完全に、安らぎと得体の知れない快感の狭間でへろへろになっていた。
閻魔はその素直すぎる反応を見るたびに、可笑しくてたまらない。
「え、何これ、半獣状態だとこんななるの?」
今度は、耳の付け根へ。
親指の腹でぐりぐりと円を描くように撫で回す。
こはくの肩が、また激しく震えた。
なびく白い髪の隙間から覗く大きな耳が、ぴくぴく、ぴくぴくとなすがままに揺れ続けている。
「……っはは、反応良すぎでしょ」
完全に玩具を見つけた子供のように楽しんでいる。
こはくは静かに閻魔を見つめ返した。
ほんの少しだけ恨めしそうにも見える赤い瞳。
けれど、決してその手から逃げようとはしないのだ。
閻魔はそれを見て、さらに可笑しそうに笑う。
「だってこはく、普段こんな分かりやすい反応しないじゃん」
尾の付け根を、もう一度丹念に撫で上げる。
こはくの尾がばさりと大きく一揺れし、そのまま吸い寄せられるように閻魔の腰へと強く巻き付いた。
閻魔は爆笑しながら、頭上の白い耳をわしゃわしゃと激しく撫で回す。
「いや〜、癒される……。いやほんと反応良いなぁ君」
閻魔は心底嬉しそうに笑いながら、白い耳の付け根をくりくりと撫で続け、こはくの抵抗力を奪い去っていくのだった。




