麒麟の研究 後編
こはくは静かな赤い瞳で、しばらくの間閻魔を見つめていた。
手は依然として、麒麟の暖かい首元を撫で続けている。
やがて——ふわりと、その人の姿の輪郭が揺らぎ始めた。
周囲の空気に、濃密な白が滲み出していく。
纏っていた衣の裾が、霧へと溶け散るように崩れ去り、底知れぬ白い気配がその華奢な身体をすっぽりと包み込んでいく。
閻魔は瞳を凝らした。変化の兆しだ。
こはくは昔から、こうして器の形を一度曖昧にほどいてみせる。
固定されたかたちを解き放ち、新しく取り込んだ構造と情報を流し込むようにして、その存在を変質させていくのだ。
白い気配が激しく流動する。骨格が根本から変貌を遂げていく。
華奢な人間の肩線がしなやかに伸び、背骨が獣のように優美に撓んだ。
肌だった場所には、滑らかな白銀の鱗が浮かび上がっていく。
上空からの淡い光を受けるたびに、それは乳白色の美しい光を反射させた。
さらさらと、雪のように白い鬣が溢れ出す。
それは人間の髪とも、獣の毛ともつかない不思議な質感を保ち、首筋から背中へと優美に流れ落ちていた。
腰の後ろからは、細くしなやかな尾が伸び、ゆったりと空を穿つ。
単純な野獣の尾ではない。どこまでも長く、流麗な曲線を描く神秘的な尾。
その先端近くには、風に揺れる柔らかな房毛が蓄えられていた。
そして、額の上。後ろに向かってゆるやかな弧を描くようにして、二本の美しい角が伸び上がっていく。
過剰な鋭さも、複雑な枝分かれもない。
滑らかな螺旋の模様を刻みながら、白い頭部から静かに生え揃っていった。
ぴくりと耳が動く。白い獣耳。
立ち耳に近い形状だが、麒麟の持つ高い神性に引かれているのか、少しだけ長く繊細なフォルムを誇っていた。
完全な麒麟そのものではない。
麒麟の構造を基礎としながらも、様々な神獣の美点を混ぜ合わせたような姿。
華奢な肉体は、重厚な力強さよりも、疾風のような速度へと特化している。
脚線は細くしなやかだ。だが、力強く地面を蹴りつけ、森を縦横無尽に駆けるのに最も適した機能美に満ちていた。
ただ佇んでいるだけだというのに、圧倒的な“走る生き物”の気配を撒き散らしている。
吹き抜ける森の風が、その雪のような鬣を優しく揺らした。
本物の麒麟が、静かに鼻を鳴らす。
それは拒絶や威嚇ではなかった。
むしろ自らに近い高潔な同類を見出したのか、ゆっくりと頭を寄せ、こはくの身体へと擦り寄せていく。
閻魔はあまりの出来栄えに、数秒間言葉を失っていた。
「……おお……」
ぽつり。
それは一切の飾りのない、純粋な感嘆だった。
「完成度高いね」
閻魔はゆっくりと立ち上がった。
変貌を遂げたこはくの周囲を半歩ほど回り込み、吟味するように観察する。
「角も自然だし、鱗の出方も綺麗。尾もちゃんと重心取れてる」
ただの素直な感想だった。
こはくは静かな瞳で閻魔を見つめ返している。
その赤い琥珀色に澄んだ瞳だけは、人の姿をしていた頃の面影を濃厚に残していた。
閻魔は微笑みを浮かべながら、そっと手を伸ばした。
雪のような白い鬣に触れる。さらりと指が滑らかに沈み込んでいった。
そのまま首元を覆う白銀の鱗へと手を滑らせる。
硬すぎることはない。だが、人間の皮膚とは明らかに異なる滑らかな感触。
一つの完結した生命として、見事に成立している質感だった。
「……すご」
閻魔は心底感心したように呟いた。
「ちゃんと“こはく”のままなのに、しっかり麒麟っぽい」
こはくの白い獣耳が、嬉しそうに小さく揺れた。
閻魔はその愛らしい反応に、思わず目を細める。
「でもさぁ」
そっと白い角の表面へ指先を触れさせた。
「やっぱ研究速度おかしいよね」
閻魔の指先が、白い鱗の境界をゆっくりと撫で上げていく。
首、鬣の生え際、耳の裏。
こはくは逃げようとはしなかった。
静かにその場に立ち尽くしたまま、閻魔の触れ方をそのまま受け入れている。
森の深部から白い霧が薄く流れ込んでくる。
麒麟はすっかり安心しきった様子で、地面へと大きな巨躯を完全に伏せていた。その温かい身体へと頭を預けながら、こはくは少しだけ目を細めて満足そうに身を委ねている。
閻魔はそんな子供のような姿を見つめ、ふっと息を漏らした。
「ほんと、なんでも出来るようになるね」
白い角を、爪の先で軽く弾く。
コン、と硬質な涼やかな音が響いた。
「俺の姿覚えた時も思ったけどさ、研究し始めると止まんないよね」
こはくの耳がぴくりと跳ねる。
そのわずかな動きだけで、どこか誇らしげなのが手取るように分かった。
閻魔は困ったように苦笑する。
「しかも完成度高いし」
白く長い尾が、優美に揺れた。
風に流れる鬣の隙間へと、樹木の間から落ちる淡い光が幻想的に落ちていく。
神獣としての圧倒的な気高さと、こはくという存在が本来持つ揺らめくような曖昧さが、完璧な調和を保っていた。
閻魔はしばらくの間、その美しさを愛おしむように眺めていた。
それから、ぽつりと言葉を零す。
「……でもさぁ」
声のトーンが、わずかに低く、柔らかく変化した。
「俺、ちょっと心配なんだけど」
こはくがすっと視線を向けてくる。
閻魔は軽く肩を竦めてみせた。
「こはく、こういうの夢中になると、ずっとやるじゃん。人型維持もそうだったし、研究もそう。面白いと思うと限界までやる」
昔から何一つ変わっていない。一度興味を持った対象には、己の境界線が摩耗するほど深く潜り込んでいく。
完全に理解し尽くすまで、止まることを知らないのだ。
こはくは数秒の間、無言のまま閻魔を見つめていた。
それから、静かな足取りで一歩だけ距離を詰めてくる。
雪のような鬣がさらりと揺れた。
麒麟の姿を模したまま、こはくは閻魔の肩口へと、そっと己の額を寄せ重ねた。
自慢の角が閻魔に刺さらないよう、少しだけ器用に首を傾けながら。
閻魔が驚きに目を丸くする。
そのまま、こはくはゆっくりと閻魔の衣の袖を、その白い歯で甘噛みするように食んでみせた。
離れるな、と無言で繋ぎ止めるかのように。
閻魔は数秒間動きを止め。
やがて、堪えきれずに小さく吹き出した。
「……何それ」
白い獣耳がぴくりと跳ねる。
こはくは言葉を発しない。
代わりに、流れるような白い尾が、ゆっくりと旋回して閻魔の脚へと愛おしそうに巻き付いた。
閻魔はその優しく強い絡みつきに、愛おしさを込めて目を細める。
「……はいはい」
髪のように柔らかな鬣を撫で上げた。
さらさらと指先が沈み込んでいく。
二人の間に、深く静かな時間が流れ始めた。
吹き抜ける森の穏やかな風。棚引く白い霧。伏せた神獣のゆっくりとした深い呼吸音。
その世界の中心で、こはくはぴたりと隙間なく閻魔へと寄り添い続けていた。
閻魔は困り果てたように笑みを漏らす。
「そんな顔されると、心配ほどほどにするしかないじゃん」
巻き付いた白い尾が、またゆったりと歓喜に揺れる。
閻魔はその尾の先端に指先で軽く触れ、絞り出すように小さく呟いた。
「……でも」
こはくがゆっくりと顔を上げ、閻魔を見上げる。
閻魔は瞳を細めた。
「俺だけにしてよ」
冗談めかした軽い声音。
けれど、その奥底には隠しきれない真切な本心が混ざり込んでいた。
伏せていた麒麟の耳が、ぴくりと反応して動く。
少し離れた場所に立つサーラメーヤが、悟ったように静かに視線を明後日の方向へと逸らした。
こはくは何も答えない。
ただ、閻魔の脚に固く絡みついていた白い尾が、ほんの少しだけ強固に、その熱を確かめるように強く巻き付いたのだった。




