麒麟の研究 前編
裁定の間には、ただ静かに紙の擦れる音だけが虚しく響いていた。
閻魔は朱筆を握り、書類へ視線を落としたまま、習慣となった問いを口にする。
「……サーラメーヤ」
「はい、おります」
「今こはく何してる?」
もはや、毎日の始まりのように自然な定型句だった。
側に控えるサーラメーヤも、すっかりその問いに慣れきっている。
「現在森におります」
閻魔は筆を滞らせることなく、淡々と頷いた。
「ふぅん」
「麒麟を触っています」
途端に、筆先が紙の上でぴたりと停止した。
数秒の、完全な沈黙。
「……何してるって?」
「麒麟を触っています」
「触る?」
「かなり熱心に」
閻魔は重い持ち手からゆっくりと顔を上げた。
サーラメーヤは変わらぬ無機質な真顔で報告を続ける。
「角や脚部構造など、現在確認出来るだけで二刻ほど継続中です」
「めちゃくちゃ触ってるじゃん……」
閻魔は頭を抱え、思わず絶句するように呟いた。
サーラメーヤは静かにその頭を縦に振る。
「こはく様は興味を持つと長いので」
閻魔は深く椅子背へともたれかかりこめかみを押さえる。
「……あー……また始まったかぁ……」
全てを察したような、呆れと理解の混ざり合った声音だった。
サーラメーヤは淡々と言葉を重ねる。
「恐らく模倣研究かと」
「だよねぇ……」
即座の納得。
こはくという存在は、興味の対象を徹底的に研究する。観察し、触れ尽くし、その全てを己の肉体で再現する。
とりわけ、生を持った異能の生き物に対する興味は凄まじいものがあった。
「昔、俺もめちゃくちゃ触られたなぁ……」
ぽつり、と掠れた吐息。
サーラメーヤの耳が、ぴくりと揺れる。
「人の姿を構築していた頃ですね」
「そうそう」
閻魔は苦笑混じりに言葉を継いだ。
「あの頃のこはく、人間ってものを理解したくてさ。髪はぐしゃぐしゃ触るし、骨格の出っ張り確かめるし、顔中撫で回してくるし、俺の手の平をずっと穴が空くほど見つめてくるし」
「その結果現在の姿を獲得されました」
「俺ベースだけどね」
閻魔は満足そうに小さく笑った。
現在こはくが取っている人のかたちは、『最初に学習した人間』の影そのままだった。
サーラメーヤは静かに告げる。
「今回は麒麟型への変化を試みている可能性があります」
閻魔の顔が、あからさまに嫌な予感を察した表情へと歪んだ。
「……角とか生える?」
「十分有り得ます」
「えぇ……」
だが、困惑を口にしながらも、その瞳にはほのかな好奇の色が混ざり始めていた。
閻魔はしばらく手元を見つめて思案する。
それから。
「……ちょっと気になるな」
握っていた朱筆を、コトンと机の上に置いた。
「見に行くか」
サーラメーヤが、静かにその巨頭を持ち上げた。
「宜しいのですか」
「ちょっとだけ」
閻魔は身を起こし、ゆったりと立ち上がる。
「どうせ今頃、麒麟側は“なんでこんな触られてるんだ……”って顔してるでしょ」
「かなり困惑しています」
「だろうねぇ……」
サーラメーヤが一歩前へ進み出た。
「案内致します」
「よろしくー」
二人は重厚な裁定の間を後にする。
静まり返った長い廊下。地獄の温い空気が肌に纏わりつく。
その横を、巨大な獣人が爪の音を鳴らしながら歩いていた。
その道中、閻魔はふと思い出したように笑みをこぼした。
「……でも麒麟かぁ」
「はい」
「こはく、絶対好きそう」
「大型、穏やか、神性持ち」
サーラメーヤが淡々とその性質を過不足なく並び立てる。
閻魔は深く深く頷いた。
「完全に好みだね」
軽口を叩き合いながら、二人はやがて冥府の深い森へと続く巨大な門を目指して歩を進めたのだった。




