気になって仕方がない
数日後のことだった。
静寂の広がる現世の屋敷の廊下を、片方のサーラメーヤが歩いていた。靴を履いていない犬の獣人の足は、板張りの床に爪音を響かせる。
その横を、すっと白い影が通り過ぎる。
なびく漆黒の髪。
こはくはふと足を止め、その美しい瞳で一度視線を落としてから、サーラメーヤを静かに見上げた。
「本日よりこちらへ常駐致します。閻魔様の御命令です」
こはくは数秒の間、無言のまま佇んでいた。
それから静かな足取りで寄ってくると、大きな獣の頭へと細い手を伸ばし、耳の後ろを愛おしそうに優しく撫でた。
冷たいはずの指が、不思議なほど温かみを感じさせる。
サーラメーヤの尾が、心地よさそうにゆっくりと揺れる。
同時に——地獄の裁定の間に残されたもう片方の身も、まったく同じ感覚を共有し、嬉しそうに尾を揺らした。
執務机で膨大な書面を精査していた閻魔が、その唐突な挙動に気づいて顔を上げる。
「……撫でられてる?」
「はい。こはく様です」
閻魔はしばらくの間、言葉を失ってその光景を見つめていた。
「……いいなぁ」
ぽつりと、羨望の混じった情けない本心が漏れ出た。
◇
それ以来、地獄の執務室において、閻魔の口癖が明確にひとつ増えることとなった。
「……サーラメーヤ」
「はい、おります」
「今こはく何してる?」
一日のうちに何度も、文字通り呆れるほど何度も問いかけてくる。
最初の頃こそ、サーラメーヤもその都度、誠実かつ丁寧に報告を返していた。
「現在、執務中です。冥府側資料の整理を行っています」
ある時は。
「お休み中です。書庫にて眠っておられます」
閻魔はその報告を聞くたびに、「あぁ……」と生気の抜けた声を漏らしたり、「ちゃんと休んでるならいいや……」と妙に安心したような安止の表情を浮かべたりしていた。
「……閻魔様」
ある日、地獄側のサーラメーヤが静かに言った。
「本日、既に九回目です」
「何が?」
「“今こはく様何してるか”の確認です」
閻魔はバツの悪そうな顔で、書類から視線を逸らした。
「そんな聞いてた?」
「聞いております」
「えぇ……」
己の執着ぶりに、自分自身で若干引いている。
だがほんの数秒後には、悪びれもせず重ねて尋ねるのだった。
「で、今は?」
「執務中です」
「そっかぁ……」
そして問題が起きたのは、それから数日後のことだった。
裁定の間。
閻魔はいつものように朱筆を滑らせながら、軽薄な調子で口を開いた。
「サーラメーヤ」
「はい」
「今こはく何してる?」
いつもの決まり文句。いつもの確認。
だからこそ、返答までにわずかな滞留が生じた瞬間、閻魔は即座に顔を跳ね上げた。
サーラメーヤは静かに佇んでいる。
だが、そのふたつの耳が緊張に微かに揺れていた。
「……サーラメーヤ?」
数秒の沈黙。やがて、重々しい声が落ちる。
「現在こはく様は」
そこで一度、言葉が途切れた。
閻魔の眉間にしわが寄る。
「……我々の目の届かない場所におります」
一瞬の静寂。閻魔の手が完全に止まった。
「……え?」
間の抜けた、掠れた声。
「見失ったの?」
「いえ、意図的に同行を制限されています」
閻魔の瞳が、急速に鋭く細められた。
裁定の間の空気が、一瞬にして冷たく凝固する。
「誰に」
サーラメーヤは直ちに答えた。
「外界の神々です。現在、謁見中。外界側の結界内にて会談を」
閻魔は朱筆を完全に机へと置いた。
「……同行できないの?」
「拒否されています」
「へぇ……」
落ちてきた声は、恐ろしいほど低かった。地獄の王たる威圧が漏れ出す。
サーラメーヤは淡々と説明を続けた。
「敵対ではありません。外界側の儀礼的制限かと。こはく様御本人も了承済みです」
閻魔は口を閉ざした。深い沈黙が、裁定の間を支配した。書類の音さえ、聞こえなくなるほどに。
やがて、低く問いかける。
「……どの神?」
「複数、現在判明しているだけで七柱」
「多くない?」
「多いですね」
感情を排したやり取り。
閻魔は机に肘をつき、口元を指で覆った。
思案を巡らせる王の顔。
だが数秒後、ぽつりと漏れたのは弱々しい問いだった。
「……ちゃんと帰ってくる?」
絞り出すような吐息。
サーラメーヤは一瞬だけ動作を止め、優しく応じた。
「はい。こはく様は、屋敷へ戻る予定です」
閻魔はしばらくの間、何も言わなかった。
ただ指先で、不規則に机の表面をトントンと叩き続ける。落ち着きを無くした時の癖だった。周りの獄卒たちは上司の苛つきを横目に見ていることしかできなかった。
「……戻ったら教えて」
静かな、けれど絶対的な拒否を許さぬ声。
「即」
「承知しました」
その返答から、およそ半刻が経過した頃。
地獄と屋敷、双方のサーラメーヤの尾が同時に大きく揺れた。意識を共有する二つの身体が、同じ喜びで同期した。
裁定の間に控えていた片方が、即座に口を開く。
「閻魔様」
「ん」
「こはく様が帰還されました」
閻魔は書類を放り出すように、即座に立ち上がった。
サーラメーヤが少しだけ耳を伏せる。
「……まだ“何をしているか”までしか聞いておりません」
立ち上がった姿勢のまま、閻魔はぴたりと止まった。
数秒の葛藤。
「……迎えくらい、いいでしょ」
少しだけ早足になりながら、閻魔は大股で裁定の間を飛び出していったのだった。




