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命令

こはくが「人の姿」を取ったまま現世の屋敷に居着くようになったのは、地獄という組織の側から見れば、あまりにも不意で唐突な出来事だった。


それまでのあいつは、形を持たない白い気配のまま、冥府の深淵を漂っていることの方が圧倒的に多かったのだ。


姿を固定化しない。決まった場所に留まらない。

気づけばすぐ傍らに佇んでおり、ふと視線を外せばもう気配すら消えている。


本来は、そういう無機質で神聖な存在だった。

だが、最近は明らかに違っていた。

現世の屋敷に佇んでいる。

明確な人間の姿を借りて。膨大な時間をそのかたちのまま過ごしている。


部屋をあてがい、書物を紐解き、時には静寂の庭へと足を踏み入れ、佇むように屋敷の中を歩いている。

その不可逆な変化を、誰よりも痛切に気に病んでいたのは、他ならぬ閻魔だった。


「……サーラメーヤ」


裁定の間。

山積みの書面から一切視線を外さぬまま、閻魔が低く呼びかけた。


「はい」

「おります」


二頭の犬の獣人はいつものように、閻魔の左右に影のように控えている。

閻魔はしばらくの間、固く沈黙を守った。

朱筆の先だけが、紙の表面を滑らかに擦る音を立てている。


「こはくの屋敷側、最近どう」


片方のサーラメーヤが即座に応じる。


「大きな問題はありません」


間髪置かず、もう片方が言葉を継いだ。


「滞在時間は増えていますが、行動に変化は少ないかと」


「……そう」


閻魔の声には起伏がない。

だがサーラメーヤには痛いほど理解できていた。この男が、どれほどまでにその事態を懸念しているかを。


こはくは元来、いかなる領域にも定着することのない「現象」に近い存在だ。

そんな歪な神が、“人のかたちをとって屋敷に留まり続けている”。

それは確実な変化であり、見方を変えれば変質そのものだった。

閻魔は静かに筆を置いた。


「……人の姿ってさ」


低く、滲むような声。


「疲れると思う?」 


サーラメーヤは即答せず、数秒間の思考を挟んだ。


「こはく様は特殊ですので」

「断定は出来ません」

「ですが」

「定着は負荷になります」


閻魔は静かに目を伏せた。

すでに予期していた通りの返答だった。

場に落ちる、重い静寂。

やがて、閻魔は深々と椅子へと背をもたれさせた。


「サーラメーヤ」


「はい」 


「命令」 


二頭の獣人が、微かにその身を緊張させ、姿勢を正す。

閻魔は噛み締めるように、ゆっくりと言葉を紡いだ。


「片方、屋敷へ回れ」 


裁定の間の空気が、ぴんと張り詰めた。


「……屋敷へ」

「常駐する」


サーラメーヤは即座に首を縦には振らなかった。

二頭でひとつの個体。基本的に決して分かたれることのない存在。

閻魔も当然、その理を知り尽くしている。だからこそ、これは途方もなく重い下命だった。


「理由を伺っても」


閻魔はかすかに眉根を寄せた。


「こはくが無茶した時、止める奴が居ない」


ぽつり、と掠れた本心が漏れる。


「最近、人型で居る時間が長すぎる。俺が地獄で死者を捌いてる間もずっとだ。……あいつ、己の消耗に対して恐ろしいほど鈍いから」


サーラメーヤは静かにその言葉を受け止めていた。

閻魔はなおも言葉を重ねる。


「あと」


そこで少しだけ、吐息が詰まった。


「……連携。地獄と屋敷、今のままだと微妙に距離がある。……お前達なら、そこを繋げられるだろ」


二頭の耳が同時に微かな動きを見せた。意図を完全に理解したのだ。

片方を現世の屋敷へ常駐させ、片方を地獄の王の傍らに残す。


感覚と意識を完全に共有するサーラメーヤであれば、どれほどの空間を隔てていようとも、情報を同調させることができる。


「成程」

「効率的です」


閻魔は苦笑いを浮かべた。


「効率だけじゃないけどね」


零れ落ちた小さな本音。

サーラメーヤはその機微を逃さずに拾い上げる。


「……心配ですか」


閻魔は否定しなかった。

訪れる、途方もなく長い沈黙。


「こはくってさ」


ぽつりと、静かな声が部屋に落ちる。


「居なくなりそうな感じする時あるんだよね」


絞り出すような吐息。


「今そこに確かに存在してるのに、ふっと輪郭が薄くなる瞬間がある。俺のまったく知らない深い場所へ、そのまま帰っていきそうで」


サーラメーヤは言葉を返さなかった。その危うさは、彼ら自身もとうに熟知していたことだからだ。


こはくという存在は、あまりにも「生」や「個」としての輪郭が曖昧すぎる。

どれほど巧みに人の姿を模倣していようとも、本質は底知れぬ白い気配のまま。

一つの場所に留まり続けること自体、本来の理に反しているのだ。

閻魔は手元へと視線を落とした。


「……だから、見ててほしい。屋敷で、ちゃんとそこに居るか。無理をして減りすぎていないか、俺が裁定に追われて、気付けない時も」


サーラメーヤは、二つの頭を同時に優しく伏せた。


「承知しました」

「片割れを屋敷へ常駐させます」

「情報共有も常時接続へ移行を」

「地獄側の処理速度も向上するかと」


「うん」


閻魔はかすかに口元を緩めた。


「便利だね、お前達」


「光栄です」


淡々とした機械的な返答。

だがその声の輪郭には、わずかな温もりが宿っていた。

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