地獄にいるのは俺だけ
こはくが人のかたちを完全に覚えてから、地獄に姿を見せる時間は少しずつ減っていった。
最初はごく微小な変化に過ぎなかった。
閻魔の仕事が増えれば、それを眺めるように傍らに座す。大釜の様子を見に行くとなれば静かについてくる。裁定の場に閻魔が立てば、少し離れた影から亡者たちを俯瞰している。
それがいつの間にか、閻魔にとっては「当たり前の日常」となっていた。
こはくがそこにいる。
ただそれだけの事実を、気にも留めないほど当然のこととして受け入れていた。
地獄の王として君臨するにつれ、閻魔の仕事量は爆発的に増えていった。
死者の増大。地獄の機構の整備。
部下が増え、効率的な裁定のラインが組み上がり、大釜の管理すらも以前ほど手がかからなくなっていく。
「はい次ー」
素早く書類をめくる。
「それはそっち。あと、こっちは却下」
部下の返事を聞く前に、視線は次の書面へと滑っていく。
「閻魔様、こちらの亡者について――」
「それ前と同じ。記録見て」
「はい」
「あと今日の分、まだ残ってる?」
「三百七十二件ほど」
「多いなあ」
口ではそうぼやきながらも、閻魔の手が止まることはない。
昔であれば一件の魂に対して膨大な時間を費やしていた。けれど今は違う。
何を見極め、何を切り捨て、どこまで己が介入すべきなのか。そのすべてが手のひらを見るように分かるようになった。
そして、そんな日々が続いていたある日のこと。
こはくは、何の前触れもなく地獄から姿を消した。
正確には、閻魔の主観において「突然」だったのだ。
その日の朝も、いつもと変わらぬ始まりだった。
閻魔が目を覚まし、書類に目を通し、大釜の安定を確認し、部下から定期報告を受ける。
こはくがその場にいないことには、最初、気づきもしなかった。
昼、夜と過ぎていく。珍しいことだ、と思ったが、やがて胸騒ぎが漂い始めた。朝になってもこはくは現れない。
そこでようやく、閻魔は書類から顔を上げた。
「……こはくは?」
控えていたサーラメーヤが、静かに一歩前へ出た。
「本日は、こちらへお越しになりません」
「今日?」
「はい」
「なんで?」
「屋敷へ戻られました」
閻魔は一瞬、その言葉の意味を租借できなかった。
「……屋敷?」
「はい」
「いつもの?」
「はい」
明日にはふらりと戻るだろう。閻魔はそう思い直し、深く追求することはしなかった。
だが戻らない。その翌日も、さらに次の日も。
「……遅くない?」
積み上がった書類を片付けながら、閻魔がぽつりと溢した。
サーラメーヤは変わらぬ姿勢で傍らに控えている。
「何がでしょうか」
「こはく」
「はい」
「戻ってこないけど」
「戻られません」
「……なんで?」
「本拠を屋敷へ移されたためです」
閻魔の手が、ぴたりと止まった。
「本拠?」
「はい」
淡々としたその言葉だけが、嫌に耳に残った。
「……地獄じゃなくて?」
「はい」
「屋敷が?」
「こはく様の本拠となります」
閻魔は口を閉ざした。
手元の書面に目を落とす。文字の羅列は視界に入っているのに、一字として頭に滑り込んでこない。
「いつ決めたの」
「こはく様が決められた時点で、すでに決定しております」
「俺、聞いてないけど」
「閻魔様へご報告する必要があるとは、こはく様からは伺っておりません」
「……そう」
閻魔は笑ってみせた。いつものように軽薄に。
「まあ、そうだよね」
そう言って書類を一枚めくってみる。けれど、やはり文字は滑っていくばかりだった。
地獄を出ていき、現世にある屋敷を本拠に戻る。
客観的に考えれば、何ひとつ不自然なことではないのだ。
こはくはそもそも地獄の住人ではない。元より生者の世界に存在する、人ならざるものたちの領域に立派な屋敷を構えている。そこがあいつにとっての本来の「在り処」なのだ。
地獄に滞在していた理由すら、もとはといえば閻魔が地獄を創り上げ、理を整えていくプロセスにあいつが面白がって付き合っていただけに過ぎない。
それなのに。
「……なんで今?」
掠れたぼやきが漏れる。サーラメーヤが静かに応じた。
「閻魔様が地獄を十分に運営できるようになったためかと」
閻魔が顔を上げる。
「俺が?」
「はい」
「俺が地獄を回せるようになったから?」
「そのように考えられます」
あまりにも筋の通った理由を突きつけられ、閻魔は返す言葉を失った。
そうか。確かにその通りだ。
閻魔はもう、自分の力だけで地獄という巨大な世界を動かせる。
部下も揃い、システムも完成し、膨大な死者が押しかけようと淡々と処理できる。
昔のように、こはくが隣に寄り添っていなければ何もできなかった自分ではないのだ。
大釜の制御も、裁定の判断も。
地獄という世界そのものが、今や閻魔を中心に滑らかに旋回している。
こはくが、いなくても。
「……そっか」
閻魔は自嘲気味に笑った。
「俺、ちゃんとできるようになったんだ」
「はい」
「じゃあ、もういいってことか」
サーラメーヤは微かに首を傾げた。
「何がでしょうか」
「……いや」
閻魔はそれ以上、言葉を紡がなかった。
その日の執務は、恐ろしいほど順調に終わった。
いつも通りに亡者を裁き、いつも通りに部下へ指示を飛ばし、いつもの軽口を叩いた。
「はい次ー」
「それ却下」
「駄目。やり直し」
声のトーンも変わらない。
地獄の歯車は何の支障もなく回り続けている。
何の問題もない。完璧だった。
なのに。
夜になり、閻魔は静まり返った私室へと戻った。
そこには、かつてこはくがいつも座っていた場所がある。
何度も隣に腰掛け、何度も肩を並べ、言葉もなくただ時間を共有した場所。
閻魔は吸い寄せられるように、そこへ腰を下ろした。
「……静かだな」
当たり前だった。こはくはいない。ただそれだけのこと。
それなのに、部屋が恐ろしいほど広く感じられた。
「別に、いいけど」
誰もいない空間へ向けて呟く。
「俺だって一人で仕事できるし」
静寂が返ってくるだけだった。閻魔は苦笑した。
「昔は俺が何もできなかったから、いてくれただけなんだもんな」
そう理由づければ、綺麗に納得がいった。
最初の頃の自分は、今よりずっと無力で不器用だった。
死者の導き方も、地獄の動かし方も、己の存在意義すら宙に浮いていた。
昔は傍らにいてくれた。けれど今は違う。自分は王だ。誰の支えも必要ない。
そういうことなのだ。
「……分かっては、いるんだけどさ」
閻魔はぽつりと零した。
それでも胸の奥に、ぽっかりと削り取られたような寂しさがあった。
その惨めな感情と向き合うのが嫌で、閻魔は寝台へと逃げるように倒れ込んだ。
いつもこはくがいた場所が今夜だけ異常に静かで、自分の呼吸がやけに大きく聞こえる。瞼を開き、暗い天井を見つめた。
「……できれば、いてほしかったけどな」
それは誰の耳にも届かない、小さな独白だった。




