海つ道《うみつみち》
鞍馬山の急峻な崖の上、見晴らしの良い花咲く野原の縁に、土を盛って墓を作った。一晩中、雅覚が寺で香を焚いたせいか、大叔父の亡骸は天上の香りがした。
「妖は人と共に在ってこそだ。鞍馬の貂は立派な妖であった」
雅覚は坊主らしく、丁寧に遺体を葬った。そしてその晩、御斎の貂と雅覚は、鞍馬の貂を偲んで夜っぴて酒を酌み交わしたのだった。
「御斎の貂、今後は伊賀に戻るのか」
『私は東国へ参ろうと思います』
盃を傾けながら、貂は雅覚にそう告げた。妖の血縁を失った貂は、寄る辺のない心許なさと同時に、自らを留め置くもののない真の自由を感じていた。もう鞍馬にも伊賀にも、貂を縛るものは何もない。今こそ新天地に向かう時だと、貂は確信していた。
「往くのだな。その身を滅ぼさぬよう、用心なされよ」
大叔父の好きだった濁酒を呷りながら、貂は昨晩の皐月のことを思い出す。
貴布禰神社からの帰途は夢うつつであった。皐月は再び白装束に変化して庵までの復路を辿ったが、その身体は奥宮の御神木がそうであったように青白い光を帯び、行く手に厚く立ち籠めていた霧でさえも、左右に分かれて皐月に路を空けるようだった。鬼とはこのように美しいものであったかと、貂は感嘆した。
皐月が庵に帰るまで後を追い続けた貂は、霊気漂う皐月の姿に見惚れて、夜闇の道中で倒木の枝を踏み抜き、脚を痛めた。鋭い痛みの疼く片方の後ろ脚を引き摺りながら庵まで付き従って行った貂に気付いた皐月は、中には入らず、庵の前で貂が追い付くのを待っていた。
「怪我をしたのか、貂」
『そなたのあまりの変貌ぶりに驚いて、油断したのだ』
皐月は優婉に目を細めて足元の貂を見下ろすと、不意に屈み込み、ひょいと貂を抱え上げた。そのようなことをされたことのない貂は、驚き慌てふためいて声を上げる。
『おい、何をするのだ』
「思いのほか軽いな」
あしらうように軽く言って、皐月は貂を懐に抱いたまま庵の中に入った。女の馥郁たる香りと体の温もりに包まれて、貂は夢を見ているような心地だった。燈した蝋燭の灯りで貂の脚を丹念に調べて、皐月は言った。
「棘が刺さっておる。抜いてやろうな」
皐月は貂の後ろ脚に刺さった棘を抜き、自らの旅荷から取り出した膏薬を傷口に塗った。
『済まぬな、皐月』
「滝夜叉だ。貂。妾は明朝、筑波に向けて発つ」
事もなげに、しかし貂の顔は見ずに皐月、否、滝夜叉姫は言った。
『筑波。そなた、御父上の仇を討つのであろう。平将門公のお屋敷は豊田にあると聞いておるが』
「弟を迎えに行かねばならぬのでな」
傷の手当てを終えた滝夜叉姫は、庵の古板の床の上にそっと貂を下ろした。そして、貂の顔に視線を注ぎ、薄く微笑む。
「長きに亘る貴布禰詣りも、お主のお陰で心挫けず、退屈することもなかった」
『皐月、いや、滝夜叉。大叔父の弔いが終わったら、私も坂東へ往こう。私にはもう、何のしがらみもないからな』
「お主のように時を超えることができれば、しがらみはなくなるものなのだな」
寂しげに遠くを見つめる滝夜叉姫の姿が、貂の目に切なく映る。貂は掛ける言葉もなく、翳りのある滝夜叉姫の儚げな顔をじっと見つめていた。
大叔父の弔いを済ませた貂は、足の傷口が治るのを待ってから旅立った。雅覚に別れを告げて、遥か東国の地を目指す。まずは琵琶湖の南岸を通り、海つ道に抜ける。滝夜叉姫は立派な馬を駆っていたが、貂は人目につかない険しい山中を徒歩で往く。遠い旅路ではあったが、貂の心は軽かった。折角の長旅である。急ぐ必要はなく、貂は秋頃に滝夜叉姫を訪うくらいのつもりで、あちらこちらへと寄り道をした。もとより好奇心の強い貂は、旅の途中で見るもの聞くものすべてが興味深く、飽きることはない。時には人の姿に化けて里に出て、土地ごとの暮らしぶりを窺ったり、旅人の噂話に耳をそばだてることもあった。
貂が鞍馬山を旅立ってふた月ほどすると、滝夜叉姫の噂を聞くようになった。どうやら滝夜叉姫は、平将門公が生前に建てた相馬の城で多くの手下を従えて、朝廷の命に背いて狼藉を繰り返し、謀反を企てているということだった。それを聞いて、貂はほくそ笑む。あの妖艶で美しい滝夜叉姫のことだ。数多の男を誑かし、味方につけたに違いない。屈強な若侍たちを麾下に置いて、その頂点に君臨する滝夜叉姫を思い描くだけで、貂の心は浮き立ち、誇らしいような気すらしていた。
海を見るのも、貂は初めてだった。山ならば、古巣である伊賀の御斎峠のみならず、鞍馬や貴船、鈴鹿の山など、飽きるほど見てきた。海とは、なんと広く平らかで、開けっ広げなのであろうか。道中経てきた琵琶湖の眺望も絶佳であったが、大空の下に隠すものもなくただ海だけが在り、無数の波頭が白く立っては消える様は筆舌に尽くしがたい。しかし一番の驚きは、海の水の塩辛さであった。これほど塩辛い水から獲れた魚は、さぞかし塩味が強いのだろうと思ったが、意外にも味は川魚のそれと変わらず、より大ぶりな魚の身は脂が乗って美味だった。
貂は海を気に入り、夏の季節を海辺に逗留して、その暮らしを楽しむことにした。ただ、慣れぬ土地であるため、妖であることが人に知れぬよう、細心の注意を払った。気心の知れた御斎峠の麓の村ならばいざ知らず、旅人の往来の多い土地では、害悪のあるとないとに拘わらず、妖と見れば討たれかねないということは、大叔父の死を以って身に染みている。
旅の行者に化けた貂が、村の神社の境内で開かれる朝市を冷やかしていた時だった。筵の上に野菜や穀物、木器や土器などを並べた行商らしき男と村人が相馬の姫君について声高に話しているのを貂は聞きつけた。
「将門公の姫君は、父を討った俵藤太秀郷と平貞盛を妖術で陥れたそうだな」
「女だてらに何とも天晴だ」
「しかもこれが、傾城の美女という話じゃないか。一度でいいから拝んでみたいものだ」
滝夜叉姫の仇討が、英雄譚として語られているのは小気味よい。苦労して妖術を身に着けた滝夜叉姫が、ようやく無念を晴らしていることを、貂は嬉しく思った。
「しかし、このままではお上は黙っておるまいな」
「ああ。相手は妖術使いだ。武人で駄目ならと、今度は陰陽師を差し向けるそうだ」
(陰陽師……)
売り物を品定めするふりをして行商人と村人の話に聞き耳を立てていた貂は、覚えのあるその言葉に眉を顰めた。陰陽師とは、確か京の官人のことではなかったか。常人ならざる異能を持つ陰陽師は、吉凶を占い、怪異を祓う。京の貴人は押しなべて陰陽師の作った暦に従って、物忌みや方違えというような、凶事を避けるための七面倒な儀式を行うのだと大叔父が言っていた。なるほど、陰陽師に滝夜叉姫を調伏させようという魂胆か。勇猛果敢な滝夜叉姫に限って、容易に刺客に屈するとは思えないが、貂の胸中に一抹の不安がよぎった。
晩夏の頃に、貂は朝廷の勅命を受けたという滝夜叉姫討伐の一行が箱根を過ぎるのを見かけた。噂では、遣わされたのは大宅中将光圀と山城光成という二人の陰陽師であるらしい。貂は成熟した深緑色の山の高みの木立から、遠目に二人を窺った。白縹の狩衣を着た光圀は、切れ長で冴えた目元をした色白の男で、聡明で抜け目のない顔立ちをしていた。光成はその弟子であるらしく、少年のあどけなさを残した血気盛んな若者のようで、浅黒い肌に梔子色の狩衣がよく映える。数人の従者を率いる二人の陰陽師は、照りつける残暑の陽射しの下、立ち並ぶ木々が色濃く日陰を作る細い路を、手入れの行き届いた馬に跨って登っていく。
『あれが陰陽師か』
朝廷から平素、討伐に下されるような荒々しい兵とは異なり、碌に武装もせずたおやかに馬を進める一行は、冷静沈着で逸る様子もない。その落ち着き払った眉目秀麗な陰陽師の風貌に、貂は妙な胸騒ぎを覚えていた。
『相馬まで、少し急ぐとするか』
貂は呟いて、眼下に広々と横たわる坂東の未開の平野を見晴るかした。




