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月のない夜を  作者: 朔蔵日ねこ


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相馬

 貂の悪い予感は的中した。

 平野に広がる稲田に一面金色(こんじき)の稲穂がそよぐ頃、大宅中将光圀おおやけのちゅうじょうみつくにとその一行は、ようやく下総国しもうさのくにに到着すると、すぐさま滝夜叉姫の妖術で囚われの身となっていた俵藤太秀郷と平貞盛を救い出した。領主の帰還を待ち侘びていた秀郷の配下である佐野の軍勢は、十日も経たないうちに挙兵して相馬に参集した。悪名高い平将門の娘である妖術師・滝夜叉姫が朝廷打倒の拠点にした相馬の城は包囲され、武力のみの取り巻きはすでに潰えたが、幻術により魔城と化した古い屋敷には、今も滝夜叉姫をはじめ、弟の平良門たいらのよしかどや夜叉丸、蜘蛛丸といった妖術使いの手下たちが立て籠もっていた。

 屋敷にほど近い小高い丘の枯れて茶色みを帯び始めた森に身を潜めて、貂が相馬の城を臨んだのは、肌を刺す秋風の冷たい、有明月が東の空に浮かぶ朝である。相馬の城は、皐月が一夜を明かした鞍馬山の破れ寺より傷み荒み、傾いた屋根や腐り果てて剥げかかった壁板にどす黒い妖気を纏う姿は、禍々しいことこの上ない。

『滝夜叉……』

 貂は滝夜叉姫の身を案じたが、どうすることもできず、丑の刻参りの時と同様に、ただ見守るだけであることが歯がゆかった。

 嵐の前のような、冷たく張り詰めた奇妙な静寂しじまが耳を衝く中、包囲網は日没まで微動だにしなかった。刻一刻と空に沁み込む宵闇が、かぐわしくも身を冷やす夜風を連れてくる頃。騎乗して屋敷の前に進み出る男の姿があった。かの大宅中将光圀と弟子の山城光成である。光圀は、切れ長の目に刃のように鋭い光を宿し、瘴気渦巻く城を見上げる。城はこの見目麗しい陰陽師を受け容れるべく、門を自ずと開いた。中では、女房装束の女が顔を隠した扇子の陰からつり上がった目だけ覗かせて待ち構えている。

「そなたが滝夜叉姫か」

『はて。何のことやら。主が奥でお待ち申し上げております』

 馬を降りた光圀と光成を、澄ました女が先導して屋敷の中へと消えていく。滝夜叉姫は陰陽師を迎え討つつもりか。貂は居ても立ってもいられなくなった。

 城は二千余の軍勢で取り囲まれて、蟻一匹通さぬ気魄である。貂は辺りを見回して、兵の目をかいくぐり中に入れる隙を探した。屋敷の傍ら、樫の木の大木が何本か群がり、広げた枝葉が傾いた屋根の庇に接していた。黄色く色づく大きな葉は貂の金色の毛色に似て、寒々と風に揺れている。貂は灌木の繁みを通り抜け、屋敷から最も遠い樫の木に近づくと、するするとその幹を登り、枝から枝へと伝って屋敷の屋根の間近に迫る。そして、風に舞う樫の落葉らくように紛れて庇に飛び移ると、まんまと城の屋根裏に忍び込んだ。

 天井板は傷みがひどく、小さな貂が忍び足で歩いても踏み抜きそうなほどで、一歩一歩と、階下に朽ちた欠片が落ちていく。貂はできる限り音をたてずに、天井板の破れ目から下を覗き込んだ。

 薄暗くがらんと広い部屋の中、蠢く二つの影がある。夜目の利く貂には、それが二人の童子であることがすぐに分かった。頭が大きくずんぐりしていて、人の子ではないように思われる。一人は赤毛、もう一人は白銀の髪をした童子は縛り上げられ、部屋に捨て置かれているようだった。貂が天井裏からするりと部屋の中に降り立つと、童子たちは大きな眼をぎょろつかせて貂を見た。急に血生臭い匂いが貂の鼻を突き、暗闇に目を凝らせば、大きな蜘蛛が無残な姿で横たわっているのが目に入った。

『お主らは、滝夜叉の手の者か』

『そうだ。われらは妖術使いだ。うぬは化け貂だな』

 白銀色の髪の童子が甲高い声で応じる。童子たちを縛っているのは、討伐された大蜘蛛の糸のようだ。

『私は滝夜叉と旧知の化け貂だ。滝夜叉はどこにおる』

『この蜘蛛の糸を切ってくれ。さすれば、姫のもとに案内しよう』

 貂は早速、鋭い歯で二人を縛っている蜘蛛の糸に齧りついた。糸は荒縄に似て堅くごわごわしており、粘り気があるので苦心したが、貂は何とかそれを喰いちぎり、童子たちを解放した。

『助かった。吾は夜叉丸と申す』

 白銀色の髪の童子がすっくと立ちあがって名を名乗る。続いて、赤毛の童子も立ち上がる。

『吾は蜘蛛丸だ。あの光圀という陰陽師は吾が妖術で生み出した大蜘蛛を斬り伏せて、吾らを引っ捕らえたのだ』

『姫の色香にも容易に惑わされず、霊酒にも口をつけぬ。あのような輩は初めてだ』

 童子が口々に話す光圀の様子に、貂は不安を募らせた。

 夜叉丸は鬼火を出して行く先を照らし、約束通り、荒れ果てた伽藍洞の屋敷の中、貂を奥へと導いた。最奥の部屋の前に立てられた几帳の向こうから、眩しくも怪しい光が洩れ出している。近づくにつれ、部屋の中から激しく刃を交える音が聞こえた。夜叉丸と蜘蛛丸が駆け出して、部屋の中へと飛び込んでいく。

『姫!良門殿!』

 後から追った貂も、几帳の隙間から中を覗く。凄まじい死闘が繰り広げられていたのではあるが、それは何とも幻想的で美しい光景だった。妖術により生み出された極彩色の空間で、男が二人、斬り付け合っている。大宅中将光圀と平良門である。その後ろには、きらびやかに着飾った遊女姿の滝夜叉姫と、人が一人乗れるほどの大きな蝦蟇蛙がまがえるが控えている。太刀を構える山城光成に遮られた夜叉丸と蜘蛛丸が、じりじりと後退りして几帳を倒した。貂は倒れた几帳の帷子かたびらに埋もれ、その中から、部屋の様子をじっと窺った。

「さぁ、陰陽師殿、わらわの妖術をとくとご覧あれ」

 妖美漂う滝夜叉姫が、刀印を結び、巨大な骸骨を召喚する。見上げるほどの大きな餓者髑髏がしゃどくろの周りに、無数の小さな髑髏が浮かび上がり、さざめいている。絵巻物のようなめくるめく光景に、貂は我を忘れて溜め息をつく。

 怜悧で眉目秀麗な陰陽師は太刀裁きも美しく、良門は光圀の前に敢無あえなく膝をついた。滝夜叉姫側は明らかに劣勢である。

『ああ、もうお終いだ』

 二人の童子がおろおろと、部屋の前で右往左往している。そこへ滝夜叉姫が声を張り上げた。

「夜叉丸、蜘蛛丸、良門殿をお連れしろ」

 そして自らは、蝦蟇蛙と餓者髑髏を従えて、光圀と光成の前に立ちはだかる。

「この滝夜叉が、お相手(つかまつ)る」

 餓者髑髏が陰陽師たちに襲い掛かった隙を見て、夜叉丸と蜘蛛丸が手負いの良門に駆け寄り、体を支えて運び出す。

 けたけたと不気味な笑い声を上げる無数の髑髏を光成が斬り付けている間に、光圀は目を閉じて静かになにがしかの呪文を唱え、太刀をひと撫ですると、刀身に光が宿った。すかさず光圀は餓者髑髏に向かって光る太刀を振りかぶり、一閃する。餓者髑髏は脆くばらばらと崩れ落ち、骨片がざらつく床板に散乱した。

 一方、滝夜叉姫は蝦蟇蛙が吐いた濁った緑色の曖気あいきを扇子で搦め取り、餓者髑髏に送る。すると、解体して散らばった骨が餓者髑髏の身体に吸い寄せられ、元の姿に戻っていく。

「なんと」

 光成の相手にしている小さな髑髏も同様で、斬っても斬っても、砕けては元に戻り、けたけたと笑い続ける。

 しかし貂には、滝夜叉姫が弟の良門を逃がすまでの時を稼いでいるに過ぎないことが分かっていた。滝夜叉姫は、ここで散る覚悟なのだ。貂は居たたまれなくなった。

 光圀は冷静に餓者髑髏を幾度も切り崩し、滝夜叉姫を追い詰めていく。

「滝夜叉姫、覚悟召されよ」

 滝夜叉姫が蝦蟇蛙とともに壁際まで詰め寄られ、光圀が霊剣を振り上げたその時。意を決した貂は帷子の中からまろび出て、部屋の天井を超えんばかりの大きな火柱に化ける。

「火を放ったか……!」

 光圀と光成が怯んだ隙に、貂は叫ぶ。

『逃げろ、滝夜叉』

 蝦蟇蛙が、ドロンと煙を上げて、白い馬に姿を変える。驚いて火柱を見上げていた滝夜叉姫は、一瞬躊躇したが、蝦蟇蛙の化けた白馬の背にひらりと飛び乗った。滝夜叉姫が手綱を引き絞ると、馬は腐った戸板を蹴破って庭に出る。同時に貂も、火柱から獣に戻り、馬を追って駆け出した。

 屋敷のちょうど裏手にも数本の樫の木が立ち並んでおり、その根元には枯れ葉が幾重にも積もっている。貂は咄嗟に旋風つむじかぜを起こし、枯れ葉を天高く舞い上げた。城を取り囲んでいた兵士たちが、夜空に向かって一斉に矢を放つ。

 舞い上がった枯れ葉は花となり、甘い芳香を放ちながら降り注ぐ。その花吹雪の中を、白馬に跨った滝夜叉姫が、まきの方へと走り去る。あっという間の出来事に、兵士たちは矢を射ることも忘れて、呆気にとられていた。


 貂は牧に逃れた滝夜叉姫を異層に隠し、追手を欺いた。異層とは、狐狸などの獣妖怪が人を化かす時に使う術で、現世と異界とをつなぎ、道に迷わせたり在りもしない家屋の幻影を見せたりするものだ。そもそも月の姿の空に無い新月の夜である。あでやかな滝夜叉姫の影を紛らわすのに、漆黒の闇は好都合だった。

 白馬は牧を走り抜け、人家や田畑の点在する人里を離れ、未だ拓かれていない野生の原野に到達した。広い草原くさはらから唐突に湧き出したような黒々とした森のほとりで、滝夜叉姫は馬を降りた。白馬に並走していた貂も、そこで足を止める。

「蝦蟇よ。ご苦労であった。還るが良い」

 滝夜叉姫に労われ、白馬から元の姿に戻った蝦蟇蛙は、そのふてぶてしい眼差しであるじを見上げ、物言いたげな様子をしていたが、結局何も話すことなく、煙とともにドロンと消え去った。

 笛のように高い音を立てる風の吹きすさぶ原野に、滝夜叉姫と貂の姿だけがあった。

「良門は、うまく逃げおおせただろうか」

 まばらな星の瞬く暗い空を仰いで、滝夜叉姫は呟く。その瞳から、透き通った岩清水のような雫が一筋、頬を伝うのを貂は見た。

「夜叉丸と蜘蛛丸を解き放ったのはお主か、貂」

 とめどなく溢れ出す涙を隠そうともせず、滝夜叉姫は貂に問う。貂は無言で頷いた。

「そうか。助かった。礼を言う」

『滝夜叉……』

 滝夜叉姫は、張り詰めた糸が切れるようにくずおれて、地面に両膝をついた。

「ああ、口惜しい……。あの陰陽師め……」

 着物の袂で顔を覆い、滝夜叉姫は肩を震わせる。静かな嗚咽が、草むらで鳴く秋の虫の音に重なった。

『滝夜叉。今宵は休め。新たな日々を迎えれば、また仇討ちの機も巡ってこよう』

 どんな言葉を掛けても、気休めに過ぎないことは貂も承知していた。だが、身を裂くような絶望の淵にある滝夜叉姫に、寄り添わずにはいられなかった。

 原野から森へと続く草むらの、小さな土手の下に自然にできた洞があった。貂はささやかながら、妖力で庵を結び、失意に暮れる滝夜叉姫をそこに導いた。

 坂東の森にも、秋の果実は豊かに実っていた。貂は滝夜叉姫を、庵に見せかけた洞に休ませ、明日に備えて森から木の実を集めてきた。

 そうしている間に滝夜叉姫の嗚咽も収まり、泣き疲れた子どものように微睡まどろみはじめたようだった。

「貂よ……」

 森から戻った貂を、滝夜叉姫が呼ぶ。

「妾が貴布禰で妖術を手に入れて、お主に別れを告げたのも、新月の夜であったな」

『そうだな』

「今宵、妾は本物の夜叉になるかもしれぬ」

 滝夜叉姫の言葉に驚いて、貂は赤く泣き腫らした滝夜叉姫の目を、まじまじと見つめる。枯れた草の積もった洞の底は、貂の術で柔らかな褥になっており、滝夜叉姫はそこに身を横たえている。貂は滝夜叉姫のそばまで駆け寄り、その顔を覗き込んで諭すように言った。

『ならぬ。鬼にはなるな、滝夜叉。鬼になれば、怨嗟の火種は尽きぬ。怨霊ならば、祀られることで神になるのだぞ』

 貂自身、今ならば、神格を得ることが何を意味するのか理会した。気高い志を持った美しい姫は、神になることこそが相応しい。再び滝夜叉姫の頬を涙が濡らし、貂はその熱い雫をそっと舐めた。

「貂。今宵は冷えるな。傍にいてくれ」

『無論だとも。泣くな、滝夜叉。ぬくめてやる。特別だぞ。貂の毛皮は暖かいからな』

 そう言って、貂は滝夜叉姫にぴたりと身を寄せる。

『滝夜叉。そなたが望むのであれば、この先幾度となく巡りくる月のない夜を、そなたとともに過ごそう』

 貂は子どもを寝かしつけるように、滝夜叉姫の耳元に優しく囁いた。滝夜叉姫は何も答えず、ただ温かい貂の身体を掻き抱いた。


 翌朝、目を覚ました貂の傍らに、滝夜叉姫の姿はなかった。貂が集めた木の実の半分がなくなっており、代わりに赤く色づいた実葛さねかずらの実とともに、一首の歌が残されていた。

――木綿畳ゆふたたみ 田上山たなかみやまのさなかづら ありさりてしも今にあらずとも

 それは万葉の歌集にある歌であったが、貂は知る由もなかった。ただ、田上山の実葛の蔓が伸びるように、このまま生きながらえて、いつか再び会いたいという歌の主旨を汲み、貂は滝夜叉姫が鬼にはならなかったことを悟ったのだった。

 貂はその顔に満面の笑みを浮かべた。これだから、生きるということは面白い。この世には、まだ貂の知らぬ事柄や抱いたことのない情動が数多あまた存在するのだろう。貂はそれを心ゆくまで味わいたかった。どこまでも、好奇心の強い貂である。滝夜叉姫との再会を祈りつつ、叶うものならば永遠の生を得たいと、貂は秋風の吹く荒涼とした平野を見渡して、心に思うのだった。


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