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月のない夜を  作者: 朔蔵日ねこ


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3/5

貴船

 翌日、貂は早朝から鞍馬の山中を駆け回っていた。陽当たりの良い山の南側には丈の低い草花が群生する野原がある。人の踏み入れることのない急峻な崖を登ると、一面に広がる緑色の繁みの中、白や黄色や薄桃色の小さな花々に混じって、赤く色づいた野苺を見出すことができるのだ。初夏の鮮烈な陽射しをいっぱいに吸ったような熟れた実を、貂は草を分けて丹念に探して、人の両手一杯ほど摘んで大きな葉に包んだ。

 思った以上の成果を得て満足気な貂は、藤色の狩衣を纏った若者の姿に化け、摘んだばかりの野苺の包みを携えて、意気揚々と皐月の寝泊まりする貴船山の庵を訪ねた。ちょうど庵の正面に馬を引き出して飼い葉を与えていた皐月は、草陰から現れた若い男の姿を認めると、明らかに胡散臭そうに眉をひそめる。

「お主。いつぞやの貂か」

『憶えられているとは光栄だ』

 相変わらず察しが良い。皐月は憮然として貂を睨み、ふん、と鼻を鳴らした。小袖にしびらを着けた庶民の出で立ちは、狩衣や白装束よりは大分愛らしく、年齢相応に見える。貂は皐月の仮住まいである寂れた庵を眺めながら、朗らかに口を開いた。

『そなた、丑の刻参りをしておるのだろう』

 単刀直入な問いかけに、皐月ははっとしてその大きな目を剥き、咄嗟に貂に食ってかからんばかりに気色ばむ。

『心配するな。私は妖だから、見られたとてそなたの心願が叶わぬということはなかろう。して、そなたは誰を呪詛しておるのだ』

 にやりと目を細めて笑う貂を、皐月は鋭い眼差しで見つめ返していたが、少しの沈黙の後、視線を逸らし、馬のたてがみを優しく撫でながら言った。

「……帝だ」

『帝!』

 予想だにしていなかった返答に、貂は思わず大きな声をあげ、自身で吃驚する。貂はつりあがった細い目をみはって、言葉を継いだ。

『それはまた、ずいぶんと大それた呪詛であるな。どのような恨みなのだ』

 秘事について明け透けに尋ねる貂を一瞥して、皐月は水の入った木桶を馬の前に置いた。そして、かいがいしく馬の世話を続けながら素っ気なく断じる。

「お主にそれを知らせる必要はない」

『ふむ。それもそうだな』

 尋ねておきながら神妙な面持ちで腕組みをする貂を、皐月は呆れたように見遣った。

『ところで、そなた、故郷くにはどこなのだ』

「……東国だ」

『ほう、東国』

 殊の外、遠方からの行旅であったことに驚きつつ、貂は目を輝かせた。

『荒ぶる雄大な自然を相手に豪胆な開発領主が棲む化外けがいの地と聞いたぞ。私も一度行ってみたいと思うておるのだ』

「妖のくせに、よく物を知っているのだな」

 故郷を誉められたせいか、皐月の顔が心なしか和んだように見えた。これに味を占めた貂は、峠の旅人の噂話や麓の村で仕入れた世間話から、これまでに聞き齧った知識を披露する。

幾年いくとせか前には、坂東武者の英雄、平将門公が謀反を起こし、惜しくも討たれたと聞くが、京に運ばれた将門公の首は斬られてなお戦恋しく言葉を話し、果ては坂東に空を飛んで戻ったと言うではないか。なんとも豪快な話だ』

 皐月は、嬉々として饒舌に語る貂の様子をどこか醒めた瞳で見ていたが、やがて馬が水を飲み終えると、手綱を引いて身を翻した。

「もう良い、貂。お主と関わり合っている暇はないのだ」

『なんだ。丑の刻参りの外にも所用があるのか』

「……貴布禰きふね詣りのことは他言無用だ」 

『無論だ』

 碌に相手にされず残念そうに肩を落とす貂を尻目に、皐月は庵の裏手へと馬を引いていく。そこで貂は思い出したように、その背中に声をかけた。

『おい、皐月』

 初めて貂に名前を呼ばれた皐月が、驚いて振り返る。貂は素早く距離を詰めると、その手に野苺の入った草の葉の包みを握らせて皐月の顔を覗き込み、満面の笑みを浮かべ、言った。

『また参る』


 それから貂は、毎日のように皐月の庵に通った。山菜を摘んだり筍を掘ったり、時には京に下りて唐菓子からくだものを求めるなどして、土産を持参することも忘れない。相変わらず皐月は愛想がなかったが、貂を邪険にすることもなく、むしろ人と会うことのない暮らしの中で、貂と会話することが唯一の気晴らしのようでさえあった。貂が齢百を超えてようやく一人前の妖になったばかりであることを話すと、皐月もまた、両親とは死に別れ、筑波の山に年若い弟を置いて旅に出てきたことなどをぽつりぽつりと話すのだった。

 夜は夜で、貂は獣の姿で皐月に気付かれぬように、丑の刻参りの行き帰りを見守った。貂が庵に通い始めた頃を境に、満ちた月は夜毎に痩せ細り、夜道は日増しに暗くなる。貂は丑三つ時の道行きで皐月が夜盗や妖に遭いはしまいかと気が気ではなかった。

 その日、貂は大叔父に連れられて、昔馴染みという山寺の住職のもとを訪ねていた。雅覚がかくという名の和尚は穏やかな好々爺であったが、大叔父の正体も承知で懇意にしており、川魚を肴に酒を嗜むところを見ても、あまり徳の高い坊主ではなさそうだ。直衣のうしを身に着け貴人の姿をした大叔父は、同じくこざっぱりとした恰好なりの貂を、孫だと雅覚和尚に紹介した。

 大叔父と雅覚はほどよく酒を酌み交わしながら、いつ終わるとも知れない他愛もない世間話に興じている。話題は、みやこのこと、まつりごとのこと、峠を越える旅人の噂話、そして山の妖のことなど尽きることはなかったが、貂には些か退屈で、欠伸あくびを噛み殺すのに必死だった。

『伊賀の貂で妖になる者はもうおらんのか』

 ほろ酔いで上機嫌の大叔父が貂に尋ねる。

『血族にはなかなか。鈴鹿の山には栄えている一族もあると聞きますが』

『そうか。血が途絶えるのは寂しいものだ。御斎、なれには頑張ってもらわねばな』

 突然、話の輪に入れられて、居眠りしかけていた貂は面食らったが、酒の回った大叔父も雅覚もさして気に留める様子はなかった。血筋を繋ぐのが肝要であることは人も妖も同様だが、貂自身はあまり子孫を残すことに興味はない。

 さらに延々と話は続き、貂が解放されたのは、寺の本堂に斜陽の射し込む夕刻だった。土産に漬物や餅を包んでいるのを物欲しそうに眺めていた貂に、雅覚はちらりと目を遣った。そして、土産の一部を小さな包みに分けてそっと貂の方に押しやりつつ、唇の端に意味ありげな微笑を宿す。

「お若いの。夜な夜な出掛けていくと鞍馬の貂が案じておる。妖が女人に懸想すると、身を滅ぼしかねん。くれぐれも気をつけなされ」

 釘を刺されて貂はぎくりとする。いつの間にそんな話をしていたのか。別段悪いことをしているわけではないのだが、少し後ろめたい気持ちを抱きながら、貂は小さな包みを有難く懐に入れた。


 鞍馬の貂が討たれたのは、澄み渡る空に青紅葉の映える晴れた日の昼中だった。貂は、棲み処から小川を経て一段上がった山の台地の方に、矢継ぎ早に唸る弦音つるねを聞いた。川べりに駆けつけた頃には、背に二本の矢の刺さった大叔父が、岸の草むらに倒れて虫の息となっていた。

『大叔父殿』

 その日、大叔父は朝から単身、京に下り、所用を済ませてきた帰路で、人の姿から獣へと戻ったところを山の猟師に討たれたようだ。何かの悪さをされずとも、妖を退治することは人の正義であるらしい。

御斎おとぎ……。楽しい生であった……。汝も悔いのなきよう……』

 貂の顔を見て、そう言い残すと、大叔父は絶命した。呆気ない最期であった。獣はもとより妖というものは、人ほど情には厚くないが、それでも貂は寂寞せきばくを覚えた。貂は大叔父の亡骸を、猟師に捕られまいと必死に棲み処まで引きずっていった。涙こそは出なかったが、深い喪失感があった。こうして貂は、妖として天涯孤独の身になったのだ。

 暮れ方に、貂は皐月の庵を訪れた。大叔父の棲み処にあっためぼしい食糧を選り分け、大荷物を抱えて現れた貂を見て、皐月は驚いて目を見開く。

「貂。わらわはここに居つくわけではない。こんなにたくさんの糧食を……」

『大叔父が死んだのだ』

 淡白に告げた貂に珍しく笑顔がないことに気が付いて、皐月はそれ以上言葉を継がず、貂を庵に招き入れた。

「妾も満願成就すればここを発つ」

『そなたもここを去るのであれば、私が鞍馬にいる理由はもうなくなるな』

 皐月の丑の刻参りは長かった。貂が貴布禰で見かけた夜から数えても、すでに十七晩、欠かさず神社に詣でている。

「お主、夜毎、妾の丑の刻参りについてきているのであろう」

『なんだ、気付いておったのか』

 若侍の姿をした貂が眉尻を下げて呟くと、皐月は薄く含み笑いをする。足繁く通った甲斐あって、ごく稀にではあるが、貂は皐月の面のような冷徹な顔に、仄かに浮かぶ表情を見ることができるようになっていた。

「今宵は奥宮まで来るといい。面白きものが見られるやもしれぬ」

『面白きもの……?』

 皐月は詳細を語らなかった。庵に来訪する前に、貂は山寺を訪れて雅覚に大叔父の死を報せてきた。亡骸を寺に預け、ささやかな弔いは明日、雅覚とともにするつもりでいる。皐月の提案に、貂は無言で頷いた。

 その日は新月の夜だった。いつもと同じく、夜半に皐月は白装束で庵を出立した。待ち構えていた貂は、やはり足音を忍ばせてついていく。月明かりのない山の暗がりを進む皐月を、頭上に挿した蝋燭の灯を頼りに貴布禰神社まで、貂は見守った。

 皐月が御神木に藁人形を打ち付けているのを間近に見るのは二度目だった。最初に覗き見た日以降は、神社の外で釘打ちの音だけを聞いていたのだ。半月以上通った皐月は、藁人形を打ち付ける仕草も手慣れたものだ。背筋を伸ばした威厳のある姿勢で、真剣な表情の皐月は槌を振るう。釘を打つ単調な音がようやく途切れた夜更け。御神木がその太い幹に一段と濃い霧を纏い、青白く光を放つのが、貂にもはっきりと見えた。

『なんと……』

 遠巻きにいてなお肌に圧を感じるほどの神気に満ちた光景に、貂は思わず言葉を洩らす。暗闇の奥宮の杜の中、いかずちを帯びたように鋭く光る御神木を前にして、皐月は勇ましく仁王立ちをしている。物怖じすることなく、瞳は毅然として頭上の枝ぶりを睨みつけていた。

――平将門の娘、皐月よ。二十一日の丑の刻参り、ご苦労であった。そなたの心願、聞き届けよう。

 黒々とした杜の空に轟いた厳めしい声に、貂は耳を疑った。皐月は、件の平将門の娘であったのか。事態に刮目する貂の前で、俄かに乳白色の濃い霧が、生き物のように皐月を包み隠した。

『皐月……』

 貂は固唾を飲んだ。白装束の皐月の姿が霧の中に見え隠れするその頭上に、雷鳴のような声が響き、空気をふるわせる。

――そなたに妖術を授ける。以後、滝夜叉姫と名乗るがよい。

『夜叉、だと……』

 皐月は鬼になるというのか。貂の心がざわめいた。

「貴布禰の荒御魂あらみたまよ。感謝申し上げる」

 力強い声とともに刀印を結んだ皐月の身体の内から突風が吹き、その身を隠していた霧がほぐれた羽衣のように飛散した。中から姿を現した皐月は、唐紅からくれない表着うわぎに朱の長袴の出で立ちに長い漆黒の垂髪の美しい姫君となっていた。鬼の姿ではなかったことに貂は安堵したが、その周囲には青白い陰火を従えている。

 皐月が御神木の前を退くと、神社の杜は鎮まった。立派な装束を身に着けた皐月が、静かに貂のいる方へと歩いてくる。その顔にはこれまで見たこともないような、不敵な笑みが浮かんでいた。

「妾は妖術使い、滝夜叉だ」

 この世のものとは思えない妖艶な美しさを纏ったその姿に、貂は息を呑んだ。月のない溺れるほどの深い暗闇に、陰火に照らされた滝夜叉姫の姿が浮かび上がり、静寂しじまの中にただ梟の鳴き声だけが聞こえていた。

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