鞍馬
貂が大叔父の棲み処に到着したのは、弓張り月が西に傾く夜半近くだった。御斎の貂の大叔父である鞍馬の貂は、人の分け入ることのない山の繁みの奥深く、朽ちた倒木の下に口を開けた洞穴に棲んでいる。夜行する鳥や獣のほか、闇を貪る妖たちの蠢く気配に満ちた夜の中を駆け抜けつつ、貂は先程送って行ったうら若き娘のことを思い出していた。
皐月の言う寺というのは、荒れた竹藪の中に打ち捨てられた人の気配のない破れ寺だった。地方豪族の娘と思しき皐月は、その廃れようを目の当たりにしてもまったく動じることなく馬を降り、雨風に晒され穿たれた岩に馬を繋ぐ。
『そなた、本当にここで夜を明かすのか』
驚く貂の心配をよそに、皐月は迷いなく寺の本堂に入っていく。そして、壁板すら腐り朽ちかけ、そこかしこに蜘蛛の巣の張った寺の中を訝しげに窺っていた山伏姿の貂を振り向くと、いきなりその鼻先に抜き放った懐剣を突き付けた。
「お主、物の怪の類であろう。ここまでご苦労であった。済まぬが、この身も魂も、お主にくれてやるわけにはゆかぬのだ」
貂は最初、ぽかんとして皐月の顔を見ていた。それから皐月の察しの良さに思わず苦笑する。傍らを歩く山伏が妖であると、いつから気付いていたのだろうか。強張った表情で睨み据える皐月の目の前で、貂は観念してひとつ蜻蛉返りをし、獣の姿に戻った。
『そなたに悪さをするつもりはない。私は、伊賀国御斎峠の貂だ』
豊かな金色の毛並みを月影に晒した貂は、皐月の迫力に圧されつつ、言い訳がましく名乗った。物の怪の正体が思いのほか小さな貂であったことに、皐月は驚いたようだった。無言のまま突き付けた懐剣を下ろし、左手で覆面を外して、貂のしなやかに艶めく体を見下ろす。露わになった皐月の素顔は、顎の細い顔に気の強い猫のような目が光を放ち、やや上向きの小さな鼻があどけなさを残す、十七、八の美しい娘だった。
大叔父の棲み処へと引き返す道すがら、貂は皐月の姿を思い浮かべた。
『まるで氷華のようであった』
人を寄せつけない儚くも気高い面差しは、凍てつく花を思わせる。まだ幼さの抜けない娘がこんな山奥を、どこからどのような所用があって一人で旅をしているのか。男装していた狩衣も指貫も上等のものであったし、馬を乗りこなす所作も優雅だった。ともすれば、いずこかの姫君ということもあり得る。
『今ひとたび、見えたいものだな』
貂は浮き立つような心持ちで沢に続く藪を降り、大叔父の棲み処に辿り着いた。
鞍馬の大叔父は、貂を大層快く迎え入れた。大叔父は齢二百を超える古貂で、曾祖父も大叔父も、そう呼ばれてはいるものの、もっと世代の離れた祖先であると思われる。貂は血筋では久々の化け貂であったため、大叔父は曾祖父同様、貂を孫のように可愛がるのだった。酒豪である大叔父は、はるばる伊賀からやって来た貂を手厚くもてなし、その日、両者は朝まで呑み明かした。
『化け貂たるもの、酒も呑めんようでは、人とは渡り合えんぞ』
というのが、大叔父の持論だ。貂はそれほど酒が好きではなかったが、大叔父につられて、つい深酒をしてしまった。僅かに陽の光の射し込む山奥の穴倉で、貂が目を覚ましたのは昼時だった。倒木の枝の隙間をかいくぐって外に出て小川に水を飲みに行き、曇天の中、時折雲の切れ間から鋭く照らす木洩れ日に目を細める。未明にはだいぶ雨が降ったようで、小川の瀬は速く、灌木の大きな葉はみな表面に水を溜めている。湿った土の匂いに安心感を覚え、貂は大きく欠伸をひとつして、穴倉に戻った。
貂が訪れた日から、大叔父は毎日のように精力的に貂を連れ回した。国中に名を馳せる大天狗の僧正坊を鞍馬寺の渓谷に訪れて挨拶をしたり、京の都の祭で煌びやかな貴人の行列を見物したり、何もない日には川で魚を獲り山のとりどりの果実を集めては酒盛りをして、いくら新奇なことを好む貂といえど、些か疲れを覚えるほどだった。
その日、貂は大叔父に誘われて貴布禰神社に赴いていた。深山幽谷にもかかわらず、貴賎を問わず参詣者の絶えない霊験あらたかな水の神の総本宮で、朝廷にも厚く信仰される高名な神社である。大叔父の棲み処からそう離れていなかったが、貴船川を越えた途端に広がる、並び立つ杉の巨木を生き物のような霧が隠し顕わしする幽玄な光景は、山の他の土地ののどかな雰囲気とは一線を画し、張り詰めるようだ。険しい山道もさることながら、神気漂う閑雅な空気に、貂は息が詰まる思いだった。
『汝もさらに百年も永らえて神格を得るに至れば、これしきのことには動じなくなろう』
貂の苦虫を噛み潰したような顔を見て、大叔父は笑う。しかし、神格を得るということがどういうことなのか、その時分の貂にはよく分からなかった。
貴布禰神社の本宮には高龗神という龍のかたちをした水神が祀られているという。それに違わず、本宮の周りに立ち込める柔らかな月白の霧に、草木も土もしっとりと艶めき、枝々から萌える若芽も瑞々しく膨らんで、空気そのものが潤んでいる。貴布禰神社の社殿は、小さくひっそりとした佇まいながらも、肌に沁みて痺れるほどの霊気を放っていた。
『それは汝が一人前の妖となった証だ。神気は当初、妖を受け容れぬものだ』
そう宣う大叔父は、貴布禰の神気に当てられても平然としている。二百年を超える妖は、神に近づくということだろうか。
本宮、奥宮、結社と、遠巻きにではあるが、人さながらの三社詣をした後に、大叔父と貂は貴船山に棲む化け貂一族の棲み処に立ち寄った。恰幅の良い、大叔父と同じ年の頃のスステンは、手土産の京の酒を見ると目を輝かせて歓び、一族を集めて大宴会が始まった。スステンの一族は曾孫の代まで純血の妖で、血筋に強い妖力を宿している。宴の中では親族の老若男女ががめくるめく化け合戦を繰り広げ、大いに場を盛り上げた。酔いの回ったスステンに一族の娘との縁談を持ちかけられた貂であったが、こちらも海千山千の妖である。持ち前の話術と愛想笑いと上等の酒で煙に巻いて話題を躱した。やはり貂は、生来自由が好きなのだ。
へべれけに酔っ払い、千鳥足で帰路に着いたのは、魑魅魍魎が跳梁跋扈する真夜中であった。涼やかな貴船川のほとりで貂が水を飲んでいる時だった。少し離れた上流に架かる橋を足早に渡る白い人影が視界の端に入った。貂が酔いに霞む目を凝らして見ると、それは白装束を纏った女のようだ。
『ありゃあ、丑の刻参りだな』
上機嫌な大叔父が、朗らかな声にそぐわぬことを言う。女は頭の上に蝋燭を三本灯し、神社の奥宮へと道を急いでいる。その後ろ姿を見て、貂は急に何かに思い至ったように真顔になった。
『あっ、おい、御斎、どこへ行く』
考えるより先に身体が動いた。大叔父の声も耳に届かない様子で、貂は一気に駆け出した。川沿いの木立を器用に縫うように走って、女の背に追いつく。酔いもたちどころに醒める心持ちだった。ぼうっと白く浮かび上がる女の姿を捉えた貂は、低木の繁みにつかず離れずの距離を保って、後を尾けていった。
女はやはり皐月であった。一度見ただけではあるが、猫のように瞬く大きな瞳と幼いながらも毅然とした面立ちを見間違うはずがない。
『丑の刻参りが旅の目的であったか……』
口数少なく冷淡な振る舞いも、男装してまで供を連れずに山に分け入ることも、呪詛のための貴布禰詣りだと考えれば合点がいく。しかし、そんな危険を冒してまで、何のために誰を呪おうというのだろう。貂は訝りながら、皐月に気付かれぬよう足音を忍ばせて、貴布禰神社の奥宮まで辿り着いた。
月明かりに照らされた皐月の悲愴なまでの決意に満ちた顔は、人を呪うとは思えないほど麗しい。梟の鳴く声だけが闇に冴える奥宮の夜の杜に分け入る皐月の、頭上に揺らめく蝋燭の光が葉の陰にちらちらと見え隠れする。
「貴布禰の荒御魂よ。我が願い叶え給え」
奥宮の境内に屹立する杉の御神木に祈りを捧げた後、皐月は藁人形に五寸釘を突き立て、槌を振り上げて打ち付け始めた。丑三つ時の静寂の中、釘を打つ単調な音だけが響き渡る。貂は息を潜めてそれを見守っていた。
釘を打ち終えてもと来た道を戻る皐月を、貂は再び追いかけた。皐月は神社から少し下った貴船山の山中の庵に寝泊まりしているようだった。先日の鞍馬山の破れ寺に比べ、だいぶ小ぢんまりして粗末ではあるものの、人の暮らしていた気配が残っており、荒廃ぶりは幾分ましなようだ。皐月は白装束のままそそくさと庵に入ると、立て付けの悪い木の戸口を閉めた。
皐月の姿が見えなくなってからも、貂はしばらく庵のそばに佇んで思案していた。丑の刻参りと言えば、嫉妬に狂った女が憎い相手を呪うために行うような術だ。しかし初めに会った時から、皐月に妬みに取り乱した女のような激情は感じられなかった。燃え盛る怒りよりもむしろ、静かな恨みを押し殺しているのだとすれば、丑の刻参りで晴らすべきその怨念はより根深いもののように思える。芯の強そうな皐月の横顔を思い返し、その悲願に思いを馳せる貂の遥か頭上には、十三夜月が煌々と輝いていた。




