第1話〜魔王の目覚め〜
「ここはどこ?私は誰?」
こんな台詞を話したのは、人生の中でも初めてだ。それにしても本当にどこなのだろうか。古びた天井を見上げながら、少女はぼんやりとそう思った。見慣れた木の梁のはずなのに、今日だけはひどく他人の家のように見える。それにしても狭い部屋だ。清潔感はあるが、余が住むには些か手狭すぎる。カーテンの隙間から、細い金色の筋が一本、床に伸びていた。夜明け前の、あの青白い闇がまだ部屋の隅に残っているのに、東の空だけが燃えるように赤く滲んでいる。曙光だ。夜と朝の境目、世界がまだどちらでもない時間だった。
——余?
「いっ……た………」
急にズシンと頭が痛くなる。こめかみを押さえると、何かが波のように押し寄せてくる感覚があった。記憶、のようなものだ。でも掴もうとすると霧のように散ってしまう。そうだ、名前。私の大切な名前。お母様から貰った大切な——。
「余は……セレス、セレス……ライラックのはず………」
声に出してみると、少し違う気がした。
「いや……セレスティナ・フォン・ライラック、だったのだ……?」
どちらも正しい気がする。どちらも自分の名前な気がする。でも二つは明らかに別の名前で、どちらか一方だけが正解のはずなのに、どちらを選んでも何かが足りない感じがした。思い出せない。名前も、過去も。自分が何者なのかも。ただ頭の中に、大量の何かが詰まっている。情報、とも記憶とも呼べない、形にならない塊が。それがどこから来たのかも、何のためにそこにあるのかも、わからない。
「ティナ、早く起きなさい。ご飯無くなっちゃうわよ」
扉の向こうから、母の声がした。
「——はあい」
ああそうだ、ティナ。それが私の名前のはずだ。お母様がそう呼ぶのだから間違いない。でも何故だろう、セレスティナが本名だという確信もある。ティナはその一部で、でも全部ではない。そんな奇妙な迷いを抱えたまま、少女はベッドから降りた。
*
「今日はティナの好きな目玉焼きよ。香辛料が安く手に入ったからいつもより美味しいはずよ」
「いただきます」
食卓に座ると、焼きたてのパンと目玉焼きが並んでいた。胡椒の香りが食欲をそそる。私はフォークを使ってパンに目玉焼きを挟んだ。
「ティナ、いつもそんな食べ方してたかしら?」
「お母様、こうやって食べると美味しいのだ。おすすめなのだ」
「そ、そう?じゃあ私もやってみようかしらね」
お母様は少し首を傾けながらも、同じように目玉焼きをパンに挟んだ。一口食べて、目を丸くしている。
「……本当、美味しいわね」
「だろうなのだ」
しばらく二人で黙って食べた。窓の外では村が少しずつ目を覚ましている。遠くで鶏が鳴いて、誰かが水を汲む音がして、いつもの朝が始まっていく。
「そういえばティナ、話し方変えたかしら?なんかお腹に力入ってるというか……」
「……そうだったのだ?」
「ほら、またそれ。もしかして、また娯楽本の中に出て来るキャラクターの真似をしているのね?読み終わったら私にも読ませてね?」
「……わかったのだ」
お母様はそれ以上追及せず、自分の朝食に戻った。私は残りのパンを口に運びながら、窓の外を見ていた。
本当は紅茶が飲みたかった。なぜそう思うのかはわからない。この家にそんなものはないし、この村でそれを飲んだ記憶もない。でも確かに、紅茶の香りと味を知っている気がした。濃く淹れた、少し苦いやつが余の好みだった。遠き紅茶の香りを思っていると、胸に淡い懐かしさが滲むのだった。
*
食事を終えて部屋に戻ると、曙光はもう少し高くなっていた。カーテンの隙間から差し込む光が、床の上で細長い長方形を作っている。私はその光の中に座り込んで、膝を抱えた。
「そういえば私って、いつも自分のことどう呼んでたんだっけ」
余なのか、私なのか。どちらも違和感がない。どちらも確かに自分が使っていた言葉だ。でも同時に使っていたわけがない。どちらかが本当で、どちらかが混ざり込んできたものだ。しっくり来るのは、私、だ。余ではないはずなのに、余もまた確かに自分の言葉だ。頭の中の霧は、相変わらず晴れない。
窓の外に広がるのは、見慣れた村の風景だ。麦畑と石垣と、煙突からゆっくり上がる朝の煙。どこにでもある、普通の村。でも頭の中にある何かと照らし合わせると、何かが足りない気がする。もっと広くて、もっと複雑で、もっと——何か、別の何かがあるべき場所に、今は何もない。それがどういう意味なのかも、うまく言葉にできなかった。
「……この世界が、どんなところなのかすら、私は何も知らないのだな」
呟いてみると、急に心細くなった。知っていることと知らないことが、頭の中でぐちゃぐちゃに混ざっている。魔法の感覚はある気がする。戦い方も、何となく体が覚えている気がする。でもこの村の外に何があるのか、この国の名前は何なのか、人々がどんな暮らしをしているのか、何も知らない。
ここが元いた場所と同じ世界なら、知っていることが使えるかもしれない。でも全く違う世界なら、一から学び直さなければならない。どちらにせよ、まず知ることが先だ。そこまで考えて、ふと気づいた。
「……守護者」
声に出した瞬間、胸の中で何かが動いた。守護者。私の、大切な——誰かたちだ。顔は見えない。名前も出てこない。でも確かに、確かにいた。一緒にいた誰かが。何かのために、共に動いていた誰かが。
「会いたい、のだ……」
気づいたら、そう呟いていた。でもどこにいるのかわからない。この世界にいるのかどうかもわからない。そもそもここが元の世界と同じところなのかすら、まだわからない。何もわからない。
カーテンの隙間から差し込む曙光が、少しずつ強くなっていく。夜の名残が部屋の隅から消えていく。世界が夜でも朝でもない時間が、終わろうとしていた。私は膝を抱えたまま、その光をしばらく見ていた。何もわからなくて、何も思い出せなくて、自分が何者なのかすら曖昧なまま、それでも——
「……どうせ悩むのならやってみないことには始まらないのだ…」
声に出してみる。喉から出てきたのは、思っていたより高くて、思っていたより幼い声だった。少し、間があった。この口調も、どこから来たのかわからない。でもしっくりくる。この名前も、どちらが正しいのかわからない。でも一番しっくりくる。この体も、この部屋も、この村も——全部が少し他人事みたいなのに、全部が確かに自分のものだ。ならば、それで良い。わからないことは、これから知れば良い。思い出せないことは、これから取り戻せば良い。守護者がどこにいるのかは、これから探せば良い。この世界が何なのかは、これから学べば良い。膝を抱えた手に、少し力を込めた。曙光がカーテンを押し広げるように、部屋の中に金色の光が満ちていく。少女はゆっくりと立ち上がるのだった。
「私は魔王。セレスティナ・フォン・ライラックなのだから」




