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AIが全部の正解を先に出す2049年、わかり合った相手の超能力が写る。記憶も痛みも一緒にー人間未解ー  作者: 猫間じん


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眠らない人

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 午後八時五十分。夜勤の申し送りは、いつも通り九時に始まる。


 早乙女凪はナースステーションの端で、立ったまま夕食のゼリー飲料を済ませ、頭の中で今夜の段取りを組み替えた。受け持ちは十二人。転倒リスクの高い403号、深夜に点滴交換が二件、明け方に採血が四件。日勤からの申し送りを聞きながら、業務端末に要点が同期されていく。端末は優秀だ。でも並べ替えは、結局人間の仕事だった。誰を先に見るか。誰の「大丈夫」を疑うか。


「早乙女さん、夜勤三日目でしょう。大丈夫ですか」


「大丈夫、慣れてるから」


 目線が、壁の時計へ一瞬だけ逃げた。自分でも気づかない癖だった。


 三日連続、だ。若い子の急な欠勤を二回引き受けた。断る理由が、凪にはない。夜は、凪にとってもう「眠る時間」ではないのだから。他の人が眠って過ごす八時間を、凪は起きて過ごす。だったらその時間は、誰かの役に立てた方がいい——理屈はいつも同じ場所に着地して、いつも少しだけ、着地の音が重くなっていた。


 眠らなくなって、どれくらいになるだろう。


 最初は夜勤続きのせいだと思った。次に、何かの病気だと思った。こっそり受けた検査はどこも異常なしで、医者は「良質な短時間睡眠が取れているのでは」と笑った。取れていない。一分も。なのに、頭は冴えている。判断は鈍らない。記憶は落ちない。肌さえ荒れない。


 時間が、倍あるのだ。


 罰だと思う? ご褒美だと思う?——誰にも聞けない質問を、凪は今夜も持ち歩いている。


 耳元で、私用のエージェントが小さく言った。『夜勤が三日連続しています。過去七十二時間の休息時間が基準を下回っています。休息を推奨します』


「はいはい」


 推奨、を凪は指先ひとつで消した。誕生日の通知を消すのと同じ、考える前に指が動く消し方だった。エージェントは健康管理に忠実で、そして凪の体の中で起きていることを、何ひとつ知らない。眠っていないのに疲労指標が上がらない飼い主を、このAIはたぶん、世界一健康な人間だと思っている。


---


 二十三時の検温ラウンドで、403号の灯りがついていた。


「眠れませんか」


「ああ……凪さんか。歳を取るとね、夜が長くて」


「長いですよね、夜は」


 403号の老人は、月に一度の見舞いを待つ人だった。凪は本気で同意して、細い腕から採血の予定を一件、明け方から今に繰り上げた。どうせ起きているのなら、眠りかけの明け方に針を刺されるより、今の方がいい。


「……あんた、上手いねえ。今の、痛くなかった」


「それだけが取り柄なので」


 老人は孫の話を少しして、眠っていった。息子夫婦は遠方。そういうことを、凪はカルテの外で覚えている。覚えていることだけが、夜の病棟で凪が配れる数少ないものだった。


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 深夜一時過ぎ、救急から病棟に連絡が入った。


「原因不明の高熱と異常代謝の方、受け入れます。二十代男性。——また、なんですね」


 電話口で医師が言った「また」を、凪は聞き逃さなかった。


 運ばれてきた青年は、燃えるように熱かった。四十度近い発熱。なのに検査値は感染を示さない。ただ代謝だけが、まるで全力疾走を続けているみたいに亢進している。点滴のルートを取りながら、凪は青年の腕の細さと、食い縛った歯と、うわ言を観察した。


「……もどして……ちがう、そうじゃなくて……」


 この型の患者を見るのは、この半年で三人目だった。


 原因不明の高熱。異常な飢餓感。検査に映らない消耗。そして皆、うわ言の中で、何かをやり直そうとしている。言葉の内容はそれぞれ違い、明確な相手は見えない。一人目は三日で消えるように退院した(迎えに来た親族は、親族の顔をしていなかった)。二人目は深夜に姿を消して、インシデント報告だけが残った。カルテ上、三人はそれぞれ別の病名がついている。繋がりを示すデータはどこにもない。


 でも、夜の病棟を四年歩いてきた足は、データにならないパターンを踏んでいる。


 診断名をつけるのは、自分の仕事ではない。けれど、観察を残すのは仕事だ。凪は三例の共通項を、仮説ではなく事実の列として申し送りに追記した。高熱、代謝亢進、感染陰性、強い飢餓感。受け持ちの医師も「またか」と眉を寄せた。ただ、それだけだった。病名の違う三人は、システムの上では並ばない。並ばないものは、検索されない。凪の申し送りは、明日には他の百件の記録に埋もれる。


 それでも一つだけ、記録に載せなかった観察が心に残った。


 補液と冷却で体温が下がり始めた明け方、青年は初めて静かになって、眠りに落ちる寸前、はっきりと言ったのだ。


「……腹、減った……」


 その言い方が、病人の食欲ではなかった。もっと切実な、燃料切れの機械みたいな声だった。


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 待合室の隅に、赤ん坊がいた。


 午前三時の、消灯された待合室。長椅子の上に、生まれたばかりの頃の陽太が、タオルにくるまれて眠っている。取り違えようがない。あの頃タオルに付けていた、耳の取れかけたクマのマスコットまで、記憶の通りだった。


 凪は足を止めなかった。止まらずに、心の中で数だけ数えた。


 ——四回目。


 六年前の陽太が、午前三時の待合室にいるはずがない。今の陽太は院内の提携保育室で、ちゃんと六歳で眠っている。最近、ああいうものが「見える」。疲れ目でも寝不足でもない。寝不足には、なりようがないのだから。見てはいけないものではなく、たぶんあれは——見なかったもの、だ。眠らない凪が見るはずだった夢が、行き場をなくして、待合室の隅で眠っている。夢の中でなら何度でも抱き直せたはずの重さが、行き場をなくして、あそこにいる。


 視線を外して三歩歩けば、消える。もう慣れた。慣れてはいけない気がしながら、慣れた。抱き上げに行かない、ということにだけは、毎回すこし力が要った。


 ナースステーションに戻ると、モニターの前で後輩が舟を漕いでいた。凪はブランケットを掛けてやり、自分はモニターの全床を確認して、記録を打った。眠る人の横で、眠らない人が見張りをする。合理的だ。とても合理的で、その合理性の中に、凪の椅子だけがなかった。


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 朝六時四十五分、院内の提携夜間保育室の扉を開けると、寝癖が待っていた。


「ねえ、みてみて。きょうのぼく、はやおきチャンピオンだよ」


「はい、五時……じゃないか、もう七時前か。おはよう……じゃなくて、ただいま、かな。どっちでもいいか。帰って朝ごはん作ろう」


 凪が夜勤の夜、陽太はここで眠る。そして凪が迎えに来る朝は、必ず、起こされる前に起きて待っている。保育士に頭を下げて、まだ静かな廊下を、手を繋いで歩いた。夜勤明けの母と、夜間保育明けの息子。二人とも、普通より少しずれた時間を生きている。


 家に着いて、卵を焼き、味噌汁を温め、トマトを半分に切る(丸のままだと食べないと主張する)。陽太は保育園の図鑑を食卓に広げて、ゾウの頁を何周目かの熱心さで読んでいる。


「どようび、どうぶつえん、いける?」


「……土曜日は、お仕事になっちゃった。ごめん。次の次の週なら」


「いいよ」


 陽太は頁から顔も上げずに言った。頬も膨らませなかった。六歳の「いいよ」は軽くて、速くて、慣れていて、その慣れ方が、凪の胸の一番深いところに沈んだ。この子はもう、待つのが上手になってしまった。私が何でもできると思っているから、いつまでも待てるのだ。


 陽太を保育園に送る。門のところで陽太は一度振り返り、「おひるね、ずるいよなあ」と言い残して駆けていった。お昼寝が嫌いな子だ。お母さんは寝なくていいのに、ずるい——理屈はいつもそれで、凪はいつも、笑って受け流す。受け流しながら、心のどこかで小さな氷が鳴る。この子は何も知らない。知らないまま、たぶん一番近いところを撫でてくる。


 ここから、凪の「二日目」が始まる。洗濯、買い出し、役所の書類、夕方の迎え、夕食、寝かしつけ。今夜は三日ぶりに夜勤のない夜だった。その予定表のどこにも、自分の休息だけが入っていない。入れ方を、凪はたぶん、もう忘れている。眠らない体は、二日分の生活を一日に詰められる。詰められてしまう。詰められることと、詰めていいことの区別を、凪はもうずっと、考えないことにしていた。


 時間さえあれば、全部なんとかなる。


 なんとか、なっているはずだった。


---


 夕方、保育園の迎えの帰りに、駐車場で気づいた。


 車のワイパーに、白い封筒が挟まっている。


 チラシではなかった。上質な、無地の封筒。宛名も、差出人もない。表に一行だけ、印刷の文字があった。


 【治療のご案内】


 凪は反射的に周囲を見た。夕暮れの駐車場には、車と、手を繋いだ陽太と、遠くの街灯だけ。防犯カメラの位置を、なぜか目が探していた。


「お母さん、それなに?」


「……ダイレクトメール。お薬の宣伝」


 嘘はすぐに出た。出てから、自分が今、治療という二文字を——眠れないことを一度も「病気」と口にしたことのない自分が、その二文字を——どんな顔で見ていたのかに気づいた。


 誰が。いつ。どうやってこの車を——考えは三歩ぶん走って、止まった。事実だけを数える。看護師の癖だった。確かなことは二つ。この封筒は宣伝の顔をしていない。そして、私の何を「治療」と呼んでいるのかを、差出人は知っている。


 封筒は、開けずに鞄へ入れた。捨てなかった。捨てられなかったことが、答えの半分みたいで、凪は陽太の手を少しだけ強く握り直した。


「かえろ。きょうのごはん、なにがいい?」


「ハンバーグ!」


「はい、ハンバーグ。……大丈夫。時間はあるから」


 誰に言ったのか、自分でもわからなかった。


---


【観察記録 ——続き】


時間の話の続きです。


ある看護師の講演録を、昔読んだことがあります。「患者に一番足りていないのは、多くの場合、時間ではなく、自分に時間を使っていいという許可です」——当時のわたしはこれを、気の利いた言い回しとして読み流しました。


今日、資料を整理していて、同じ頁でまた手が止まりました。足りないのは時間なのか、許可なのか。


問いはそこまでにして、頁の角を折りました。折った角は、あとから必ず目に留まります。


(ep009 了)


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