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AIが全部の正解を先に出す2049年、わかり合った相手の超能力が写る。記憶も痛みも一緒にー人間未解ー  作者: 猫間じん


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正解の子

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【観察記録 ——相良慧】


最適、という言葉について考えています。正確には、その目的語について。


最適とは常に「何かにとっての」最適です。燃費にとって。収益にとって。生存にとって。目的語を省いたまま「最適です」とだけ言われたとき、人はたいてい、自分にとっての最適だと思い込んで頷いてしまう。


省かれた目的語は、どこへ行くのでしょう。誰かがこっそり、代入しているのではないか。


——今日の問いは、ここまで。次の街に着きます。


---


 三時間目の移動教室を告げたのは、チャイムではなく隣の席の声だった。


「相沢くん、次、移動教室ですよ。……って、言った方がいいみたい」


「え? ——あ、やば。ありがと」


 御堂栞は、もう教材端末を胸に抱えて立っていた。湊が慌てて机の中身をかき集める間、彼女は待つでも急かすでもなく、廊下の人の流れが一番薄くなる瞬間を見計らったみたいなタイミングで歩き出す。ついていくと、不思議と混雑に揉まれなかった。


 正解の人、と誰かがあだ名をつけていた。悪意のある呼び方ではない。進路調査を配られて教室の半分がうめき声を上げた日も、栞は迷いのない手つきで書き終えていた。委員会の仕事の割り振りは公平で、誰にでも礼儀正しくて、誰かと特別に親しいところは見たことがない。授業端末に書き込まれる彼女の文字は、筆跡補正を切っているはずなのに、定規で引いたように均一だった。


 感じのいい優等生。それで話は終わるはずだった——湊でなければ。


 湊には、昔から他人の「水位」が流れ込んでくる。教室は本当は静かじゃない。試験前の焦り、片想いの落ち着かなさ、家の事情の重さ。そういうものが薄い膜の向こうから常に滲んでくるのが、湊の日常だ。


 栞からは、何も来ない。


 いや——違う。雪の静けさとは違った。雪のあれは、湖の底まで澄んでいる静けさだ。栞のは、水面に蓋がしてある。蓋の下で何かがずっと満ちていて、押し込められていて、その圧力ごと封じてある。近くの席になって二週間、湊はその違和感の呼び名を、まだ見つけられずにいた。


 それと、もうひとつ。


 栞は、返事の前に必ず一拍おく。


 思慮深いと言えばそれまでだ。実際、教師たちはそう評価している。でも湊の耳には、あの一拍は「考えている間」に聞こえなかった。なんというか——聞いている間、に近い。誰かの言葉を待って、それから話し始める人の間だった。


「御堂さんはさ」廊下で、湊はなんとなく聞いた。「進路、迷わなかった? この前の調査」


 一拍。


「わたしは、成績と適性で絞ると三つに決まるので。迷う工程が、なかったです」


「工程」


「……変、でしたか」


「いや」湊は首を振った。「合理的だなって」


 栞は微笑んだ。感じのいい、正解の微笑だった。その水面の下で、何かの水位がわずかに動いた気がしたけれど、蓋は開かなかった。


 昼休みの購買でも、一度だけ一緒になった。栞は棚を一瞥して、迷いなく一番安いコッペパンを取った。意外だった、という顔が出てしまったらしい。栞は湊の視線に気づいて、几帳面に付け足した。


「費用対効果が、一番いいので」


「ああ……なるほど?」


 そのときだけ、返事の前の一拍が、なかった。準備してあった答えみたいに滑らかで、湊はなぜか、その滑らかさの方が引っかかった。


---


 放課後の縁石は、定例会になりつつあった。


 駅前のコンビニ裏。透が牛乳、湊がコーヒー、そして最近は、雪がゼリーを持って座っている。誘った覚えは誰にもない。雪は毎夕、なんとなく現れて、なんとなく座り、なんとなく帰っていく。透の端末には「縁石、三人」という予定が、当たり前みたいに繰り返し登録されていた。


「学校の話しろよ」と透が言うので、湊は栞の話をした。正解の人。一拍の間。工程。


「ふうん。……追われてる系ではなさそうだな」透は職業病みたいな分類をした。「けど、ミナトの『流れてこない』は当たるからな。雪んときも当てたし」


「当てたっていうか」


「わたしのは体質」雪がゼリーを吸いながら言った。「今の話なら、その子のは、我慢」


 湊と透は同時に雪を見た。雪は自分の言葉に興味がなさそうに、ゼリーの残りを几帳面に折り畳んだ。


「我慢してる人、病院にいっぱいいた。それだけ」


 病院、という言葉がいつの話なのか、誰も聞かなかった。それだけ、と言って、雪はもう説明しなかった。


 解散の間際、透が端末に何か打ち込みながら「明日、雨らしいぞ」と言った。雪が「知ってる」と答え、湊が「傘ないわ」とぼやく。それだけの会話が予定として記録されていくのを、湊は横目で見ていた。透の記録は、この二週間で行が増え続けている。買い出し当番。雪のゼリーの好みの銘柄。誰も口に出さないが、それは三人分の「明日もある」の控えだった。詮索しない者は、詮索されない権利を持っている——三人の縁石には、いつの間にかそういう憲法ができていた。


---


 夕食の後だった。


 遥が洗い物をしながら、明日の天気を家事端末と言い合っている。その背中に向かって、湊はできるだけ何でもない声で言った。


「なあ、母さん。俺って小さいころ、入院したことあったよな。手首のこれの」


 一拍、空いた。


「——あったよ。あんた覚えてないの? 泣き虫だったから大変だったんだから」


 遥は振り返らないまま答えて、そのまま流れるように換気扇のフィルターを外し始めた。話はそこで、家事の音に混ざって終わった。


 いつもなら、終わらせていた。


 でも湊は最近、数えるものが増えている。透の記録。雪の水位。栞の一拍。——そして今、母さんの一拍。返事の前に空く、あの小さな隙間。それが栞の「聞いている間」と同じ形をしていることに、湊は気づいてしまった。いや、違う。母さんのは聞いている間じゃない。選んでいる間だ。どう答えるかを、選んでいる。


「何歳のとき?」


「んー? 五つか六つ。……ほら、お風呂沸いたよ。先入っちゃいな」


 フィルターの次は風呂だった。質問と家事の間に、いつも一枚ずつ壁が挟まる。


 湊は風呂に入るふりをして、自分の部屋の収納を開けた。


 アルバムは、今どき珍しい紙のやつだ。母さんは何でも印刷する人だった。データは消えるから、と言って。運動会、七五三、誕生日。頁をめくる。三歳。四歳。五歳——


 手が、止まった。


 五歳の途中から、六歳の後半まで。頁が、飛んでいた。


 破られた跡はない。台紙が抜かれているのでもない。ただ、写真が「そもそも貼られていない」。五歳の夏の次が、六歳の終わりの正月で、間の季節がまるごとなかった。印刷魔の母さんの、一年分の空隙。


 湊は次に、居間の棚のファイルボックスを思い浮かべた。母さんは書類も全部紙で残す。医療費の明細、予防接種の記録、学校の健診結果——湊の医療関係は一冊にまとまっているはずだ。


 深夜、麦茶を取りに行くついでに、居間でそのファイルを開いた。


 あった。生まれてからの記録が几帳面に時系列で綴じてある。三歳の中耳炎。四歳の骨折疑い(なんでもなかったらしい)。七歳の風邪。八歳の——


 五歳から六歳が、ない。


 入院というのは、書類が一番増える出来事のはずだった。その時期の分だけが、一枚も、ない。アルバムと同じ形の穴が、書類の側にも開いていた。


 湊は、ファイルを静かに閉じた。


 心臓が速かった。頭の中で、いくつもの続きが手を挙げていた。今すぐ母さんを起こして聞く。手首の痕を病院で調べてもらう。透に相談する。——どれも選ばずに、湊は台所で麦茶を一杯だけ飲んだ。


 母さんは、隠している。それは確かだ。でも、母さんの一拍は嘘つきの間というより、痛いところを庇う間に似ていた。あの人自身が、何かから俺を庇っている——のかもしれない。かもしれない、ばかりだ。確かなのは、穴がある、ということだけ。


 なら、次は穴の縁を測る。


 部屋に戻る途中、耳元のエージェントに「昔の入院記録って、本人なら照会できる?」と聞きかけて、湊は言葉を呑み込んだ。


 ——検索は、記録に残る。


 透の講義が頭の中で再生された。人間は忘れるが、記録は忘れない。誰かが俺の過去に蓋をしたのだとして、その蓋を俺が開けようとした瞬間も、どこかの記録に残るのだ。『どうしました?』とエージェントが聞き返してくる。「なんでもない。おやすみ」と湊は答えた。調べ方まで、選ばなきゃいけない。


 湊は自分の端末に、どこにも同期しないローカルのメモを作った。『五歳夏〜六歳冬。アルバムなし。書類なし。母さんは五つか六つと言った。病院の名前をまだ聞いていない』——書いてから、最後の一行を足した。


 『次: 通ってた保育園を思い出す。卒園アルバムはあるか。ネットは使わない』


 書き終えて、少しだけ息が楽になった。分からないことは怖い。でも、分からないことの形を書き出すのは、たぶん怖さの反対側の作業だった。透が予定を記録して未来を作るみたいに、俺は穴を記録して、過去を測る。


 左手首の古い痕が、今夜は熱を持たなかった。ただの静かな痕として、そこにあった。


---


 翌日の下校時だった。


 昇降口を出たところで、前を歩いていた栞が、不意に足を止めた。


 振り返る。湊にではない。誰もいない、自転車置き場の陰の方向へ。


「……いま、誰か」


 一拍の間もなく漏れたその声は、いつもの折り目正しい敬語ではなかった。栞は数秒、焦点の遠い目でそこを見つめ——それから、我に返ったように湊へ微笑を向けた。


「……なんでも、ないです。お先に失礼しますね」


 完璧な微笑だった。完璧すぎて、湊は初めて、蓋の下の水位が音を立てるのを聞いた気がした。


 誰もいない方向を、湊ももう一度見た。夕方の光の中に、自転車の影が並んでいるだけだった。


---


【観察記録 ——続き】


移動の車内で、同行者と「正解」の話をしました。彼は、正解を選び続ける人生は楽でしょうね、と言い、それから少し黙って、こう続けました。「でも、それは誰の人生なんでしょうね」


わたしはまだ、この問いに答えを持ちません。書き写したところで手が止まりました。今日は、その理由を記録しません。


---


 その夜、御堂栞は夢を見た。

 通りが、火で塞がれている。並んだ車が黒く焼けて、アーケードには提灯と、日付の入った祭りの告知幕。誰かの靴が、片方だけ路上に残っている。静止した一枚の画で、音はなかった。

 目が覚めて、栞は天井を見た。絵なら、普段から描いている。でも、夢を描いたことはない。残しておく理由が、これまではなかったからだ。

 ただ、夢にしては、幕の日付が具体的すぎた。八月二十一日。まだ三ヶ月以上も先だ。栞は小さなスケッチブックを開き、鉛筆で描いた。通り。焼けた車列。幕の日付の文字だけが、迷いなく引けた。靴は、片方だけ。

 絵の裏に、三行を書いた。一行目に日付。二行目に場所——アーケードのある通り。三行目に、見えた物を三つ。火。八月二十一日の幕。靴が片方。

 変な夢、と自分に言って、栞は明かりを消した。


(ep008 了)


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