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AIが全部の正解を先に出す2049年、わかり合った相手の超能力が写る。記憶も痛みも一緒にー人間未解ー  作者: 猫間じん


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無色

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【観察記録 ——相良慧】


同行者について書くことを、今日は許してほしいと思います。研究記録に私事を混ぜない主義でしたが、記録者も人間なので、たまには例外を認めます。


清川さんは、良い旅の連れです。わたしの仮説を笑わない。反証を出すときは、必ずわたしの論理の内側から出す。長距離の移動では、わたしが眠るまで起きています。訊いたら「順番です」と言われました。何の順番かは、教えてくれませんでした。


今日の頁は、以上です。次の訪問先に着いたら、また研究の記録に戻ります。


---


 二つ隣の街で、彩葉は零を待っていた。


 待つことは、仕事だった。零が慧の旅程に沿って動く間、彩葉は先回りして次の土地に入る。宿を取り、経路を調べ、リストの名前の生活を把握する。今回の対象は金継ぎ職人の老人。器の修理の工房兼住居、独居、通いの客はまばら、就寝は早い。報告は三行にまとめてある。零さまは、長い報告を必要としない。


 夕方の商店街を、彩葉はフードを浅くかぶって歩いた。


 人混みは、今でも苦手だ。


 すれ違う人々の輪郭に、薄い色が滲む。夕餉の献立を考える若草色。仕事帰りの澱んだ鈍色。すれ違いざまにこちらを一瞥した、値踏みの黄。——昔はこれが、全部、濃かった。世界は塗り潰された色の洪水で、彩葉は溺れながら歩いていた。人の本心が視えるということは、人の本心を浴び続けるということだ。好意の裏の打算も、笑顔の裏の軽蔑も、慰めの裏の安堵も、全部。


 今は、薄い。溺れない程度に、遠い。


 それを寂しいと感じる自分がいることを、彩葉は誰にも言ったことがない。


 宿は商店街の外れに取った。角部屋。壁が白くて、静かな部屋だった。彩葉は零のぶんのコーヒーを買い置き、湯沸かしの位置を確かめ、室温を整えた。備品を机の縁と直角に揃え終えてから、気づく。零さまの癖が、指に移っている。直そうかと思って、結局、そのままにした。それから、待った。待つ時間は、嫌いではない。色のない部屋で、色のない人を待つ。それが彩葉の選んだ生活だった。


 ——選ばれたのではなく、選んだのだ。


 誰に対してかわからない反論を、彩葉はときどき、胸の中でする。


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 零が来たのは、深夜だった。


 窓の外、街灯の下を歩いてくる長身が見えた。慧の宿を抜けて、夜のうちに二つの街を移動してくる。柔らかい物腰の「清川玲二」は、歩いている間に少しずつ畳まれていって、部屋の扉が開くころには、もう表情のない静かな顔だけが残っている。彩葉は、その畳む工程を見るのが好きだった。あの温和な助手の顔は、零さまが仕事のために着ている上着で、脱いだ中身を見られるのは、わたしだけだ。


「戻りました」


「おかえりなさいませ。コーヒー、淹れます」


「対象の報告を」


「金継ぎ職人。六十八歳、独居。工房は店舗の奥。就寝は二十一時、施錠は旧式です」


「三行ですね。結構」


「……相良さんの方は、順調ですか」


「順調です。彼女は良い研究者だ。観察が正確で、疑い方が誠実で」零は上着を椅子の背に掛けながら、事実を読み上げる声で言った。「正確で誠実な観察者ほど、参照する地図が正しければ、正しく迷ってくれる」


 彩葉は、慧という人に会ったことがない。会う予定も、たぶん、ない。零さまの旅のもう半分にいる、記録を書く人。その人の話をする零さまの声は、いつもと同じ平坦さで、だから何の色も読み取れなくて、彩葉は自分がそれを確かめようとしたこと自体を、湯を沸かす動作の中に片付けた。


 零はコーヒーを一口飲んで、わずかに視線を落とした。


「……この銘柄でしたか。僕が飲んでいたのは」


「……はい。いつもの、です」


「そうですか。では、そうなのでしょう」


 零は気にも留めない声で言って、カップを置いた。


 彩葉は、笑みの形を保ったまま、胸の奥で小さな帳面をひらいた。零さまは、まちがえない。まちがえないから、今のは、まちがいではない。ただの——確認だ。旅先では銘柄の手配が揺れることもある。確認するのは、合理的なことだ。


 それでも彩葉は、部屋の隅の私物の端末に、あとで一行を足すことを知っていた。


 【五月二日。コーヒーの銘柄を、初めてお訊きになった。わたしの買い置きの仕方が悪かった】


 帳面の項目は、増えている。先月は、以前お好きだった歩道橋の経路を通らなくなった。先々月は、わたしの故郷の話を、初めてのことのように聞き返された。その前は——ふたりで決めた集合場所の呼び名を、正式な地名で呼ばれた。どれも小さい。どれも、日常の中に置けば見失うほど小さくて、拾って並べているのは、世界でわたしだけだ。そしてどれも、わたしの伝え方が悪かったのだと、分類してある。分類の欄が、それしかないみたいに。


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 金継ぎ職人の工房は、古い商店街の角にあった。


 午前二時。旧式の錠は、彩葉の調べのとおりだった。零は薄い工具を二本使い、短い手順で静かに開けた。忍び込む、という動作すら零は最短の手順でやる。彩葉は見張りの位置に立ち、路地の色を視た。深夜の街の色は薄くて、まばらで、静かだ。


 工房の中は、器だらけだった。


 棚に、直された器が並んでいる。湯呑み、鉢、皿。どれにも、細い金色の線が稲妻のように走っていた。深夜の薄明かりの中で、その金の線だけが鈍く光っている。そのなかで一つ、作業台の隅の古い菓子箱だけが、蓋を閉じたまま置かれていた。


 奥の寝室へ続く戸口で、零は一度だけ立ち止まり、作業台を見た。細筆、箆、砥粉の缶、漆の匂い。使い込まれているのに、道具のどれにも傷がない。新品みたいに滑らかな柄が、使用年数と噛み合っていない。彩葉には道具の色は視えないが、あの滑らかさが何を意味するのかは、報告書を作る過程で察しがついていた。この老人は、道具が傷むたびに直してきたのだ。職人の手で何十年——そして、この数年は、撫でるだけで。自分の商売道具の傷ひとつ、放っておけない手——。


 寝室で、老人が目を覚ました。


「……誰だね」


「夜分に失礼します」零の声は、丁寧で、平坦だった。「あなたの手の技術に、用があります」


「……とうとう、迎えが来たかね。それとも、あの反対運動の若いのか……いや」老人は暗がりに目を凝らして、それから、諦めたように息をついた。「どっちでもないね。あんた、目が静かすぎる」


 彩葉は戸口で、老人の色を視た。


 セピア一色だった。——少なくとも、彩葉の薄れた視界には、そう視えた。恐怖の黒も、命乞いの濁った黄も、ない。古い写真みたいな、乾いた諦めの色だけが、老人の輪郭を縁取っていた。


「一つだけ、聞いてくれるかね」老人は言った。「儂の手は、大抵のものを直せる。触ると、わかるんだ。どこが泣いてるか。……いや」言いかけて、老人は口をつぐんだ。「しょうがないな、こんな話。あんたにしても」


 口をつぐんだ老人の視線が、一瞬だけ、暗がりの作業台の方へ流れた。零はその視線を辿った。古い菓子箱。蓋の上の、埃だけが拭われている。


「あの箱は、継いでいませんね」零は言った。「埃の拭われ方が、棚の器と同じだ。仕事の外にあるのに、手入れの内にある。——継げない、のではなく?」


「…………女房が」老人の声が、初めて少しだけ乱れた。「最後の朝に、割った湯呑みでな。破片は、全部ある。全部あるのに——継いじまったら、あの朝が、終わっちまう気がしてな」


「興味深い」零は言った。本当に、興味深そうだった。「壊れたままであることに、機能を見出している。……ですが、僕の用件とは関係がない」


 零は右手を上げ、老人の耳の後ろへ触れた。ただ、それだけだった。器具も、音も、起動を告げる光もない。


「あなたの手が知っていることを、読みます。数秒です。あなたの記憶の大半は、残ります」


「……返事は、いらんのかね」


「いりません」零は静かに言った。「——解は出た」


 彩葉は、目を逸らさなかった。逸らさないことが、自分の仕事だと決めている。零の手が触れたまま、老人の体が椅子の上でゆっくり傾いだ。数秒。金の線の並ぶ静けさのなかの、たった数秒。老人は昏倒して、規則正しい寝息だけが残った。零は老人を寝台に運び、毛布を掛けた。手順の一部のように。優しさと見分けのつかない、効率だった。


 帰り際、零は作業台の前で足を止めた。修理待ちの、二つに割れた小鉢に指先で触れる。細かい振動の音がして、破断面が寄り、二片が繋がった。——それだけだった。欠けは欠けたまま、髪ほどの亀裂が継ぎ目に残り、金は、当然、走らなかった。零は小鉢を持ち上げ、光に透かして、しばらく見た。


「……粗い。隣り合う二片が、やっとですね。彼の手が四十年かけて知ったことの、表面だけだ」


 零はそう言って、小鉢を元の位置に戻した。作業台の隅の菓子箱には、一瞥もくれなかった。読んだはずなのに。あの箱の中身が何なのか、もう知っているはずなのに。


 知っていて、要らないと判断したのだ。零さまの解に、あの箱の破片は含まれていない。


 彩葉はそのことを、考えないことにした。考えない、という作業を、意識してやった。


---


 宿に戻ると、零は窓際の椅子で、読み取ったばかりの何かを整理するように目を閉じていた。


 彩葉は二杯目のコーヒーを淹れた。いつもの銘柄。いつもの濃さ。湯気の向こうの零さまは、無色だった。初めて会ったときから、ずっと。色の洪水の中で、そこだけ凪いでいる場所。わたしの、静かな場所。


「彩葉」


「はい」


 零は目を開けなかった。声だけが、平坦なまま、落ちてきた。


「僕はなぜ、君を連れているんだったかな」


 湯気が、細く揺れた。


 彩葉は、答えを持っていた。いくつも持っていた。調査のためです。手配のためです。わたしが役に立つからです。——どれも口にしないまま、彩葉はカップを零の手の届く位置に置き、いつもの角度に把手を回した。


「……冷めないうちに、どうぞ」


 零はコーヒーを飲んだ。それきり、何も言わなかった。


 その夜、彩葉は私物の端末に一行を足した。


 【五月三日。「僕はなぜ、君を連れているんだったかな」】


 足してから、分類の欄の前で、指が初めて、少しだけ止まった。わたしの伝え方が悪かった——その分類は、今夜の一行には、どうしても嵌まらなかった。嵌まらないまま、彩葉は欄を空けたままにして、端末を閉じた。空いたままの欄があることを、明日のわたしは覚えているだろうか。覚えていない方が、静かに眠れるだろうか。


 窓の外は夜で、夜には色がなくて、その無色は、零さまの無色と、よく似ていて、すこしだけ違った。どこが違うのかは、まだ言葉にならなかった。


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【観察記録 ——続き】


良い旅の連れです、とわたしは書きました。今日の頁を読み返して、我ながら少し浮かれた筆致だと思います。


記録は訂正しない主義です。書いた時のわたしも、記録のうちだからです。ただ——いつかこの頁を読み返す日のわたしが、今日のわたしを笑うだけで済めばいい、とは思います。


研究者が私事を書くと、ろくなことがありませんね。明日から、記録に戻ります。


(ep010 了)


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