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AIが全部の正解を先に出す2049年、わかり合った相手の超能力が写る。記憶も痛みも一緒にー人間未解ー  作者: 猫間じん


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【観察記録 R-077 ——相良慧】


十月二十四日。市街の宿。この記録は紙に書き、写しています。


相沢さんから、二行の写しを受け取りました。二十一日の日付で、当該系統からの命令が一件、資格の照合を通らず、受け付けられなかった、とあります。


先日の三行にあったのは、別々の二つの決定です。一つ目は、同じ根拠だけでは、これからの決裁を受け付けないこと。二つ目は、命令を送る資格を廃止すること。今回の写しで確かめられるのは、二つ目が働いたことまでです。一つ目は、決まったことは読めます。働いた実績は、二枚では確かめられません。


意味の全部は、分かりません。二つの決定を、同じ結果の言い換えにせず、分けて保存します。


---


十月二十四日、日曜。朝から雨だった。


強い雨ではない。傘を差すかどうか、人によって判断が分かれるくらいの雨だ。商店街のアーケードの切れ目で、差す人と差さない人が入れ替わる。入れ替わる場所を眺めていると、傘というのは雨の道具というより、判断の道具に見えてくる。差した人は差した顔で、差さない人は差さない顔で歩いていく。


湊は、朝の当番を終えて、雨の通りを見ていた。


当番はビニールの見回りだった。雨の日の留め具は、乾いた日より素直に締まる。四つ確かめて、どれも押し直さずに済んだ。済んでしまうと、朝の仕事はもうない。ない、ということを確かめるために、湊はもう一周だけ歩いた。


柱の広告が、傘で顔の隠れた通行人に表示を出しそこねて、既定の画面に戻った。戻った画面は天気の案内で、いま降っている雨を、降る予報です、と伝えていた。


ポケットの中に、今日は何も入っていない。入っていないのに、重さだけがある。六月の終わりの夜から、ずっとだ。


預かってるだけだから、とあの夜は言った。預かる、と言ってしまえば、いつかは返すことになる。言ったときは、そこまで考えていなかった。考えていなかった言葉に、あとから自分が追いつくことが、湊にはよくある。返し方を知らないまま、返す約束の側だけが先にできていた。


先週、あの未明の階段で、思ったことがある。奪われかけている人の隣にいて、俺が持っているのは、奪ったものではないけれど、俺のものでもない。それなら置き場所が違う。それだけのことに、四か月近くかかった。


今日は、返し方を知っている気がした。気がする、というだけで、確かめたわけではない。確かめられる種類のことでもない。手が覚えたことは、たいてい、使うまで確かめられない。


夕方に会う約束は、昨日のうちにしてあった。理由は言わなかった。聞かれもしなかった。渡したいものがある、とだけ送ったら、時間だけが返ってきた。あの男の返事はいつも、必要な情報の分だけの長さをしている。


---


昼前、相談所の帰りに、雪と会った。


アーケードの終わりのところだ。雪は配布の紙の空き箱を抱えていて、湊は傘を持っていた。どちらからともなく、軒下で止まった。


「配り終わり?」


「うん」


「濡れてない?」


「別に」


いつもの長さの返事だった。いつもの長さの返事が返ってくる相手と、雨の軒下に並んで立つ。それだけのことが、この一年でどれだけ珍しくなくなったかを、湊はときどき思う。思うだけで、口には出さない。出すと、雪が数に入れてしまうからだ。自分の分は数に入れない人が、他人の言葉は全部数に入れる。


雨の音が、屋根の材質ごとに違う音でしていた。


「ねえ」


「ん?」


「聞いてて」


雪はこちらを見ていなかった。通りの雨を見ていた。聞いてて、が何の前置きなのかは、分からなかった。分からないまま、湊は頷いた。頷いたのが見えたはずはないのに、雪はそれで足りたらしかった。


雪は、少しうつむいた。誰かに話すときの角度ではなかった。自分の内側に声を向けるときの、あの角度だった。


「みぞれ」


雨の音のあいだに、その名前は小さく置かれた。


「わたし、生きたい」


それだけだった。


説明はなかった。返事があったのかどうかも、外からは分からない。雪は顔を上げて、空き箱を抱え直した。


「……それだけ」


「うん」


湊は、それ以上何も言わなかった。言わないでいることが、今日の自分の仕事だと思った。聞いてて、と言われた。聞いた。仕事は終わりだ。


雪は雨の中へ出て、行ってしまった。傘は差さなかった。差さない方を選んだ歩き方だった。


なぜ俺だったんだろう、と一瞬考えて、考えるのをやめた。


湊は、いま聞いたものに名前を付けそうになって、やめた。付けたら、雪のものではなくなる気がした。


軒下に一人残って、湊はしばらく雨を見ていた。空き箱を抱えた背中は、もう角を曲がって見えない。あとで思い出すとき、たぶん今日は、夕方の雨よりも先に、この軒下から思い出すことになる。


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夕方、約束の時間に、湊は通りへ出た。


雨は昼と同じ強さのまま続いていた。強くも弱くもならない雨は、街の音を一段だけ均す。傘の下から見る通りは、いつもより人が少なくて、少ない人はいつもより速く歩いていた。速く歩かない人間は、今日は目立つ。目立っても、誰も見ていない。


どこ、と決めた場所はなかった。駅の方から歩く、とだけ聞いていた。だから湊も、駅の方へ歩いた。歩いていれば、途中のどこかで会う。会ったところが、場所になる。


駅までの道の半分あたりで、雨脚が一度だけ強くなり、すぐ戻った。傘の上の音が変わって、戻る。それだけのことに、湊は少し安心した。今日は、変わったことが起きない方の日であってほしかった。起きることは、こちらで起こす。それで足りる日だ。


零とは、街灯が点きはじめる頃に会った。


商店街でも駅前でもない、ただの通りの途中だった。角でもない。目印になるものが何もない。零は傘を差していなかった。濡れることを気にしない歩き方で、まっすぐ来た。


「こんばんは」


「うん」


湊は傘を持ち直した。


「返したいものがある」


「聞きます」


「あんたのかどうかは、分からない」湊は言った。「中身は言えない。言えないんじゃなくて、言えるほど見えてない。俺にも、切れたところしか見えてないんだ」


零は、雨の中に立ったまま、少しのあいだ黙っていた。


「以前、あなたは、預かっている、と言いました」


「言った」


「預かり物の返却である、という理解で、いいですか」


「たぶん」湊は言った。「でも、あんたが要らないって言うなら、それでもいい。俺が勝手に持ってて、俺が勝手に返したいだけだから」


「中身は分かりません」零は言った。「受け取ります」


一拍おいて、付け足した。


「僕の判断で、です」


それが承認だった。承認の形は、人によって違う。この男の形は、先週の未明に決まったばかりだった。


湊は、傘を左手に持ち替えて、右手を出した。零の腕に、袖の上から触れた。あの夜の逆だ。あの夜は、向こうの右手がこちらへ来た。今日は、こちらの手が向こうへ行く。


渡すのは、一瞬だった。


奪うときのことは、湊はよく知らない。奪ったことがないからだ。流れ込んでくるのは、いつも向こうからだった。返すのは、その逆流の逆で、つまりただ、手放すことだった。四か月持っていた重さが、袖の上の接点から、静かに出ていった。


傘。


誰かに傾けた傘。自分の肩が、濡れていく感触。


それだけの断片が、受け取ると決めた側へ移った。前もない。後もない。顔もない。名前もない。切れたところしか見えない、切れたままの一片だ。


零は、動かなかった。


雨が、零の肩で小さく鳴っていた。


「……受け取りました」


「うん」


「これが僕の記憶かどうかは、分かりません」零は言った。「受け取ったものが何かも、まだ、うまく並べられません。肩が濡れる感じが、しました。いまも濡れているので、区別がつきません」


「そうか」


「保管は、僕がします」零は言った。「僕のものかどうかが分かるまで、ではなく、分からないままでも、僕が持ちます。それは決めました」


湊は頷いた。


思い出させることは、できなかった。摩耗が戻ったわけでもない。零は何も思い出していない。ただ、切れた一片の置き場所が、湊のポケットから、持ち主かもしれない人の手に移った。それだけだ。


それだけのことの名前を、湊は探さなかった。


奪うの逆。返すこと。分かち合うこと。どれも近くて、どれも余る。名前を付けたら、今日のこれが、名前の方に合わせて形を変える気がした。雪のときと同じだ。付けないでおく。付けないままでも、手はもう、覚えた。


---


「送っていく」湊は言った。「傘、入れよ」


「結構です」


「濡れてんだろ、もう」


「濡れています」零は言った。「途中まで、お願いします」


並んで歩いた。傘は一本しかない。湊は柄を零の側へ傾けた。傾けたぶん、湊の右の肩が雨に出た。


しばらくして、零が言った。


「肩が、濡れています」


「知ってる」


「あなたの、です」


「知ってる」


零はそれきり何も言わなかった。言わないまま、歩く速さが、ほんの少しだけ、傘の下に収まる速さになった。


湊は、途中で気づいた。気づいて、傘は動かさなかった。わざとやったのではない。それだけは、確かだった。


分かれ道で、零は立ち止まった。


「今日のものは、僕の中に置きます」零は言った。「置き場所は、もう決めてあります」


「早いな」


「置き場所を決めるのは、得意です」


零は雨の中へ出て、振り返らずに歩いていった。街灯の下を通るたび、濡れた肩が一度ずつ光った。


湊は、傘を持ち直した。右肩が冷たかった。冷たさは、しばらく消えないだろう。消えないでいいものが、この世には少しだけある。


体の奥の方で、いつもの遠い熱が、少しだけ動いた気がした。何かを使えば、何かが進む。それはもう知っている。知っていて、今日のこれを使わない自分は、考えられなかった。進んだ分の帳尻を、どこで合わせるのかは、まだ知らない。知らないことは、知らないままにしておけない性分の人たちが、周りに何人かいる。話す順番だけ、歩きながら決めた。


家に向かって、湊は歩き出した。


ポケットは、もう軽かった。軽い、というのが、こんなに具体的な感触だとは知らなかった。四か月ぶんの重さの形に、ポケットの布が伸びている気がして、湊は一度だけ、外から手のひらで押さえた。何もない。何もないことが、今日の持ち物だった。


(ep077 了)



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