解
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【観察記録 ——相良慧】
十一月七日。
この記録は、紙のままにします。もう写しません。番号も、付けません。
観察記録は、対象から距離を取るための道具です。父に教わったのではなく、父のノートから、わたしが勝手に学んだ使い方です。距離は、正しく測るために要る。ずっと、そう書いてきました。
道具の使い方を、わたしは途中から間違えています。いつからかは、特定できます。特定して、書き直すこともできます。しません。
わたしは観測対象を、人間として愛してしまいました。科学者として、これは失格です。けれど、この記録は失格の記録として正確なので、一行も直しません。
観測は、続けます。距離は、もう測りません。
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十一月七日、日曜。よく晴れていた。
朝の商店街は、秋の匂いがした。乾物屋の軒に新米の貼り紙が出て、惣菜屋の湯気が去年より一時間早く上がる。夏祭りの幕を張った金具が、アーケードの柱に残ったまま銀色に光っている。外し忘れではなく、来年もあるから外さないのだと、いつか会長が言っていた。
湊は当番の見回りを終えて、掲示板の前で足を止めた。
掲示板の右下の画鋲は、いつの間にか新しいものに替わっていた。誰が替えたのかは知らない。紙の反りは、もうない。
見回りの一周は、いつの間にか長くなっている。足す用事が増えたからではない。立ち止まる場所が増えたからだ。修理の終わった店の、新しいシャッターの色。水飲み場の横の、塗り直された縁石。どの場所にも、そこで起きたことの名前があって、名前はもう、通りの誰も口に出さない。出さなくても、みんなの歩き方の中に入っている。ここは少しゆっくり歩く、というような形で。
十一月の当番表が貼ってある。
名前が、二つ増えていた。どちらも湊の知らない名前だ。角の空き店舗に越してきた人と、その家族らしい。会長が誘ったのか、自分から書いたのかは知らない。増えた行の字は、どちらも遠慮がちに小さかった。
湊の名前の上の二重線は、消えていない。
定規で引かれた線の下に、あの日書いた自分の字が残っている。誰かが消して、誰かが書いて、そのまま一か月あまりが経った。会長は貼り替えるたびに、この紙をそのまま写す。線ごと写す。理由を聞いたことはない。聞かなくても、そのままにしてある、ということだけ分かればよかった。
「消えてないか」
いつの間にか、会長が後ろに立っていた。
「消えてないです」
「そうか」会長はそれだけ言って、店の方へ戻っていった。毎週、同じことを聞く。毎週、同じ答えを聞いて、戻っていく。点検の項目に入っているみたいだった。入っているのだと思う。あの人の点検表は、あの人の頭の中にしかない。
乾物屋の前で、配達の箱を積んだ小さい台車が止まっていた。
「フク、こっち。段差」
老婦人が声をかけると、台車は少し下がって、向きを変えた。フク、というのが台車の呼び名らしい。隣の家の子どもが、自分の家の端末の名前を言い返して、老婦人と笑い合っていた。惣菜屋のレジの脇の端末にも、先週から名札の形のシールが貼ってある。店主は呼んでいるところを見られると、少し照れる。
そういう呼び方が、この秋、通りのあちこちで増えた。増えたことについて、誰も何も言わない。呼びやすいから呼ぶ。それだけのことに見えた。見えたままに、しておいた。
湊は、袖をまくって手を洗った。
洗い終わって袖を戻すとき、左手首の内側の痕に、指が一度触れた。
「おい」透が奥から顔を出した。「ビニール、今日で外すって。会長が」
「もう寒くないもんな」
「持つとこ持て」
空き店舗のビニールを、四人で畳んだ。透が角を持ち、湊が対角を持ち、宙が真ん中で余計な指示を出し、雪が畳み目を最後に直した。直すとき、雪の親指は折り目を二度こすった。二度目は、なでるのに近かった。誰の癖だったのかを、もう誰も言わない。言わないまま、癖だけが通りに残って、たまにこうして出てくる。
畳み終わった透明な膜は、思っていたより小さくなった。二か月あまり、店の形を守っていたものが、抱えられる大きさになる。
「これ、どうすんの」宙が言った。
「取っとくんだよ」会長が言った。「次に使う日が来る」
「来ない方がよくない?」
「来ない方がいい」会長は畳んだ膜を受け取った。「だから取っとくんだ」
昼は、相談所の裏で四人で食べた。話したことは、ほとんど覚えていないような話ばかりだった。宙の学校の話。雪の帳面の話。宙が「これ絶対、最終回の前の平和な回のやつじゃん」と言い、雪が「最終回って、何の」と返し、宙が答えに詰まって麦茶を飲んだ。透は途中から何かを書いていて、何を書いているのかは誰も聞かなかった。書き終わりに、日付のところだけ声に出して確かめるのが聞こえた。
覚えていないような話ができる、ということを、湊はときどき、両手で確かめたくなる。確かめる代わりに、麦茶を注いで回った。宙のコップにだけ多めに入った。文句は出なかった。
食べ終わって、雪が先に立ち、宙が続き、透が帳面を閉じて最後に立った。解散、と誰も言わない。言わなくても、それぞれの午後へ分かれていく。分かれ方が揃っている。揃っていることに、誰も気づいていない。気づいているのは、たぶん、数えている人だけだ。
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夕方、零が来た。
自販機の並びのところだ。いつもの場所より、半歩だけずれたところに立っていた。ずれていることに気づいて、湊は少し笑った。何も言わなかった。
「こんばんは」
「うん」
湊は二本買って、一本を無言で差し出した。
零は缶を見て、湊を見て、受け取った。
「温かいのですね」
「もう十一月だから」
零は缶を両手で持った。持ち方が、飲む持ち方ではなく、温度を測る持ち方だった。しばらくそのまま持っていた。
「変わりないか」湊は言った。
「あります」零は言った。「毎日、あります。以前は、変わりのある日と、ない日がありました。いまは、全部の日に変わりがあります。集計の方法を変えたからだと思います」
それが冗談なのかどうかは、いつものように分からなかった。分からないままでいいことも、いつものとおりだった。
「立ち位置、ずれてんな」湊は言った。
「はい」零は言った。「今日は、ずらしました。理由はありません」
理由がない、を自分で選べる男に戻っている。湊はそのことを、缶の温かさと一緒に確かめた。
「報告があります」零は言った。「未処理の欄の話です」
「ん」
「十月三日の件を、処理しようとしました。何度か並べ直して、まだ並びません。原因の候補が多すぎます。あなたたちが回った七つの地区。回らなかった三つ。配られた紙。配られなかった紙。数えられた六十二人。数えられなかった人。どの一つを外しても、あの日が同じだったかどうか、僕には計算できません」
「それ、困る?」
「以前なら、困りました」零は言った。「未処理の欄が埋まらないのは、僕の集計では、負債でした。いまは、欄の名前を変えることを検討しています」
「なんて」
「まだ決めていません。決めていない、という状態の名前を、先に探しています」
「そっか」
「以前の僕なら、こう言いました。データが足りない。足りれば、解ける」
零は缶を片手に持ち替えた。
「いまは、少し違うことを考えています。足りる日が、来ないのではないか。人が関わった件は、変数が閉じない。閉じないものは、解けません。解けないことは、僕の敗北だと思っていました」
「いまは?」
「分かりません」零は言った。「分からないことを、前ほど、急いで処理しなくなりました。保管の場所を、増やしたからかもしれません」
湊は、缶を開けた。温かさが手のひらから抜けないうちに、少し飲んだ。
聞きたいことは、前から一つだった。聞く日が今日である必要はなかったが、今日でない理由もなかった。
「なあ」
「はい」
「俺たちって、分かり合えんのかな」
零は、すぐには答えなかった。
「俺と、あんた。人と、人。それから——人と、人じゃないやつも。ぜんぶ含めて」
通りの向こうで、店のシャッターが半分下りる音がした。柱の広告が、通る人のいない時間の、誰のためでもない画面を映していた。
「僕は、読めば分かると思っていました」零は言った。「全部読めば、全部分かる。分かれば、痛みは消える。長いあいだ、それが僕の問いでした。いつからそうだったのか、どうしてそうなったのかは、僕自身にも、全部は遡れません。遡れない、ということも、いまは保管の側に入れてあります」
「うん」
「読んで、分からなかったものが、あります。読まずに、渡されたものも、あります」零は、缶を持っていない方の手を、一度だけ開いて、閉じた。「僕はいま、分からないものを、いくつか保管しています。どれも、捨てる理由が見つかりません。捨てない理由なら、あります。それが答えの代わりになるのかどうかを、僕はまだ検証していません」
「検証、すんの」
「します」零は言った。「時間はかかります。あなたも、生きていてください。途中の数字が要るときに、聞きに行きます」
「なんだそれ」
「共同研究の、依頼です」
湊は笑った。笑いながら、缶を持ち上げて、軽くぶつけた。零は自分の缶を見て、それから同じ高さに持ち上げて、音のならないぶつけ方でぶつけ返した。
「条件、あんの」湊は言った。「その共同研究」
「あります」零は言った。「結論を、急がないこと」
「あんたが言うんだ」
「僕が言います」零は言った。「言えるようになるまでの経緯は、全部は説明できません。説明できない経緯を持っている、ということが、たぶん、僕の側の出資です」
夕方の光が、通りの端から順に色を変えていった。自販機の灯りが点いて、二人の足元に同じ形の影が二つ並んだ。長さは違った。違うまま、並んでいた。
「で」湊は言った。「いまのところの答えは」
零は、湊を見た。
それから、微かに笑った。初めて見る種類の顔だった。壊れた顔でも、作った顔でもない。ただ、時間の長さの分かる人の顔だった。
「——解は、まだ出ていない」
(ep078 了)




