争奪
十月十四日、木曜。夜。
零が来たのは、二十二時過ぎだった。
商店街の外れ。自販機の並びのところだ。四日前と同じ場所に、同じ角度で立っていた。
「こんばんは」
「……どうした、こんな時間に」
零は答えなかった。答えない、ということが、まずおかしかった。この男は、問われた範囲には必ず何かを返す。
「桐生冴の、現在の所在を教えてください」
「誰?」
「桐生冴。局の、保守と解析の部門長です」
湊は透と顔を見合わせた。名前は、昼に真昼から届いた報せの中にあった。渡せる物が二つできた、という短い文の差出人だ。会ったことはない。
「知らない」湊は言った。「本当に知らない。なんであんたが」
「そうですか」
零はそれだけ言って、踵を返した。
五歩行って、止まった。戻ってきた。そして、さっきとまったく同じ場所に、まったく同じ角度で立った。
湊の背中が冷えた。
同じ場所に立つのは、いつものことだ。だが、この男の立ち方には、いつも小さな余りがあった。一歩ぶんずれるとか、鞄を持ち替えるとか、理由のない無駄が、毎回ひとつだけ挟まる。今は、それがない。定規で引いたみたいに、同じだった。
「——解は出た」
誰も、何も聞いていなかった。
問いのない場所に、答えの形をした言葉だけが置かれた。零の声で、零の口から。でも、あれは返事だ。ここにいない誰かへの。
「あんた」湊は言った。「大丈夫か」
「所在が分かったら、教えてください」
零は行ってしまった。歩幅は正確だった。正確すぎた。
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真昼が来たのは、二十三時半だった。
白い車両ではなく、徒歩で。背中に細長い荷を負っていた。規定の携行品。あの装置だ。
「二通、預かっています。読んでください」
一通目は昼の分。二通目は、今夜のものだった。上が二つある。観測は三度。時刻が三つ並んでいる。
「これだけじゃ、分からないんだけど」
「わたしにも、全部は分かりません」真昼は言った。「分かっていることだけ言います。差出人は明朝六時、市の東の協力施設で、現場の照合をします。監査の帳票に載っている予定です。帳票に載っている予定は、読める人には読めます」
「読める人」
「わたしが言えるのは、そこまでです」
湊は、二十二時の零を思い出した。桐生冴の所在。読める人には読める予定。零は聞きに来た。聞きに来て、答えがないと分かると、行った。行き先の候補は、一つしか残っていない。
「協力施設って」透が言った。「あそこか」
「旧棟です」真昼は言った。「照合の対象が、旧棟の記録なので」
誰も、それ以上は言わなかった。言わないまま、支度が始まった。
出る前に、透が一度だけ聞いた。
「あんた、これ、手順なのか」
「手順ではありません」真昼は装置の帯を締め直した。「二人分の判断です。差出人のと、わたしの」
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旧棟に着いたのは、二時前だった。
門はなかった。敷地の縁に、車止めが並んでいるだけだ。夜間の見回りの光が、母屋の側をゆっくり動いている。
透が先に周期を測った。光が母屋の角を回ってから戻るまで、四分。渡るのは、車止めから旧棟の壁まで。遮るものが何もないのは、真ん中の十メートルだけだ。
「順番に行く。おれは自前がある。あんたは自分の分だけ開けとけ」
透が先に渡った。真昼は光が切れた頭で渡って、壁の陰に入った。湊は最後に、借りているほうの力を自分に開いて、渡った。手のひらの下で、世界が一枚薄くなる感じがする。七割の出力で、自分ひとりを外すだけ。それ以上は届かない。
映る物には、映る。この力は目を欺くだけで、記録は正直だ。だから、映る場所を通らない。それは力ではなく、周期と、壁の陰の仕事だった。
壁際で、湊は力を閉じた。長く保つ力ではないし、ここから先に隠れる相手は、これが効かない相手だ。
旧棟の入口に、掲示が残っていた。三階以上は使用を停止しています。二階集会室、定員百二十名。日付は二年前のままだ。
その入口の内側に、零が立っていた。
暗がりの中で、こちらを見ていた。
正確に、湊を見ていた。さっき力を閉じたのは正しかった。開けたままでも、この目は素通りしなかったはずだ。分かってはいたが、暗がりの中で自分だけを正確に追う視線というのは、分かっていても、別だった。
「相沢くん」
「あんた、なんでここにいる」
「桐生冴が、朝、ここへ来ます」零は言った。「帳票に載っています」
「来て、どうする」
「読みます」
短かった。短さが、答えの全部だった。この男の読み方を、湊は知っている。浅ければ昏倒。深ければ、戻らない。
「断れ」湊は言った。「あんたの言葉で断れよ。あんた、前に言っただろ。読む必要のないものは読まないって」
「必要は、あります」
「誰の必要だよ」
零は、答えなかった。
答えの代わりに、視線が一瞬、湊の後ろへ流れた。真昼の背中の荷を見た。それから、階段の方へ下がった。退路を切る動きではなかった。階段を背にする動きだった。朝までここで待つ気だ。誰も二階へ上げない位置で。
「透くん」湊は言った。「外、頼む」
「見回りは切っとく」透は入口の外へ下がった。「中は、あんたらでやれ」
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階段は、狭かった。
昇り口で、湊は前へ出た。零は動かなかった。動かないまま、湊が段に足をかけた瞬間、距離が消えた。
掴まれた、と思ったときには、体が振られていた。肩から手すりに入った。鉄の音が鳴って、視界が白くなった。痛みは一拍遅れて来た。
能力ではなかった。ただの体術だ。ただの体術が、こんなに速いのか。
「上がらないでください」零の声は平坦だった。「怪我をします」
「もう、してるんだよ」
湊は立った。左の肩が上がらない。肋のどこかが、息のたびに軋んだ。
装置は真昼が背負っている。至近でしか効かない。届かせるのは、こっちの仕事だ。階段の幅は人ひとり半。零を抜くことはできない。押し込むしかない。押し込めば、また振られる。
湊は、雪の顔を思い出した。
帰ってきて。貸すのは、そこまで。
借りたものの条件を、いまから破らない範囲で、どこまで使えるか。考えたのは一秒だった。一秒で、答えは出なかった。出ないまま、開いた。
再生。
肩の奥で、熱がともった。治るのは遅い。痛みは消えない。それでも、上がらなかった腕が、上がるようにはなる。それだけでいい。
湊は二歩目を踏んだ。
零が来た。今度は見えた。見えても、受けるしかなかった。前腕で受けて、そのまま踊り場の壁まで運ばれた。背中が当たって、息が抜ける。零の右手が、こめかみの高さに上がって——止まった。
止まって、下りた。
読まない。読む相手は、湊ではないからだ。命じられた仕事の外のことを、この体はしない。徹底して、しない。それが、いちばん零ではなかった。零なら、ここで読む価値を計算する。計算して、たぶん、嫌味のひとつも言う。
「あんた、いま」湊は言った。「何も決めてないだろ」
零の動きが、初めて、わずかに遅れた。
その遅れの横を、真昼が上がっていった。
音のない上がり方だった。手すりに触れず、段の端を踏んで、荷を胸の前に抱え直して。踊り場の一段下で、真昼は止まらなかった。止まらずに、湊の名前も呼ばずに、装置の帯を引いた。
零が振り向く。
湊は、最後の一歩をもらった。
壁を蹴って、零の背中と真昼のあいだに体を入れる。零の手が湊の襟を掴む。構わなかった。掴ませたまま、真昼の腕から装置を受け取って、零の胸元へ、押し当てるところまで運んだ。
起動の音は、しなかった。
音はしないで、世界の温度だけが一段下がった。
零の手から、力が抜けた。
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零は、踊り場に座り込んだ。
倒れなかった。座った、という方が正しい。膝を折って、背を壁につけて、目は開いていた。
「……静かです」
最初の言葉が、それだった。
「切れてるからな」湊は言った。「少しのあいだ、そのままでいてくれ」
「静かです」零はもう一度言った。「僕は、この静かさを、知りません」
真昼が装置の表示を確かめて、頷いた。透が入口から顔を出して、見回りの周期を指で示した。あと二十分は来ない。
湊は、零の隣の段に座った。肩と肋が、遅れて主張を始めていた。再生は続いている。続いていても、痛いものは痛い。
「朝まで、あと三時間ある」湊は言った。「あんたの中の順番が戻るまで、俺たちはここにいる」
「戻っています」零は言った。「もう、戻っています。……確認に、少しかかっただけです」
零は立とうとして、膝が途中で止まり、座り直した。座り直したことについて、何も言わなかった。
「いま、何時ですか」
「三時前」
「……そうですか」零は言った。しばらくして、もう一度聞いた。「いま、何時ですか」
「三時前だって」
「そうですか」
零は自分の両手を膝の上に置いた。指先が、そろっていなかった。そろえようとして、そろえるのをやめたのが、見て分かった。
零は目を閉じて、開いた。
「訂正します」
「ん?」
「あれは、僕の判断ではありませんでした」
湊は、その言い方を聞いたことがなかった。解は出た、を裏返しもせず、保留もせず、ただ、間違った札を盤から下ろすみたいに、訂正、と言った。
「昨日の夜からの僕の行動のうち、三件が、僕の判断ではありません。所在の質問。ここへの、」零はそこで一度止まった。止まった場所を、自分で見ているような間だった。「……移動。読む、という返答。三件とも、僕の形をしていました。形だけです」
「……分かってた、のか。中で」
「分かりません」零は言った。「中にいたときの僕は、あれを不要と処理していました。切る、という選択肢を、不要と。いまの僕は、それを不要と思いません。同じ僕のはずです。どちらかが、僕ではなかったことになります」
零は、自分の右手を見た。
「どちらか、です。まだ、確定できません」
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集会室には、夜明け前に移った。
装置は、階段のところで役目を終えて、真昼の背に戻っている。零の中の順番が戻っていることを、零自身が二度確かめてからだ。
長机が、埃をかぶって並んでいた。定員百二十名。誰もいない百二十席の端に、四人で座った。
窓の外が、灰色から青に変わり始めていた。
「証拠の話をする」透が言った。「あんたに来た三件が、あんたの判断じゃないってことを、あんた以外が確かめられる形。あるか」
零は、少しのあいだ黙っていた。
「あります」
「どこに」
「僕の中に、記録が残っています」零は言った。「受け取ったものの控えが、消せない場所に残る作りになっています。送った側にも、消せません」
「出せるのか」
「出します」零は言った。「僕の判断で」
零は自分の端末を机に置いた。しばらく手を動かして、それから画面をこちらへ向けた。
並んでいたのは、時刻と、番号の列だった。昨夜の十九時台から、未明までのあいだに、同じ出どころの印が、繰り返し並んでいる。番号は、湊には読めなかった。時刻は読めた。列の中に、十九時二十分があった。二十四分と、三十一分も。冴の二通目に並んでいた、三つの時刻と同じだった。
番号の突き合わせは、こちらではできない。できる人のところへ、これから行く数字だ。
「これ、写していいか」
「どうぞ」零は言った。「原本は、僕です」
言ってから、零は自分の言い方に、少しだけ首を傾げた。傾げたことに気づいて、戻した。
真昼が立ち上がった。
「行き先は、決まっています」真昼は言った。「昼の物と、合わせます」
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外へ出ると、朝だった。
見回りの職員が、母屋の前で体操をしていた。こちらには気づかなかった。気づかれる前に、敷地の縁まで歩いた。
「送っていく」湊は零に言った。
「結構です」
「歩けんの」
「歩けます」零は言った。「歩くのは、僕の判断です」
言ってから、付け足した。
「今日のところは、それが言えるだけで、足ります」
零は歩いていった。歩幅は、いつもの歩幅だった。角を曲がる前に、一度だけ立ち止まって、何かを確かめるように自分の足元を見て、それから曲がった。
湊は、痛む肋に手を当てて、それを見ていた。
取り返した、と思った。何をとは、まだうまく言えない。能力でもない。記憶でもない。あの男が「僕の判断です」と言うときの、判断、の置き場所。あれを、取り返した。
「帰るぞ」透が言った。「あんた、寝ろ。治りかけの顔してない」
「治りかけだよ」
「なら余計に寝ろ」
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【観察記録 R-075 ——相良慧】
十月十五日。伝聞です。
未明、市の東の協力施設で、九条さんに関わる何かがあったと聞きました。九条さんは無事で、自分の足で帰ったそうです。相沢さんは肩と肋を痛めましたが、歩けています。
わたしは現場を見ていません。見ていないものは、聞いたとおりに書き、聞いていないところは、空けておきます。
(ep075 了)




