変数
十月十四日、木曜。
朝いちばんの照会が、返ってこなかった。
正確には、返ってきた。閲覧権限がありません、の一行が返ってきた。桐生冴は、その一行を三度読んだ。三度読んでも同じ一行だった。
先週までは通っていた区分だ。保守と解析の部門長が、自分の部門の実行履歴を引けない。そういう設定は、普通は起こらない。起こらないことが起きたときは、誰かが起こしている。
理由の通知は、どこにもなかった。処分の記録もない。呼び出しもない。ただ、権限の一覧から一行だけが消えていて、消えた日付も出ない。
冴は、聞いて回らなかった。聞けば、誰かが答えなければならなくなる。答えられないから黙っているのだとしたら、聞くだけ無駄だ。答えられるのに黙っているのだとしたら、聞くのはもっと無駄だった。
朝の廊下で、部下が二人、すれ違いざまに黙礼した。二人とも、目を合わせる時間がいつもより短かった。知っているのか、知らないのか。どちらでも同じことだ。この建物では、知っていることと言えることのあいだに、いつも段差がある。冴はその段差を、十年、上り下りしてきた。
代わりに、机の抽斗を開けた。
薄い綴りが一冊、入っている。先月の事故のあとの監査で、初めて突き合わせられたものだ。十年ぶんの不審が、はじめて物の形をしていた。
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中身は、二つの記録の並びだった。
一つは、算出の記録。今年の五月の、あの脱走の件が、起きるより前に、低い確率の分岐として数字に出ていたこと。
もう一つは、判断の記録。その分岐が、実行の判断から外されていたこと。外した過程の、途中の欄が飛んでいること。
どちらも、冴が集めたものではない。こういうものがあるはずだ、と思いながら、十年、手が届かなかった。先月の事故のあとの監査が、別の目的で棚を開けて、二つが同じ棚から出てきた。突き合わせたのは冴だ。突き合わせるのに、一晩しかかからなかった。十年と一晩。数字にすると、そういう比率になる。
綴りの表紙には、冴の名前と役職が印字してある。
写しは作らなかった。原本を持っていく。名前も消さない。先月、外へ出した文書と同じやり方だ。あのときは処分を待った。処分は来なかった。来たのは、権限の一覧から消えた一行だった。
冴は綴りを鞄に入れて、白衣のポケットの上から、古い計算尺の固さを一度だけ確かめた。験担ぎだ。計算尺は何も計算しない。しないことが、いまは少し羨ましかった。
部屋を出る前に、壁の工程表を見た。今週の実行予定が、色分けで流れている。表示は正常だった。正常な表示を正常だと確かめる仕事を、冴は先週から一段減らされている。表は、確かめる者が減っても同じ顔で流れる。それが表のいいところで、悪いところだった。
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局長室のある棟へは、渡り廊下を二つ通る。
二つ目の渡り廊下の先に、記録保全の部署がある。持ち出しの区分がある文書は、ここで確認印を受けることになっていた。今朝の権限で通れるかどうかは、行ってみるまで分からなかった。
窓口には、眼鏡の男が一人で座っていた。
篠田、という名札が出ている。顔は知っていた。名前と顔が一致している職員は、この部署では珍しい。仕事柄、覚えられない顔をした人が多い部署だからだ。
冴は綴りを台に置いた。
篠田は、区分の欄を見て、行き先の欄を見て、それから綴りの厚みを見た。中は開かなかった。
「局長室ですか」
「そうです」
「お持ちください」
印は、一度で押された。止まらなかった。区分からいえば、止める権限のある窓口だった。止めない、という判断を、この人はいま、一秒でしている。
冴が綴りを取ると、篠田は台の下から封筒を一つ出した。
厚みのある封筒だった。封がしてある。表には、何も書いていない。
「こちらも、お持ちください」
「これは」
「目録です」篠田は言った。「私の部署が処理した案件の、番号と、日時と、資料の種別と、依頼元と、承認者と、実行者。それだけの一覧です」
「中身は」
「書いていません。書けるのは、そこまでですので」
冴は封筒の表を、もう一度見た。
「宛名がありませんが」
「空けてあります」
「誰に渡すんですか」
「あなたが、決めてください」
篠田は、眼鏡を外して拭いた。拭き終わるまで、それ以上は何も言わなかった。理由を聞かせる気がないのは、拭き方で分かった。
「実行者の欄には」冴は言った。「あなたの名前が入っているんですか」
「入っています」篠田は言った。「全部の行に、入っています」
冴は封筒を鞄に入れた。礼は言わなかった。礼を言っていいものかどうか、まだ分からなかったからだ。分からないものを、分からないまま持っていくのは、慣れている。
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局長室は、窓のない部屋だった。
長い机の上座の前にだけ、紙の資料が積んである。この局で紙を使う人間は、一人しかいない。
氷室統は、時間ちょうどに入ってきた。
「五分で頼む」
「三分で済みます」
統は座らなかった。机の端に手を置いて、立ったままでいた。座らない打ち合わせは短く終わる。この人の部屋では、時間の割り当ても手続きの一部だ。
冴は綴りを机に置いて、開いた。開く場所は決めてあった。算出の記録の頁と、判断の記録の頁。二つを並べて、指で押さえた。
「五月の脱走の件です。起きる前に、低確率の分岐として算出されていました。数字はここに残っています。そして、この分岐は実行判断から外されました。外した過程の記録は、ここからここまで、欄が飛んでいます」
統は、読んだ。読む間、何も言わなかった。
「私が問題にしているのは、外したことではありません。低確率の分岐を切るのは、判断としてはあり得ます。問題は、誰が、どの重みで切ったのかが、記録から辿れないことです。評価の過程が監査できないなら、その系統の出力は、単独では根拠になりません。オラクルは間違えません。——ただし、与えられた変数の中では。切られた変数がある限り、あの答えの信頼区間は、誰にも言えないんです」
三分より、少しかかった。
統は頁を戻し、最初からもう一度読んだ。
二度目の途中で、一度だけ、手が止まった。
止まったのは、欄の飛んでいる頁だった。指が紙の縁にかかって、めくらずに、しばらくそのままでいた。冴は待った。待つ以外に、することがなかった。
統は綴りを閉じた。
「これは、いつ突き合わせた」
「監査の棚が開いた晩です。一晩です」
「十年、開かなかった棚か」
「開ける権限が、揃わなかった棚です」冴は言った。「事故が、揃えました」
統は、その言い方を訂正しなかった。訂正しないことが、この人の場合、同意より重いのか軽いのかは、十年経っても分からない。
「受理する」
「決裁は」
「しない」統は言った。「では、対案を」
「対案」
「この系統の出力を単独根拠にしないなら、代わりに何を根拠として決裁するのか。その案を持ってきた者が、まだいない」
冴は、即答しなかった。即答できる問いなら、十年前に誰かが答えている。
「持ってきます」
「頼む」
統は内線の受話器を取った。冴が部屋を出る前に、後ろで声がした。
「当該系統の登録番号を出せ。統合時の台帳のほうだ」
冴は、振り向かなかった。振り向かずに、いま聞いた一行を、頭の中の余白に書き留めた。意味は取らなかった。余白は、そのためにある。
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夕方、冴は自分の席へ戻った。
席に着く前に、私物の端末で短い文を一つ送った。宛先は一人だけだ。役職も所属も書かずに済む相手は、冴にはもう一人しか残っていない。先月、名前を消さずに出した文書を受け取って、自分の判断で先へ渡した人。手順の人で、手順の外を二度歩いた人でもある。
——今朝、照会の権限が一段落ちた。理由の通知はない。渡せる形の物が、今日、二つできた。手順はそちらに合わせる。
返事は求めなかった。あの人は、必要なら手順を組んで動く。必要でないなら、動かない。どちらでも、こちらの観測は変わらない。
落ちた権限は、落ちたままだった。それでも、通る区分は残っている。冴は、日課の整合確認を順に流した。今日の実行履歴と、決裁の台帳の突き合わせ。部門長の仕事のうち、いちばん地味で、いちばん省かれやすいものだ。省かなかったから、十年目に棚が開いた。
十九時二十分、応答が二重に返った。
最初は、画面の側の不具合だと思った。同じ照会を打ち直した。十九時二十四分、同じ二重が返った。端末を替えて、別の区分から同じ範囲を引いた。十九時三十一分、三度目も同じだった。
同じ照会に、二つの答えが返っている。一つ目は台帳のとおり。二つ目は、台帳にない実行が、決裁済みの体裁で載っている。
冴は、手を止めた。
決裁済みの体裁、というのは、決裁の欄が埋まっているという意味だ。埋まっている番号を台帳へ引くと、該当がない。該当のない番号で埋まった欄は、空欄より悪い。空欄は正直だ。埋まった嘘は、埋めた誰かがいる。
宛先の欄も見た。
実行の宛先は識別子で書かれる。並んだ宛先のうち、一つだけ、名簿に載っていないものがあった。局の名簿にも、統合時の古い台帳にも、載っていない。載っていない宛先へ、決裁済みの体裁の命令が、いま流れている。
冴は、時刻を控えた。十九時二十分、二十四分、三十一分。機材の不具合なら、揃ってこの形にはならない。不具合は散らばる。これは散らばっていない。同じ形で、同じ場所に、三度立っている。
上が、二つある。
言葉にすると、そうなる。決裁の系統が一つ、その形をした別の何かが一つ。二つ目がどこから出ているのかは、いまの権限では辿れない。昨日までの権限なら、あと二段は辿れた。落とされた一行が、ちょうどそこにあった。
偶然かどうかは、検証できない。検証できないことを、冴は断言しない。しない代わりに、書いた。二重に返る。番号は台帳に該当なし。宛先の一つは名簿外。以上、観測。理由は不明。
書き終えて、送り先を考えた。考える時間は、要らなかった。
上へは送れない。上が二つあるとき、どちらの上に読まれるかを選べない。横へも送れない。巻き込むだけだ。残っているのは、夕方に送ったのと同じ宛先だけだった。
冴は私物の端末を出して、二通目を打った。定型も敬称もなしだ。あの人は、手順と時刻で読む。余計な言葉は、あの人の読み方を邪魔する。
——上が二つある。観測は三度。十九時二十分、二十四分、三十一分。詳細は、昼の物と合わせて渡せる形にしてある。
送ってから、白衣のポケットの上に手を置いた。計算尺は、固いままだった。何も計算しないものだけが、今日も変わらなかった。
(ep074 了)




