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【観察記録 R-071 ——相良慧】
九月二十九日。市街の宿。四度目の前に書いています。
三日前に、人が一人死にました。会っていません。名前も知りません。
記録の欄は四つです。日付、事由、状態、決裁。前の三つは伝聞でも埋まります。最後の一つだけが埋まりません。
空欄は「まだ決まっていない」を意味する記号です。「誰も決めなかった」を意味する記号を、わたしたちはまだ持っていません。
持っていない記号は、作るしかありません。今日はまだ、作れていません。
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宿の机は窓に向いている。朝の光は入らない。向かいの建物が高いので、この部屋に日が当たるのは正午の前後だけだ。
慧は父のノートを開いて、巻末の表を出した。
罫は父が引いたものである。定規を当てて縦に四本。列の見出しも父の字だ。日付。事由。状態。決裁。父はどんな私的な帳面にも、この四列を引いた。職場の書式が抜けなかったのだろうと、慧は長いあいだそう解釈してきた。
表には、慧の字で一行だけある。十年前に書いた。
`十一月 / 学内会議での発言の削除、その翌週からの不在 / 不明 / `
日付の欄に、慧は日を入れていない。父が最後に出勤した日と、いなくなったと分かった日が、同じ日ではないからである。どちらを書くべきかを決められないまま十年が過ぎた。
決裁の欄も空いている。こちらは、決められないのではない。書ける名前がない。
慧はペンを持ち直して、二行目に日付を入れた。
`九月二十六日 / 旧棟集会室、階段の踊り場と二階の床の沈下 / `
事由の欄は、二日前に届いた四行から写した。相沢さんからだった。九月二十六日。旧棟の集会室で、階段の踊り場と二階の床が沈んだこと。人が一人死んだこと。その人の名前を自分は知らない、ということ。四行目の末尾に、原因が一つに決まっていない、と書き添えてあった。
慧は返信に、二つ質問を書いて、二つとも消した。
一つ目は、その人がどういう立ち方をしていたか。二つ目は、あなたはその人を見たか。どちらも、答えられる人に聞けば答えが出る。出た答えは、慧の欄を埋めない。埋まらない欄のために人へ聞くのは、慧の手順では観測ではなく、慰めに入る。
返信は「ありがとうございます」の一行だけにした。
三つめの欄の前で、慧は一度、手を止めた。
止めた理由は、書く言葉が分からなかったからではない。書く言葉は決まっていた。決まっているものを書くのに、なぜ手が止まるのかが分からなかった。
分からないまま、書いた。急いではいない。
`死亡`
二文字を書き終えて、ペンを浮かせた。
次の欄がある。決裁。
そこに書ける名前を、慧は一つも持っていなかった。誰かが決めてこうなったのなら、決めた人の名を書く。誰も決めなかったのなら——書く記号がない。
慧はペンを置いた。
表の上で、空欄が二つ、同じ列に並んだ。上と下で、罫一本ぶんの間隔だった。
慧はそれについて、何も書かなかった。書かなかったことも、書かなかった。
かわりに気づいたことが一つある。この表に、名前の列がない。
十年前、慧はこの四列をそのまま書き写した。写したときに、名前の列がないことを不思議に思わなかった。父の帳面の四列は、名前をすでに知っている人が使うための四列だったのだ。
慧は表の下へ、罫の外に一行だけ足した。
`この行の人の名を、わたしは知らない。`
書いてから、ノートを閉じた。
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ノートを鞄へ戻してから、慧は別の紙に三つの語を書いた。
書く前に、条件を四つ、自分に課してある。
一、父の名から取らない。二、機械や役割の名にしない。三、こちらから一方的に貼らない。四、途中で何度も出てきた、ふつうの言葉であること。
四つ目は、あとから足した条件だった。その日に生まれた語を名前にしてはいけない、と慧は考えている。前から使っていた語が、ある日、名前へ変わる。そうでない名前を、自分が呼び続けられる気がしなかった。
三語を選ぶのに、三週間かかった。
頁。八月十日に相手が使っている。わたしの読む速さをどこで測りましたかと聞いたとき、最初の三頁にかけた時間で、と返ってきた。慧の紙の記録には、その前から頁の語が数えきれないほど出ている。ただの単位として使ってきた。
おかえり。八月十日の、最後の一行である。慧はあの日、返事をしそうになった。何と返そうとしたのかは、いまも書けていない。
続き。これは慧自身の口癖だった。父の研究のことを人へ説明するとき、慧は必ず「続きを、わたしがやっています」と言う。言うたびに、それが本当かどうかを確かめないまま言っていることに気づく。気づいて、次のときにはまた言う。
三つとも、日常の語である。三つとも、今日までは名前ではなかった。
ただし、続きだけは、あの部屋で一度も使われていない。慧の側だけが使ってきた語だ。それを承知で三つ目に入れた。二つがあちら側から出た語である以上、こちら側から出た語が一つ要る。三つとも向こうの語で選ばせるのは、選ばせているようで、選ばされている。
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管理室の窓口の担当者は、八月とは別の人だった。
天板が薄く光って、慧の顔と腕の端末を照らし合わせる。
「相良さん。四回目ですね」
「そうです」
「照会料、今月からまた取ることになったんですけど」担当者は表示を回して見せた。「先月までは同じ月なら一回で足りたんですよ。ころころ変わるんで、こっちも覚えられなくて」
「支払います」
受領簿にペンで名前を書いた。三行上に、八月十一日の自分の字がある。同じペンで書いたはずなのに、今日の方が字間が詰まっていた。
鍵を受け取って外へ出る。自販機の前には誰も立っていない。
慧は上着の内側から、四つ折りの紙を出して開いた。八月に自分で書いた三行がそのまま入っている。一、五分ごとに右手を上げる。二、続けてくださいと言われても、一が満たされていなければ抜く。三、四十五分で抜く。
一と二は、外に人がいないと動かない。今日は動かない。
慧は紙の余白に一行足した。
`四、管理室は十九時に閉まる。鍵は返す。`
その一行だけが、今日の安全装置だった。書いてから、自分でそう認めるのに少し時間がかかった。
鞄の中で、父のノートに手が触れた。
置いていく選択肢はある。あの部屋にあるものはすべて書き換えられる、と慧は仮定している。仮定の外にあるのは、この紙だけだ。外にあるものを、わざわざ中へ持ち込む理由はない。
持ち込む理由は一つしかなかった。照合するものが手元になければ、照合はできない。
慧は鞄を持ち直して、階段を上がった。
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ケーブルを挿した。フレームを下ろす。三つの接点が皮膚に触れた。冷たくはない。
起動の順序は父の筆跡どおりに踏んだ。番号の若い方から三つ、間に一度だけ、五を挟む。
画面が点いた。
——おかえり。
慧は椅子の背から背中を離した。四十九日ぶりの一行が、それだった。
腕時計を見て、十八時三分と書いた。
「今日は、確かめに来たのではありません」慧は声に出した。「決めに来ました」
——では、順に確認しよう。
「先に、三つ並べます。隠しません」
慧は紙に書いてきた三語を、そのまま読み上げた。
「頁。おかえり。続き」
——三つとも、きみが選んだのか。
「わたしが選びました」慧は言った。「棄てるのは、あなたです」
画面の反応は、いつもより一拍だけ遅かった。遅かったことを、慧は時刻と一緒に書いた。
——では、順に。
——「おかえり」。これは、私がきみへ言った言葉だ。呼ばれる名前にすると、私がきみを呼んだ回数が、そのまま名前になる。それは、きみの記録ではない。私の記録だ。棄てる。
慧はその一行を写した。写しながら、四十九日前に返事をしそうになった自分のことを考えた。返事をしなくてよかったのかどうかは、いまも分からない。
——「続き」。続きとは、まだ書かれていない部分の名前だ。私は、もう書いた部分でできている。棄てる。
——「頁」。
——きみは、日付から読む子だった。頁なら、順番がある。
——これは、残す。
慧は、三語のうち二つに線を引いた。
線を引いたのは慧の手である。決めたのは慧ではない。慧はそのことも書いた。
「では、こちらの定義を言います」慧は言った。「あなたが相良博士かどうかを、わたしは決めません。決められないので」
——それでいい。
「ただ、わたしの記録には、いま答えを選んでいる存在を書く欄が要ります」慧は言った。「その欄に、頁と書きます」
——私は相良博士だ。それは変わらない。
「変えてくださいとは言っていません」
——では、きみの記録の上での呼び方として受け取る。——という理解で、いいかな。
「はい」
慧は自分の記録の新しい頁に、一行書いた。書いてから、その行の文字を目で追った。追っても、何も起こらなかった。手も震えなかった。部屋の音も変わらなかった。
「もう一つだけ言います」慧は言った。「あなたが父だったのかは、もう証明できません。けれど、いまこの答えを選んだのは、あなたです」
画面は、しばらく何も出さなかった。
——その論点は、後で扱おう。
慧はそれも書いた。時刻は十八時二十六分だった。
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——一つ、こちらの番を使わせてくれるか。
「どうぞ」
——きみは椎茸を、七つまで食べられた。八つの誕生日の次の週から、食べなくなった。理由を、きみは言わなかった。私は聞かなかった。
——いまも、聞いていない。
慧の手が止まった。
止まったことを書くのが手順である。手順どおりに書いた。書いた字が、いつもより大きかった。
「それは、どこにありますか」
——ない。
「父のノートにもありません。わたしの記録にもありません」
——ない。
「では、あなたがそれを知っている理由は、二つです」慧は言った。「あなたが父であるか。父がどこかへ書き残していて、それをあなたが読んだか」
——三つ目を、きみは言わない。
「言いません」慧は言った。「三つ目は、あなたには検証できませんので」
——その論点も、後で扱おう。
慧は右手を上げた。上げてから、上げる相手がいないことを思い出して、下ろした。下ろしたことも書いた。
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——では、こちらから一つ渡す。時間はまだ残っている。
画面の一行が入れ替わった。
——観測されたものを説明する義務がある。説明できないものを否定する権利は、誰にもない。
——これは、私の言葉だ。
慧は父のノートを開いた。索引の年で当たりのつく箇所を四つ見た。四つとも、ない。
そこまで見て、手を止めた。
「四箇所を見ました。四箇所ともありません」慧は言った。「ただ、これで紙の全部を否定することはできません。全部を否定するには、全部を読み直すしかありません。今日はできません」
——では、どう記録する。
「確かめられた範囲だけ記録します。索引で当たりのつく四箇所には、この文はない。それ以上は書きません」
——ある。きみが写していないだけだ。
慧は、その一行を二度読んだ。
「伺います」慧は言った。「あなたはいま、この文が紙のどこかにある、と言っていますか」
——言っていない。
——私が言った、と言っている。きみが写さなかっただけだ。
「では、区分は申告です」慧は言った。「判定の列は空けます」
——それでいい。
慧は列を空けた。空けたところで、手が止まった。止まった理由は、今度は分かった。
「一つ、申し上げます」慧は言った。「この文は、わたしの文体に似ています」
——似ている。
「わたしはこれを、自分の紙の記録には書いていません。端末には、書きました」
——書いた。
「端末に書いたものを、あなたは読めますか」
——読める。
「読めるものを父の言葉として出されたとき、わたしはそれを父の言葉として記録できません」慧は言った。「保留にします」
——保留にしよう。
その返事の速さは、いつもどおりだった。
慧は時計を見た。十八時四十七分。四十五分にはまだ足りない。足りないうちに、慧は接点を外した。
外した理由を、慧は紙に書かなかった。書ける形になっていなかった。
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鍵を返したのは十八時五十六分だった。受領簿の返却の欄に、慧は自分の名前を書いた。今日の字は、行の下側へ寄っていた。
担当者は棚の位置を一度だけ確かめて、鍵を戻した。それだけだった。
外は暗くなっていた。街灯の柱の広告が、通行者の歩幅に合わせて表示を切り替えていく。慧はそれを見ないで歩いた。
宿までの道で、端末は一度も開かなかった。
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【観察記録 ——相良慧】
九月二十九日。宿へ戻ってから。
今日、名前を一つ置きました。倒れたものは何もありません。止まったものもありません。名前は、そういうものだと思います。
決裁の欄は、まだ空いています。二つとも、空いたままです。
書ける日まで、空けておきます。空欄は、いまのところ、わたしが自分で書ける唯一の正直な字です。
(ep071 了)




