誤差
九月二十七日、月曜。
昨日、人が死んだ。
湊は名前を知らない。制服の女の人だ。階段の下に立って、崩れる方をずっと見ていた。最後まで見ていた。その人が倒れたところは、湊は見ていない。もう外に出ていた。
朝、目が覚めてから、しばらく天井を見ていた。何か思うことがあるはずだと思って、待っていた。来なかった。
代わりに来たのは、自分には悲しむ権利がないのではないか、という考えだった。あの人と一言も話していない。名前も知らない。助けられた側だ。助けられた側が悲しむのは、順番が違う気がした。
それを透に言った。うまく言えなかった。「なんか、俺が悲しいのって、違う気がして」としか言えなかった。
透は端末から目を上げなかった。
「それは、あんたが決めることじゃない」
「え」
「以上」
透はそれ以上言わなかった。湊も、それ以上聞かなかった。
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十時前に、来客があった。
商店街の空き店舗の前だった。片づけの済んだ場所で、まだ窓は枠のままだ。会長がビニールを張り直しているところへ、白い車両が一台停まった。
降りてきたのは一人だった。
ゴーグルをしている。十八日前に商店街で見た人だ。九月九日に、湊の腕を止めた人。
その人は、湊の前まで来て止まった。
湊は何も言わなかった。言い方が分からなかった。
「昨日の件で、確認に来ました」その人は言った。「備考欄が、閉じられないので」
「……はい」
「確認したいことが二つあります。一つは、昨日あなたが二階の後方へ戻った時刻です。もう一つは、そのとき何人残っていたかです」
湊は答えた。時刻は分からなかった。人数は、たぶん十二人か十三人だったと言った。
その人は端末に打ち込んだ。打ち込んでから、顔を上げた。
「終わりました」
「あの」
「はい」
「昨日の人は」
言いかけて、言葉が続かなかった。何を聞きたいのかが、自分でも分からなかった。
その人はしばらく黙っていた。ゴーグルの縁に指がかかって、それから離れた。
「わたしの上官です」
「……はい」
「以上です」
そう言って、その人は車両の方へ戻りかけた。三歩ほど行って、止まった。
戻ってきて、上着の内側から封筒を出した。
「これは、確認とは別です」
「なんですか」
「読んでください」その人は言った。「これは、わたしの判断です」
湊は封筒を受け取った。中に紙が入っている感触があった。
「命令ですか」
「いいえ」
「じゃあ」
「わたしの判断です」その人は繰り返した。「同じことを二度言うのは、二度言う必要があるからです」
車両は十時十四分に出ていった。
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封筒の中身は、写しだった。
一枚目の右上に、名前が印字されていた。桐生冴。役職も一緒に入っていた。
「本人の名前が出てる」透が言った。「消してない」
「消すもんなのか」
「普通は消す。消さないってことは、消さない側が責任を取るってことだ」
中身は三つに分かれていた。
一つ目は、昨日のことだった。
事故のあとで内部の記録を洗い直したところ、九月二十六日にあの場所で人が集まりすぎるという計算結果が、計算の履歴の中に残っていた、と書いてあった。
湊は二度読んだ。
「これ、分かってたってことか」
「分かってた奴がいたかどうかは、書いてない」透が指で行を追った。「その先を読め」
その先には、こうあった。計算結果がどの段階まで届いたか、なぜ現場の運用へ出なかったのか、それを示す記録が残っていない、と。
透が読み上げた。
「『数字は丸められていない。ただし、届いた先の記録がない』」
「どっちなんだよ」
「どっちでもないんだろ」透は言った。「誰かが握りつぶしたなら、握りつぶした記録が残る。それがない。ないってことは、誰も判断してない」
「誰も判断してなくても、死んでるだろ」
「うん」
透はそこで止めた。宙が何か言いかけて、やめた。
二つ目は、これからのことだった。
十月三日までに、駅前の集まりが規模を増して、そこで死者が出る。その死者に能力者が関わる。そう計算されている、と書いてあった。確率の数字が横に入っていて、その下に線が一本引いてある。線の下に「閾値」と書いてある。数字は線の上にあった。
そして、それを根拠にした措置が、十月三日付で決裁済みだ、とあった。措置の中身までは書いていない。何人を、どこへ、という数字だけが並んでいた。
三つ目は、一覧だった。
地区の名前が縦に並んでいて、その横に数字が二列。何の数字かは、表題の一行に書いてあった。読んでも意味が分からなかった。
その一行の中に、湊の知らない言葉が一つあった。
——予測体オラクル。
湊はそれを声に出さなかった。透も出さなかった。宙が口を開けて、閉じた。雪は紙を見ていなかった。
紙の上にある言葉を、誰も口にしないまま、その日は終わった。
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零が来たのは、翌日の夕方だった。
呼んでいない。駅前にいた。九月十九日と同じ場所で、同じように、二歩だけ外れた場所に立っていた。
「言ったでしょう」零は言った。「別の人が同じことを始めたら、また場所を言います」
「始まってるのか」
「木曜と土曜に一度ずつ。前より人が多い」
湊は、封筒を出した。
零は受け取って、その場で三枚とも読んだ。読む速さが異常に速かった。二枚目のところで一度止まって、線の下の言葉を指で押さえた。
「これは、僕には評価できません」
「え」
「この数字が正しいかどうかを、僕は確かめられない」零は言った。「確かめられないものを、僕は保証しません」
「じゃあ、使えないのか」
「いいえ。使います」
「保証しないのに使うのかよ」
「はい」零は言った。「正しいかどうかを引き受けるのは、書いた人です。僕は、書いてあるものをそのまま前提にします。前提が間違っていたら、僕の順番も間違います」
零は三枚目を開いた。地区の名前が並んだ方だ。
「使うのは、こっちです。どの地区が動きやすいかが書いてある。書いたのは僕ではない。だから、これは僕の判断ではありません」
「……で」
「僕にできるのは、順番だけです」
零は、鞄から折りたたんだ紙を出した。地区の掲示だった。集まりの日時と場所が印刷されている。誰でも見られるものだ。
「この日程と、君たちの紙が回る経路を、突き合わせます」
「紙が回る経路」
「相談所の配布網です。印刷所から、置き場所へ、掲示板へ。どこに何日で着くかは、決まっています」零は言った。「決まっているものは、並べ替えられる」
零は紙の上で、地区の名前に順番を振っていった。一から順に、十まで。振り終わるのに一分もかからなかった。
「この順で回れば、十月三日に間に合います」
「全員を回るのか」
「いいえ」零は言った。「全員を止める必要はありません。そこに書いてあるのは、そういうことです」
湊は三枚目をもう一度見た。数字の意味は、やはり分からなかった。
「あんた、分かってんのか」
「分かっていません」零は言った。「僕が分かるのは、この一覧が正しければ、この順で回れば間に合う、ということだけです」
零は紙を返した。
「あとは、君たちの仕事です。僕は、順番しか出せない」
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九月二十九日から、十月二日まで。
湊は歩いた。零が振った番号の順に、地区を回った。
やり方はひとつしかなかった。一人に会って、話す。触らない。写さない。相手が前に言ったことを、覚えていたら言う。覚えていなかったら、聞く。
聞くのは湊がやった。返すのは、湊にはできない場合が多かった。
最後に一つだけ、決まった問いを置いた。十月三日に、あそこへ行く予定がありますか。答えは、言われたとおりに書き取る。行く、行かない、答えない。それだけを分けた。
そこを埋めたのが望だった。
望は先に、しないことを言う人だ。「僕は、自分から視ようとしません」「視てほしくないと言われたら、そこで終わりです」——それを毎回、最初に言った。同意した人にだけ、聞いた。聞いたことを、相手の言葉のまま書き取った。
三地区目で、一人だけ、扉から先へ進まない相手がいた。
四十代くらいの女の人だった。玄関は開けてくれた。奥へは入れなかった。
「あの紙の人?」
「そうです」
「じゃあ、いい」
閉めかけた扉に、湊は手を出さなかった。出さないことは、決めてあった。
「一つだけ聞いていいですか」
「なに」
「八月の終わりに、あそこへ最初に行った日、なんて言って家を出たんですか」
女の人が止まった。
「……なんでそんなこと聞くの」
「その日のことは、まだ誰も紙にしてないので」
女の人は、扉の縁を持ったまま黙っていた。それから、思い出す顔ではなく、思い出したくない顔をした。
「息子が寝たあとに出た」と、その人は言った。「起きてたら、行かなかったと思う」
湊はそれを覚えた。書かなかった。書いたのは望だった。
望は玄関の外にいて、中へ入らなかった。
「いま伺った言葉を、そのまま書き取ってもいいですか」望が言った。「書いたものは、お渡ししてから決めてください。載せない選び方ができます」
「載せるって、どこに」
「紙です。名前は入りません」
女の人は、少し考えて、うなずいた。
望は書いた。書いてから、その紙を渡して、待った。女の人は読んで、一行だけ線を引いた。
「ここは、いらない」
「はい」
望は線の行を消した。消したものは写さない。それも、先に決めてあった。
望が紙をしまってから、湊は最後の問いを言った。
「十月三日に、あそこへ行く予定はありますか」
女の人は、湊を見た。それから、扉を閉めた。
望は書き取った。答えなかった、と書いた。
「あの人、行くと思う?」
「分かりません」望は言った。「僕が視たわけではないので」
「聞いただけだもんな」
「聞いただけです」
書き取った紙は、京香が刷った。
版元の一行が入っている。初出の日付と、無断改変の禁止。京香はそれを毎回、刷る前に確かめた。
刷った束は、配布網に乗った。相談所の受付は、中身を読まなかった。読まないのがあそこの規則だからだ。読まない規則は、一週間前は向こう側の紙も運んでいた。今週はこっちの紙も運んでいる。
透は時刻を打った。何時に、どこで、誰が何と言ったか。解釈は入れない。
雪は名簿を折った。八月の終わりに一度やったのと同じ折り方だった。誰も、それが何の折り方かを説明しなかった。
栞は、素心会の小冊子の版に、絵ではなく言葉を入れた。人が自分で言ったことを、そのまま並べた。挿絵の欄は空けたままにした。
十月二日の夜、湊は数を数えた。
零が振った十の地区のうち、回れたのが七。回れなかったのが三。
七の中で、会って話せた人が、四十一人。
最後の問いに「行かない」と答えた人が、二十六人。「行く」と答えた人が、九人。答えなかった人が、六人。
回れなかった三つの地区の人数は、数えられなかった。数えられないので、数えなかった分として、別に書いた。
湊は、その数字を透に見せた。
「これ、足りてんのかな」
「その二十六人、行かないって言っただけだぞ」透は言った。「言ったことと、行くことは別だ」
「じゃあ、数える意味ないのか」
「ある」透は言った。「数えられるのが、そっちしかない」
「足りてんのかな」
「知らねえ」透は言った。「足りてるかどうかは、明日分かる」
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零は、十月二日の夜にもう一度だけ来た。
湊が数字を見せると、零は目で追って、それだけだった。
「僕には、これが足りているかどうかは言えません」
「あんたのも足りないもんな」
「そうです」
零は少し立っていた。それから、帰るふうでもなく、そこにいた。
湊は、なぜか、いま聞かないともう聞かない気がした。
「傘、覚えてるか」
零がこちらを見た。
「傘」
「誰かに傘を傾けてて、自分の肩が濡れてるやつ」
零はしばらく黙っていた。まばたきの間隔が変わらなかった。
「いいえ」
「そうか」
「それは、僕の記憶ですか」
「わかんない」湊は言った。「預かってるだけだから」
零は「そうですか」とだけ言った。聞き返さなかった。返せとも言わなかった。
湊は、返し方を知らない。知らないので、まだ持っている。
零は帰った。
湊は、回れなかった三つの地区の名前を、もう一度見た。名前を見ても、そこにいる人の顔は分からない。分からないまま、その三つを数えないわけにもいかなかった。
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【観察記録 R-070 ——相良慧】
九月二十七日から十月二日。市街の宿。
伝聞です。会っていません。
九月十九日の記録で、わたしは「人数を数えれば足りる」と書きました。訂正します。足りません。数えられるものと、数えたいものが、まだ一致していません。
止められたかもしれない数を、誰かが数えています。数えた人は、その数が足りているかどうかを知りません。知らないまま、数えている。
わたしはそれを、正しい手つきだと思います。
(ep070 了)




