支点
九月二十六日、日曜。点呼は八時五十分。日曜の時刻だ。
真昼は八時四十一分に班室へ入った。律は先にいた。
「おはようございます」
「おはようございます」
律は装備の棚の前にいて、絶縁手袋を二組、両方とも取り出していた。二組目は自費のものだ。ひと月前は一組しか出さない日があった。今日は二組ある。
律は右手の指先を、左の親指で二度こすった。それから手袋をはめた。
真昼は自分の机で時刻を見た。八時四十二分。
澄は八時四十七分に入ってきた。部屋に入って、人と物の位置を数えて、扉と非常口を順に見た。いつもの順番だった。
「本日は、旧棟の集会室です」澄は言った。「先方の予定人数は百十名。定員は百二十名です」
「十名の余裕です」律が言った。
「そうです」
「復唱します。旧棟集会室。予定百十、定員百二十。以上です」
澄は頷いた。
「照射」
「はい」
「本日、走査の割り当てはありません」
「……はい」
「範囲の指定が出るまでは、照らさないでください」
「はい」
澄はそれ以上言わなかった。真昼も聞かなかった。
八時五十分の点呼で、澄が読み上げた配置は四項目だった。入口、階段、二階の後方、通路。人の並びではなく、下りる順番で書かれていた。
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十時二十分に現場へ入った。
旧棟は古かった。入口の脇に掲示が三枚あって、三階以上の使用停止、二階集会室の定員百二十名、階段での滞留のご遠慮、と書いてある。その下に耐震診断の結果に基づく措置、とあった。
澄は三枚とも読んだ。読んでから、階段の下まで行って、上を見た。
「三階へ上がる扉は」
「施錠済みです」先方の職員が言った。「二年前から開けていません」
「開かないのと、施錠されているのは違います」澄は言った。「鍵の位置を教えてください」
職員が案内した。澄は自分の目で見て、戻ってきた。
「照射」
「はい」
「三階は使えません。上へは逃げられない、ということです」
真昼は備考欄にそれを書いた。十時三十一分。三階への退路なし。
十二時五十分、人が入り始めた。
当事者と家族向けの説明会だった。年配の人が多かった。一人で来ている人もいたし、家族らしい二人組もいた。前の方に座った女性が、椅子の位置を何度も直していた。
前から三列目に、四人が並んで座った。
真昼はその一人を知っていた。九月九日に商店街で見た顔だ。記録には相沢湊と打ち込んである。原因不明、とも打ち込んである。
四人とも顔を隠していなかった。帽子も眼鏡もなかった。真昼は、それが今日の意味なのだろうと思った。思っただけで、備考欄には書かなかった。書く欄がない。
十三時ちょうどに始まった。
十三時六分に、後ろの扉が開いた。
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入ってきたのは、予定に入っていない人たちだった。
最初は五人だった。それから十人になった。声を揃えてはいなかった。一週間前に駅前であったことの続きだと、真昼は聞いていたが、今日は文句を言う人と、黙って立つ人と、携帯端末を掲げている人が混ざっていた。
十三時九分、立ち見が出た。
十三時十二分、澄が入口の職員へ言った。
「これ以上は入れないでください」
「もう外まで並んでいて」
「並んでいる人を止めるのではありません。扉を閉めてください。閉めたあと、外の人に理由を説明してください。理由を言わずに閉めると、押されます」
職員が走った。
十三時十四分。真昼は数えた。座っている人が百十四。立っている人が三十以上。数え切れなかった。
階段にも人がいた。上がってくる人と、様子を見ようとして踊り場で止まっている人がいて、そこで詰まっていた。三階へは行けない。行けないので、踊り場に溜まる。
「照射」
「はい」
「階段の踊り場の人数を、口で数えてください」
「走査は」
「使わないでください。数えるだけです」
真昼は数えた。踊り場に十七人。階段の途中に九人。
「二十六です」
「ありがとうございます」
澄は、それから通路の方へ歩いた。歩き方は速くなかった。速くすると、周りが速くなるからだ。
律が「隊長」と呼んだ。
「上の連絡、入りますか」
「入りません」澄は言った。「本部の判断を待つと、判断が来る前に終わります」
「復唱します。上の連絡は待たない。以上です」
「復唱は要りません」
律が一瞬止まった。
「……はい」
真昼は、その一瞬を見ていた。澄が復唱を要らないと言ったのは、真昼の知る限り初めてだった。
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音は、思ったより低かった。
十三時三十一分。
床が鳴ったのではない。階段の踊り場の、手すりを支えている壁の側で、何かが一度、ずれた音がした。人が悲鳴を上げたのは、その音の二秒後だった。
踊り場が下がった。
十センチも下がっていない。だが手すりが傾いて、上にいた人が二人、前のめりになった。
そこから先は速かった。
二階の床が、後方の隅から鳴り始めた。立っている人が多い方だった。真昼は床が揺れるのを足の裏で感じて、それが揺れではなく沈みだと分かるまでに、一拍かかった。
澄は、もう動いていた。
階段の下の、踊り場が見える位置に立っていた。視認できないものは精密に操作できない。だから澄は、支えるものが見える場所に立つ。
澄が右手を上げなかった。左手も上げなかった。ただ立って、踊り場を見た。
踊り場が、止まった。
傾いたまま止まった。傾きが戻ることはなかった。戻すのではなく、止めるだけだ。
「動かないでください」
澄は言った。
真昼は、その声の向きを見た。
澄は人の方を見ていなかった。踊り場の、下がった側の角を見ていた。言葉は、そこへ向かって出ていた。
「下りてください」と澄は誰にも言わなかった。かわりに、通路の方を指した。指した先に律がいて、律が「こちらです」と大きな声を出した。人が動き始めた。
真昼は数え始めた。
一人。二人。五人。十人。
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十三時三十四分。
二階の後方の床が、二度目に鳴った。
澄は踊り場を見たまま、顔を上げなかった。かわりに、左足の位置を五センチずらした。それだけで、二階の梁の一本が、視野に入る角度になった。
二つになった。
二つ持つと、一つのときより短くなる。訓練場でそう教わった。短くなる理由は、力が足りないからではない。見ている場所が二つになるからだ。
澄の呼吸が、少し深くなった。それだけだった。
前から三列目の四人は、入口へ行かなかった。
背の高い方が、後方の——床が鳴っている方の——列へ戻っていった。座ったまま動けない年配の人が二人いる。髪の長い方が続いた。眼鏡の方は階段の下で人の流れを分けていて、いちばん小さい子は、倒れた椅子の間から人を引き出していた。
真昼は澄を見た。
澄は、そちらを一度見た。
一度見て、何も言わなかった。
「動かないでください」も、「下がってください」も、言わなかった。
真昼は、それを見ていた。見ていて、備考欄に書く言葉が思いつかなかった。
数えるのは続けた。
二十八人。四十人。六十三人。
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律が、階段の下で止まっていた。
「隊長」
返事はなかった。
「隊長。踊り場、あと何分もちますか」
返事はなかった。
澄は答えなかったのではない。答える口を、いま別のことに使っていなかっただけだ。真昼にはそう見えた。そう見えたことも、確かではない。
律が右手の指先を擦り合わせた。二度。それから三度。
真昼は二歩寄って、律の腕の横に立った。
律がこちらを見た。
「……なんですか」
「いえ」
真昼は、律が何かをしようとしていると思った。思ってから、何をしようとしていると思ったのかを、自分でうまく言えなかった。
律は自分の手を見た。
「感覚、あるうちに確かめてるだけです」律は言った。「撃てる場所がないので」
壁は導体ではない。床には人が乗っている。撃てる場所がないことは、真昼にも分かっていた。分かっていたのに、二歩寄った。
律は手を下ろして、通路の方へ走った。走りながら、大きな声で「こちらです」と言い続けた。それが、いま律にできることだった。
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十三時三十八分。
八十九人。
九十四人。
真昼は入口の外へ出て、外に立っている人の数と突き合わせた。合わない。二階に、まだいる。
戻ると、二階の床の後方が、いちばん低くなっていた。角度がついている。転がり落ちる角度ではないが、立てる角度でもない。
背の高い方が、年配の男性を背負って階段を下りてくるところだった。髪の長い方が、その後ろで足元を照らしていた。端末の光だった。
澄は、まだ立っていた。
姿勢は変わっていない。首も動いていない。ただ、左の耳の下に、細い赤が一本出ていた。皮膚の下で切れたものが、外へ出てくるまでの時間があるのだと、真昼は初めて知った。
十三時三十九分。
最後の一人が下りた。
年配の女性で、履物を片方なくしていた。律が抱えて、外まで運んだ。
真昼は数字を確かめた。
百十四。三十一。二十六。合わせて、下りた。
数えた分は、全部下りた。
澄が、踊り場から目を離した。
踊り場が落ちた。落ちてから、二階の梁が続いた。音は大きかった。誰も下にいなかったので、音だけだった。
澄は、そこで初めて動いた。
一歩、下がろうとした。
下がれなかった。
膝が折れたのではない。折れるより先に、上半身が支えを失った。真昼が見たのは、姿勢が崩れる順番だった。頭が先だった。首が支えられていなかった。
真昼は走った。
澄は仰向けになった。目は開いていた。呼吸はあった。
「隊長」
呼んでから、真昼は、それ以外の呼び方を自分が持っていないことに気づいた。役職の名前は、返事をする人がいるあいだだけ、名前の代わりになる。
「……」
澄の口が動いた。
真昼は顔を近づけた。
音は出なかった。
もう一度動いた。二度目も出なかった。
三度目はなかった。
十三時四十一分。
真昼は、ゴーグルの縁に指をかけた。
かけて、外さなかった。外して見たところで、光は見えるかもしれないが、光が見えることと生きていることは同じではない。それを教えたのは澄だ。教わったとおりに、外さなかった。
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律が戻ってきたのは、四分後だった。
律は澄の側で膝をついて、それから、立ち上がった。
「復唱します」
真昼は顔を上げた。
「本日、旧棟集会室。予定百十、定員百二十。三階への退路なし。……以上です」
律は、誰の方も見ていなかった。
朝の割り当てを、そのまま言っていた。復唱する相手はいなかった。
言い終わってから、律は真昼を見た。
「……すみません。癖です」
「いえ」
「返事が要るやつじゃないので」
「はい」
律はもう一度、指先を擦り合わせた。今度は、何かを確かめる動きだった。確かめられたのかどうかは、外からは分からなかった。
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夕方まで、記録を書いた。
医務の到着時刻。搬出の順序。負傷者の内訳。打撲が十一名、骨折が三名、切創が二名。死亡が一名。
原因の欄がある。真昼は、そこで手を止めた。
書ける言葉がいくつかあった。群衆の集中。老朽化。定員超過。掲示の未更新。想定外の来場。どれも本当だった。どれも、それだけでは足りなかった。
先方の職員に聞いた。掲示は二年前のものですね、と。職員は「そうです」と答えて、それから「更新していないだけで、内容は変わっていません」と言った。真昼はそれを書いた。
あの四人は、外にいた。誰も何も言わなかった。背の高い方が一度こちらを見て、何か言おうとして、やめた。
うちの側の誰かが、あの四人に礼を言うことはなかった。あの四人が、うちの側に何かを言うこともなかった。
十八時十二分、真昼は備考欄を開いた。
そこに書ける事実を、一つずつ入れた。
`十三時三十一分、踊り場が沈下。同三十九分、最終の一名が下りた。`
`下りた人数、百七十一。`
`階段を下りていない人が、一名。`
指を止めて、消して、書き直した。
`階段を下りなかった人が、一名。`
それも消した。
最後に、こう書いた。
`下りた人数、百七十一。この数の中に、楯岡澄は入っていない。`
それ以上は書かなかった。書ける欄がなかった。
(ep069 了)




