初出
【観察記録 R-068 ——相良慧】
九月二十三日。市街の宿。
今日、汐見さんを、相沢さんたちのところへ取り次ぎました。わたしがしたのはそれだけで、席には入っていません。中で何が決まったかは、あとで聞きます。聞いてから書きます。
出したものは、出す前へは戻せません。だから今日の夕方には、もう別の日になっています。
別件。父の写しの三つ目は、まだです。棚のほかに置き場所の候補が二つあって、どちらも遠い。行くとしたら、今週ではありません。
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九月二十三日、木曜。
商店街のいちばん端に、片づけの済んだ空き店舗がある。壊れた窓は枠だけで、内側からビニールが張ってあった。日が当たると、そこだけ乳白色に光る。
会長が鍵を開けて、「使えや」とだけ言って帰った。
椅子は五つしかなかった。京香は自分が立つつもりでいたが、いちばん背の低い女の子が黙って壁際の脚立を引いてきて、それに座った。
「事実確認をさせてください」と京香は言った。「相良さんから、四人だと聞いていました」
「五人です」髪の長い少年が言った。「一人、こっちで呼びました」
呼ばれた側の女の子——脚立の子だ——が、小さく頭を下げた。膝の上に、平たい紙の鞄を抱えている。
京香は録音機を二台出した。片方を卓の上に置いて、もう片方は鞄に入れたままにした。
「置いた方は、見せる用です。もう一台あります。両方回します」
「なんで言うんですか」と、いちばん背の高い少年が聞いた。
「言わないと、あとで揉めるので」
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京香は紙を五枚配った。同じものだ。
一枚目に、出すものが書いてある。
移植の実験が実在すること。
それを運用している組織があること。
能力が実在すること。
二枚目に、出さないものが書いてある。
個人の氏名。
顔の分かる画像。
裏の取れていないこと。
「三枚目からは、根拠です」京香は言った。「七月からの分を全部並べました。読んでください。私が説明すると、私の順番になるので」
五人は読んだ。読む速さがばらばらだった。
髪の長い少年——透、と名乗った——は二枚目を二度読んで、そのあと三枚目以降を飛ばした。
「あんた、なんでこれを聞きに来たんだ」
「聞かないと書けないからです」
「今までは」
「今までは、聞かなくても書けました。物と記録の話だったので」京香は言った。「今日のは、人の話です」
透は少し黙った。
「じゃあ、条件を出す」
「どうぞ」
「一。おれたちの名前は出さない。二。顔が分かるものも出さない」
「その二つは、こちらから書きました」
「三」透は言った。「向こうがやる説明会には、出る」
京香は書く手を止めた。
「……説明会」
「向こうって言い方が悪かった。移植の相談の窓口が、今度の日曜にやるって。当事者と家族向けって書いてあった。呼ばれてる」
「出るんですか」
「出す側が名前を隠すなら、こっちは顔を出す。片方だけずるいのは、あとで効く」透は言った。「おれが決めたんじゃない。四人で決めた」
京香は、その三行を書いた。書いてから、一度だけ線を引いて、引いた線を消して、また書き直した。
——これは、私が数える側の話ではない。
これまで京香が数えてきたのは、書いたときに誰が血を流すか、だった。数えれば決まった。今日は、数える相手が正面に座っていて、こちらが数えていることを見ている。
「相沢さん」
「はい」
「あなたは、どうですか」
背の高い方——相沢湊、と名乗った少年——は、少し考えて、言った。
「いいと思います」
言ってから、困った顔をした。
「……いや、なんか、いいって言ったんですけど、何がいいのか、うまく」
「言えないんですね」
「はい」
「言えないままで、いいですか」
「え」
「言えないままで同意した、と書きます。言えないままだったことも書きます」
相沢は、それを聞いて、少しだけ楽になったような顔をした。京香はその顔を書かなかった。書く欄が違う。
眼鏡の少年が手を挙げた。
「これ、正体バレの回ですよね」
「なんですか」
「いや、こっちの話です。正体バレの回って、だいたい思ってたのと違う方向に転ぶんですよ」
「……根拠は」
「経験です」
「どこでの」
眼鏡の少年は答えなかった。隣の少年が「読んだ話だ」と短く言った。
いちばん小さい女の子——白石雪、と名乗った——は、最後まで何も言わなかった。京香が「あなたは」と聞くと、目だけをこちらへ向けて、
「……別に、いい」
とだけ言った。それ以上は聞かなかった。聞き方が思いつかなかった。
脚立の子は、もう頷いていた。
紙を配り終えたところで一度、頷いている。五人の中でいちばん早かった。京香がそれに気づいたのは、ほかの四人に一通り聞いたあとだった。
「事実確認をさせてください」京香は言った。「あなたは、この中でいちばん失うものが多いのでは」
脚立の子は、鞄を膝の上で押さえた。押さえる必要のない鞄だった。
「……はい」
「それでも」
「はい」
理由は言わなかった。京香は待って、待つのをやめた。書けないものを待っても、欄は埋まらない。
手帳には、一行だけ書いた。
——同意。理由の申告なし。
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収録の前に、京香は駅の向こうまで足を延ばした。
日曜に説明会をやるという建物を、見ておきたかった。記事に書くためではない。書く場所と、人が集まる場所が別なら、両方見ておく。それだけの習慣だ。
古いビルだった。入口の脇に、掲示が三枚並んでいる。上から順に、三階以上の使用停止、二階集会室の定員、階段での滞留の遠慮。その下に、耐震診断の結果に基づく措置、と一行。
日付を見た。二年前だった。
京香は端末で地区の公開掲示を引いた。同じ文面が、同じ日付で出ている。紙も電子も、二年前から動いていない。
手帳に書いた。
——掲示。二年前。更新なし。
書いただけで、線は引かなかった。二年間ずっとこの状態だったのか、更新の必要がなかっただけなのか、どちらかを確かめる先が、今日は思いつかない。
分からないものは、記事に入れない。
入口の内側で、若い職員が椅子を数えていた。日曜のぶんだろう。京香は、その数を数えなかった。
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収録は、その日の午後だった。
場所は相談所の奥の畳の部屋を借りた。卓袱台の上に、紙と、京香の録音機と、湯呑みが三つ。窓は磨りガラスで、開けると隣の壁が見える。
鷹里誠司は、時間より早く来た。
「汐見」
「鷹里。今日は、そちらでお願いします」
京香は録音機の方を指した。誠司は笑って、上着を椅子の背に掛けて、ネクタイに手をやって、途中でやめた。
もう一人、来ていた。
白衣ではなかったが、京香には白衣を脱いできた人に見えた。五十前後の女性で、髪に銀と白が大きく混じっていて、ひっつめが頭の高いところで無造作に留めてある。
「事実確認をさせてください。どちら様ですか」
「桐生と言います」女性は言った。「所属は言えますが、記録には残さないでください。今日は、私の一存で来ています」
「どういうご用件で」
「見に来ました。私は、賛成でも反対でもありません。数え直すために来ました」
京香は、その言い方を書き留めた。言い直した箇所がなかった。言い直しのない答えは、たいてい、前から用意されている。
誠司が口を開いた。
「桐生さん。持ってきてくれましたか」
「規定の携行品です。持ってこない方が問題になります」
女性は、鞄から手のひらほどの黒い機器を出して、卓の端に置いた。京香には用途が分からなかった。分からないことは、分からないと書く。
「汐見」誠司が言った。「先に説明する。この人が持ってきたのは、俺の力を止める道具だ」
「……止まるんですか」
「至近距離なら止まるらしい。試したことはない」誠司は言った。「今から試す」
「なぜ」
「俺が今日話すことを、おまえに信じさせたくないからだ」
京香は、ペンを置いた。
「私が今から言うことは、全部、俺の力が効かない状態で言う。効かない状態で言って、それでも信じるかどうかは、聞いた人が決める」誠司は続けた。「効いた状態で言ったら、俺には確かめようがない。確かめようがないものを、証言とは呼ばない」
「……それは、あなたの言葉ですか」
「三年考えた」
女性が機器を持ち上げて、誠司の斜め後ろに立った。
「至近で作動させます。射程はこの距離だけです。効果の範囲外の方には何も起きません」女性は言った。「私が保証できるのは、そこまでです」
「それだけか」
「それだけです。作動中にあなたに何が起きるかは、私には分かりません」女性は言った。「あなたの平常を、私は知らないので」
誠司は何か言おうとして、やめた。
女性が指を動かした。音はしなかった。
誠司は、一度、喉に手をやった。
そして、話した。
京香は、その二十七分を全部録った。書き起こしは翌朝までかかった。中身のほとんどはここには書かない。書いたものが記事であり、記事は明日出る。
一つだけ、記事の頭に置くと決めた箇所がある。
「十九のときだ」誠司はそう言った。「就職の面接で、落ちるはずの受け答えをして、受かった。相手の顔が途中で変わったのが分かった。……そのときは、うまくいったと思った」
「誰かに言いましたか」
「言っていない」
「十五年、誰にも」
「十五年、誰にも」誠司は言った。「言えば、言ったこと自体を信じさせてしまう。それが怖くて言わなかった、と言えば格好がつくが、たぶん違う。手放したくなかっただけだ」
京香は、そこで一度、録音機の位置を直した。手が空くと余計なことを書きそうだったからだ。
そのほかに、京香が手帳の欄外に書いたことがある。
——語尾が、濁った。
誠司の話し方は、京香の知っているものではなかった。流暢ではなかった。言い淀んで、言い直して、二度、途中で止まった。京香はそれを何度も聞いた人間だった。ただし、聞いていたのは公の場ではない。
終わったあと、女性が機器を下ろした。
「立ち会いの欄に、署名をいただけますか」京香は言った。「装置を至近で作動させた、という事実だけです。中身については何も保証していただかなくて結構です」
女性は少し考えて、署名した。
「氏名は伏せます」
「出してもかまいません」
「出しません」京香は言った。「あなたが今日ここに来た理由の裏が、私にはまだ取れていないので」
女性は、初めて京香の顔を見た。
「……その言い方は、いいですね」
そう言って、帰った。白衣のポケットにあたる場所に、細長い硬いものの形が浮いていた。物差しにしては短く、ペンにしては太かった。京香はそれも書いた。書いて、記事には入れなかった。
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翌日、朝から数えた。
同じ内容が、複数の場所に同時に出るようにしてある。郵送、預託、増刷、それから配信。原理はいつもと同じで、他人の手が途中に一回ずつ入っている。
反応は、昼までに三つに割れた。
一つ目は、信じた人だった。医療窓口の相談件数が跳ねた、と相談所から連絡が来た。何を相談したらいいのかも分からないまま来た人が多い、とも。
二つ目は、信じなかった人だった。認証済みの音声も、書き起こしも、署名も、「作れる」の一言で処理された。京香はそれを予想していた。予想していたが、実際に見ると、予想と同じであることが腹立たしかった。
三つ目は、面白がった人だった。誠司の言い淀みの部分だけを切り出したものが、昼過ぎに大量に回っていた。二十七分のうちの十一秒だった。
京香は三行書いた。
——事実。出した。
——事実。信じた人と、信じなかった人と、面白がった人が同時にいる。
——事実。出したことと、信じられたことは、別である。
四行目は書かなかった。書く言葉がまだなかった。
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九月二十四日、金曜の朝。
京香は商店街へ行った。反応を見に行ったのであって、誰かに会いに行ったのではない、と自分に言った。言ってから、それが半分は嘘だと分かっていた。
掲示板に、十月の当番表が貼ってあった。
日付と、区画の番号と、氏名が並んでいる。九月のものより、名前が二つ多い。
会長が箒を持って出てきた。
「一つ、消えとった」
「消えていた?」
「昨日の夕方に貼って、今朝見たら、一つだけ二重線が引いてあった」会長は言った。「消したのは、おれじゃない」
「誰が」
「わからん。聞いても、誰も言わん」
京香は掲示板の前に立った。二重線は定規で引かれていた。丁寧だった。丁寧に消してあることの方が、こたえた。
線の下の字は、まだ読めた。小さい字だった。
京香は手帳を開いて、閉じた。
——これは、書かない。
書かない理由は二つあった。一つは、氏名を出さない約束をしたからだ。もう一つは、裏が取れていないからだ。二つとも本当だった。二つとも本当なのに、書かない理由としては足りない気がした。
足りないことも、書かなかった。
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その日の午後、第二版を刷った。
証言の一部と、翌日までに集まった裏取りを足して、部数を増やす。提携の印刷所は、いつもどおり藁半紙で受けた。
版元の一行を、刷る前に確かめる。
初出、九月二十三日。無断改変を禁じます。
「第二版なのに、初出は昨日のままなんですね」と、若い刷り手が言った。
「初出は一度しかないので」
言ってから、京香はもう一度その一行を見た。
昨日の日付が、これから刷る全部の紙の隅に入る。増刷しても、訂正しても、間違いが見つかっても、この日付だけは動かない。動かせるものを全部動かせるように作ってきた仕事の中で、そこだけが、もう動かなかった。
京香は「回してください」と言った。
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【観察記録 R-068 ——相良慧】
九月二十三日の続き。二十四日の夜に書いています。聞き書きです。
数えます。出たものが一つ。信じた人と、信じなかった人と、面白がった人が、同時に立ちました。三つのうちどれが多いかは、わたしには数えられません。
出なかったものも書きます。個人の氏名はゼロ。顔の分かる画像もゼロ。裏の取れていないことも、一つも出ませんでした。
一人が、理由を言わずに同意した、と聞きました。同意した、と書けば足りるはずです。ただ、その行だけ、あとで読み返す気がしています。
(ep068 了)




