唱和
【観察記録 R-067 ——相良慧】
九月十九日。市街の宿。
先週、写させてもらった紙が一枚あります。駅前で、決まった時刻に集まり、決まった文句を声を揃えて言う。案内はそれだけでした。主催の欄は空です。
八月の終わりから三度。三度とも人数が増えている、と紙には書いてありました。増え方の根拠は書かれていません。
同じ言葉を同時に言う人たちは、同じことを考えているわけではありません。
数える方法を、まだ思いつきません。人数なら数えられます。けれど、数えたいのは人数ではない気がしていて、それが何なのかも、まだ言えません。
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九月十九日、日曜。朝の商店街には、まだ日が入っていなかった。
「今日、駅前でやるらしい」
会長は、シャッターを半分だけ上げたところで手を止めていた。総菜屋の窓は、八月の終わりから枠だけのままだ。査定は済んで、片づけも済んで、それでもガラスは入っていない。
「どこでですか」
「駅の向こう。相談の窓口があるだろう、古いビルの」
湊は場所を思い出した。体の調子の相談を受けている建物だ。前を通ったことはある。中に入ったことはない。
「なんで、あそこなんですか」
「わからん。相談所の紙が回ってきて、そこに書いてあった」会長は言った。「聞いた話じゃ、体の調子の相談を持っていくと、同じ建物の名前が何度か出てくるんだと。それで、あそこだって話になったらしい」
「それ、合ってるんですか」
「知らん。おれが聞いたのも、聞いた話だ」
会長はシャッターを最後まで上げなかった。上げても、入れる窓がない。
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十時十分。
建物は、前を通ったときの印象より古かった。入口の脇に、掲示が三枚並んでいる。
三階以上は使用を停止しています
二階集会室 定員百二十名
階段での滞留はご遠慮ください
その下に、耐震診断の結果に基づく措置、と一行あった。掲示の日付は二年前だった。
湊は端末で同じものを引いた。地区の公開掲示にも出ている。日付は同じだった。二年前から、どちらも動いていない。
「ミナト氏、来た」
宙が肘で突いた。
湊は、自分の左手を一度見た。
人の多い場所へ入るとき、この十日ほど、そうする癖がついていた。十日前、腕が上がったとき、上げようと思っていないことは分かっていた。分かっていて、何もできなかった。あのとき自分の腕が探していた高さを、湊はまだ思い出せる。
いま、手は動いていない。指も普通に動く。
それを確かめてから、湊は前へ出た。確かめる必要があったこと自体を、誰にも言っていない。
人は、思っていたより多かった。百人はいる。二百人かもしれない。数え方が分からなかった。
耳に何も着けていない人が何人もいた。着けている人も、同じくらいいた。素心会の集まりだと聞いていたが、そういう見え方はしていなかった。買い物袋を提げた人がいて、子どもを連れた人がいて、勤め帰りみたいな服の人がいた。
拡声器を持った男がいて、何か言っていた。声はよく通っていた。誰も繰り返さなかった。
「あれじゃない」透が短く言った。
「わかるのか」
「見てりゃわかる。誰も乗ってねえ」
十時二十分に、別の声が始まった。
拡声器ではなかった。人の中から出た声で、拡声器よりずっと小さかった。
にんげんの、手に、もどせ
短かった。十いくつの音しかない。
二人が繰り返した。それから六人になった。二十人になるまでに、二十秒もかからなかった。
湊は、そこを見ていた。
声が揃っていくのは分かった。分からないのは、顔のほうだった。
言い始める前の一瞬、人は何か考える顔をする。賛成するのか、しないのか、その前の、決めるところの顔だ。湊はそれを見ようとした。
なかった。
十人目から先は、その顔が、ない。口が動く前に口が動いている。
「……なんだ、これ」
「なんだって?」
「わかんない」湊は言った。「言葉が、出てこない」
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宙が指を折り始めた。
「四拍だ。四拍で一周してる。三回数えた。合ってる」
「じゃあ、四つ目で」
「待て」
宙の指が止まった。
「合わねえ」
「合わないって」
「拍は合ってんだよ。合ってんのに、増え方が拍と関係ねえ」宙の早口が、そこで急に止まった。「……これ、周期じゃない」
「じゃあ何だ」
「わかんねえ」
宙は指を全部開いて、それから閉じた。前の二回は、それが合図だった。今日は合図にならなかった。
「悪い。数えても意味なかった」
透は何も言わなかった。宙も、それ以上は言わなかった。
透は、人の間へ入っていった。
前の人が振り向いて、透を見て、少し嫌そうな顔をした。透は構わずに肩の間を抜けた。しばらくすると、その人はもう透のほうを見ていなかった。忘れる。透に関しては、みんな一分半で忘れる。それだけの話だ。
だから透は、同じところを二度通れる。二度目の人は、一度目のことを覚えていない。
「奥、詰まってる」戻ってきた透が言った。「入口の前が特にな。押されてるやつがいる。左の壁沿いなら、まだ抜けられる。三分もつかは知らねえ」
「危ないんじゃ」
「危ない。けど押してるのも同じ人間だ。どかしようがねえ」
雪は、もう動いていた。
倒れた人を、腕を取って引き出した。中年の女の人で、膝を打ったらしく、少し顔をしかめていた。雪は袖で埃を払って、離れた縁石まで連れていった。
女の人は縁石に座って、それから立ち上がって、また列のほうへ戻っていった。
戻りながら、言っていた。
にんげんの、手に、もどせ
雪は、その背中を見ていた。何も言わなかった。
入口の前で、もう一人が沈んだ。
湊が入った。腕の下に手を入れて、上へ引いた。若い男で、思ったより重かった。人の壁は動かないので、真横へ二歩ずらすのがやっとだった。
引き上げるとき、素手が相手の腕に当たった。
何も来なかった。
来ないのは当たり前だった。この人が何を欲しがっているのか、湊はまだ一つも言い当てていない。言い当てていないのだから、この人がそれを受け取ることもない。触っただけで何かが動くなら、もっと簡単だったはずだ。
男は立ち上がって、袖を直して、湊を見ないまま、口を開けた。
にんげんの、手に、もどせ
「……あの」
聞こえていなかった。
湊は手を離した。離した手を、少しのあいだ、どこにも置けなかった。
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零は、通りの外側にいた。
灰色の上着で、人の流れから二歩だけ外れた場所に立っていた。手を上げも、隠しもしなかった。
「あんた」
「相沢くん」零は言った。「先に言っておきます。今日は取りません」
「取るって」
「見ています。それだけです」零は通りのほうへ顎を向けた。「あの人たちが、どこで人を集めるのかを見に来ました。八月の件の続きです」
湊は、その言い方を信じた。信じる根拠はなかったが、この男は嘘を言わない。
「何か分かったのか」
「一つだけ」
零は、視線を動かさずに言った。
「繰り返していない人が、一人います」
「え」
「全員が繰り返しているように見えますが、一人だけ、繰り返していない。最初に言って、あとは聞いている。繰り返しは、いつもその人の周りから始まります。三回見ました」
「どこだ」
「入口から数えて三列目。左寄り。紺の上着で、鞄を持っていません」
湊は、そちらを見た。見えなかった。人が多すぎた。
「……行ったら、どうなる」
「分かりません」零は言った。「僕が言えるのは、どこにいるか、までです」
「それだけか」
「それだけです」
零は、それきり黙った。訂正も、付け足しもしなかった。
湊は、通りのほうへ向き直った。零が言った場所には行かなかった。行って何をすればいいのかが、分からなかったからだ。
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顔を見ていた。
順番に、端から。
言い始める前の顔がある人と、ない人がいる。端のほうにはまだある。奥へ行くほど、ない。
四十人目くらいのところで、湊の目が止まった。
総菜屋の女の人だった。
エプロンはしていなかった。日曜だからだろう。声は出していた。ちゃんと出していた。口の形が、周りと同じ形になっていた。
湊は、人の間を抜けた。触れないように、肩と肩の隙間を選んで進んだ。
彼女の前に立っても、彼女は湊を見なかった。
「あの」
聞こえていない。
「二ヶ月、って言ってましたよね」
彼女の口が、止まった。
「……え」
「窓です。保険が下りるまで二ヶ月って、言ってました」
彼女は湊を見た。見てから、口を少し開けて、そのまま閉じた。
次の一周が来たとき、彼女の声は半拍遅れて出た。遅れて出たので、周りの声とずれた。ずれたことに、彼女自身が気づいた顔をした。
三周目で、出なくなった。
湊には、何が起きたのか分からなかった。何もしていない。触っていない。言ったのは、彼女が前に言ったことだ。
彼女は、まだ立っていた。列から動かなかった。ただ、言っていなかった。
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隣の男が、彼女を見た。
見て、自分の口の動きが止まった。止まったことに気づいて、また言おうとして、拍を外した。
その隣が、続かなくなった。
湊はそこを見ていた。見ていて、名前がつけられなかった。ドミノみたいだ、と思って、違うと思った。ドミノは倒れる。これは倒れていない。誰も倒れていない。ただ、言わなくなっている。
三十秒で、半分になった。
一分で、聞き取れる声が十いくつになった。
その頃には、人はまだ全員そこにいた。誰も帰らなかった。帰らずに、黙って立っていた。
最後に残ったのは、一つの声だった。
にんげんの、手に、もどせ
紺の上着の男だった。零が言った場所に、ちゃんといた。
男は言い続けた。四拍で、正確に。
誰も繰り返さなかった。
男の声は、通りの中で急に小さく聞こえた。声量は変わっていない。周りが返さないだけだった。
男は、五周目の途中で言うのをやめた。
やめてから、周りを見た。
湊は、その顔を見てしまった。
——自分の声しか聞こえていない顔だ、と思った。思ってから、それを言葉にできる気がしなかった。
男は逃げなかった。座りもしなかった。入口の前に立ったまま、口を一度動かして、何も出さなかった。
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零は、いつの間にか横に来ていた。
「一人だけでしたね」
「え」
「君が声をかけたのは、一人です。あとは、その人の隣が続かなくなっただけだ」零は通りを見たまま言った。「君のやり方は、一人に一回ずつしか効かない」
湊は言い返そうとして、言い返す材料がないことに気づいた。今日、自分がしたのは一回だった。
「……あんたのは」
「僕のは、どこにいるかを言うだけだ。誰も戻らない」
零は、少し間を置いた。
「明日、別の人が同じことを始めたら、僕はまた場所を言います。それだけです」
「あんた、それで足りると思ってんのか」
「いいえ」
零はそう言って、歩き出した。止めなかった。止める言葉を、湊は持っていなかった。
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来たのは、それから十分ほど後だった。
制服の人が何人も来て、それから、うまくいかなくなった。
入口のガラスが割れたのは、その少し前だった。
湊はそれを見ていた。誰も殴っていない。蹴ってもいない。前の人が後ろから押されて、その人が前の人を押して、四人目か五人目の肩が枠に当たった。音は思ったより小さかった。割れたあとで、押していた人たちが一斉に半歩下がった。下がってから、また前に出た。
誰が押したのかは、誰にも分からなかった。押された側の人が三人いて、そのうち一人が肘を切っていた。
制服の一人が「関係者の方は」と言いかけて、途中で言うのをやめた。ここにいる百何十人が、全員、関係者と言えば関係者だった。
「一人ずつになります」
そう言うのが聞こえた。声を出していた人と、出していなかった人と、押した人と、押されて前に出ただけの人を、同じ扱いにする言葉が、その場になかった。
列ができた。長い列だった。
湊は、それを見ていた。
さっきまで揃っていたものが、一人ずつに分かれるのに、こんなに時間がかかるのか、と思った。
紺の上着の男は、列に並ばされなかった。
制服の人が二人ついて、入口の脇へ寄せて、そこで書き取りが始まった。ほかの人より長かった。連れて行かれる様子はなかった。男は立ったまま、聞かれたことに答えているように見えた。何を答えているのかは、遠くて聞こえなかった。
湊が最後に見たとき、男はまだそこにいた。
総菜屋の女の人は、列の後ろのほうにいた。
誰も彼女を指していなかった。名前も呼ばれていなかった。彼女は自分から前に出て、制服の人に何か言った。遠くて聞こえなかったが、名前を言ったのだと分かった。書き取られていたからだ。
書き取られたあと、彼女は一度だけこちらを見た。
礼も、謝りも、しなかった。目が合って、それだけだった。
湊は何か言おうとして、言葉が出てこなかった。
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帰り道、会長が追いついてきた。
「あんた、なんかしたのか」
「してないです」
「してないことはないだろう。おれの目には、あんたが行ってからだったが」
「……わかんないです」湊は言った。「本当に、わかんなくて」
会長は、それ以上聞かなかった。
透が端末を打っていた。時刻と、順番と、見たものだけが並んでいる。
「四拍は関係なかった」透は打ちながら言った。「宙のは外れだ。だけど外れたから、拍じゃないって分かった。それも書いとく」
「おれの名前は出さなくていいぞ」
「出す。外れたのも記録だ」
宙は少し黙って、「まあいいや」と言った。
雪は、ずっと後ろを歩いていた。総菜屋の女の人のことも、引き出した女の人のことも、何も言わなかった。
湊の端末が鳴ったのは、駅の階段を下りたところだった。
相良慧からだった。
近いうちに、会ってほしい人がいます。
湊は、しばらくその一行を見ていた。
(ep067 了)




