回路
【観察記録 R-066 ——相良慧】
九月十二日。市街の宿。
九月六日、棚を見に行きました。父の箱を置いていた棚です。金具の錆、板の反り、裏板とのすきま。三時間かけて、埃まで出しました。
何もなし。
写しの三つ目は、まだ見つかりません。見つからないことを、先月と同じ言い方で書いておきます。書き方を変えると、探し方を変えたように見えるので。
別件です。同じ紙をたくさん作れば、消せなくなる——これは先月、伝聞で聞いた話でした。今週、その逆を考えています。
たくさんあると、価値のなくなる紙。それは、どういう紙でしょうか。
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九月十日、金曜。
生活相談所の奥の畳の部屋には、卓袱台が一つある。端末はない。窓は磨りガラスで、開けると隣の家の壁が見える。
慧は座布団の位置を直してから座った。座ってから、直したことを気にした。
汐見京香は、先に来ていた。
「事実確認をさせてください」と京香は言った。「檜山さんから、あなたが会いたがっていると聞きました。会いたい、で合っていますか」
「合っています」
「用件も聞きました。私の側の理解でいうと、七月から集めている紙の話です」
「そうです」
「では、先に出します。順番に意味はありません。ただ、私が持っている全部です」
京香は鞄から出したものを、卓袱台に並べた。
薄い綴りが一冊。二十六枚。宛名の欄が空の書式が五枚——四枚は七月から集めたもので、一枚は八月末に商店街の割れた窓の内側から抜いたものだった。それから、口座番号を書き写した紙が一枚。番号は三つある。
「工程の欄が三つあります」京香は言った。「三つとも、日付だけ。何の工程かは書いていません。金額の欄はありません。名前は、どこにも一つも」
「口座は、どうされましたか」
「火曜に出しました」京香は言った。「番号を三つ、被害届三件と一緒に。当局と、記者クラブへ」
「返事は」
「受理番号が一つです」京香は言った。「名前は返ってきません。止まるかどうかも、いつ止まるかも、書いてありません。……三日経ちました」
慧は綴りを開いて、めくった。めくる音がした。
「様式が同じであること以外に、確定していることはありますか」
「ありません」京香は言った。「様式が同じ。中身は互いに別件。ここまでです。この先は、まだ推測なので書いていません」
「書いていない、というのは、思いついてはいる、ということですね」
「思いついてはいます」
慧は綴りを閉じた。
「わたしの父は、原本を一つ作るとき、写しを三つ作る人でした。二つは他人の家に置きます。残りの一つは、まだ見つかっていません」
「……それは」
「あなたが先月なさったことと、ほとんど同じ形です。伝聞で聞きました。同じ内容を、複数の場所へ、時間差で、他人の手を一回ずつ通して置く。そうすると、消す側が一度に一つしか触れないので、追いつかなくなる」
「追いつかなくなりました」京香は言った。「それが、いちばん時間のかかった仕事でした」
慧は、卓袱台の上の五枚を、指で少しずらして並べ直した。欄の位置が同じだった。三つ目の欄だけ少し狭いのも同じだった。
「仮説ですが——この様式は、いま、指紋として働いています。同じ様式で書かれているから、同じ場所を通ったと分かる。あなたが確定させたのは、そこまでですね」
「そこまでです」
「では、同じ形を、逆に使えないでしょうか」
京香は顔を上げた。
「様式が指紋になるのは、それが珍しいからです」慧は言った。「書ける人が少ないから、書けたことが印になる。……書ける人を増やせば、指紋ではなくなります」
京香は、しばらく何も言わなかった。それから、手帳を開いた。
「事実確認をさせてください。増やす、というのは」
「配る、ということです。記事ではなく、手順の形で。この様式は、こう書けば受け付けられる、と。……あなたが七月にやったのと、同じやり方です」
「あれは、身を守る手順でした」
「これは、そうではありません」
慧は、自分でそう言ってから、言い方を確かめるように一度止まった。
「そうではないものを、同じ配り方で出すことになります。ですから、わたしの側から言うのはここまでで、決めるのはあなたです。わたしは、この網を持っていません」
京香はペンの尻で手帳を二度叩いた。
「誰が血を流すか、数えます」
「どうぞ」
「受け付けている人間は、仕事を失います。これは確実。依頼を出したい人間は、別の道を探します。これも確実。……あとは」
「あとは」
「増えるのは、紙だけです」
京香は書いた。書いてから、線を引いて消して、書き直した。
「相良、というお名前は」京香が言った。
「はい。娘です」
京香は手帳に一行だけ書いて、ペンを置いた。
「……今日は、聞きません。裏が取れていないので」
「助かります」
「あなたは、なぜこれに乗るんですか」
慧は答えを二度言い直した。
「わたしは、人の名前の並んだ紙を、一冊持って歩いています」
京香は、それを書かなかった。
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手順の紙は、その日の午後に作った。
書いたのは京香で、確かめたのは慧だった。欄の数、欄の順番、三つ目の欄が狭いこと、日付の入れ方。慧は但し書きを二つ足した。
一つ目——これで止まるのは、この様式のこの経路だけである。様式を変えられれば、また分からなくなる。
二つ目——止めたことで、依頼そのものが消えるわけではない。
「両方、載せます」京香は言った。「載せないと、次に信じてもらえないので」
刷りは、提携の印刷所が受けた。藁半紙に。版元の一行——初出、日付、無断改変の禁止——を先に約束させるのも、前と同じ手続きだった。
刷り上がったのは翌朝だった。土曜の午前のうちに束は配布網へ乗り、同じ内容が地区の掲示にも出た。京香は掲示の方を先に確かめて、「こっちは、こっちで勝手に増えます」と言った。
受付の男は、取次票を一枚起こした。地区記号と、受付番号と、受付日。名前の欄はない。男の耳には何も着いていなかった。
「中身は読みますか」と京香が聞いた。
「読みません」男は言った。「うちは、中身で選びません」
「選ばない理由を、聞いてもいいですか」
「選ぶ人を作らないからです」男は言った。「決める人が一人いると、その人を押せば全部止まるので。うちには、その人がいません」
慧は手帳に書いた。書いてから、同じ規則の裏側について考えた。考えている途中で、男が別の束を卓の端へ置いた。
同じ藁半紙だった。同じ版元の一行が入っていた。
「今週、もう一つ回っています」
呼びかけの紙だった。駅前で、決まった時刻に集まって、決まった文句を声を揃えて言う。それだけの案内だった。八月の終わりから三度あって、三度とも人数が増えている、と紙には書いてあった。
紙のいちばん下に、素心会の地区の名前があった。
「主催は」と京香が聞いた。
「書いてありません」
「これは、こちらの網ですか」
「同じ網です」男は言った。「同じ印刷所で、同じ回し方で、同じ日に回っています」
男は弁解しなかった。声も低くならなかった。
「止める仕組みは、うちにはありません」
慧は、その一枚を借りて写した。写しながら、書ける範囲だけを書いた。日付が三つ。場所が一つ。人数の記載が三行。主催の欄は空。
それ以上のことは、書かなかった。
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九月十二日、日曜。
男は、時間の五分前に来た。
喫茶店の奥の卓で、注文の板は卓の端に伏せてあった。男は五十くらいで、鞄は事務のかたちをしていた。上着は着たままで、ボタンは掛かっていた。
「紙を、いただきました」男は言った。「あの様式で。工程の欄に、日付と時刻と、ここの名前が入っていました」
「書ける様式だと分かったので、書きました」京香は言った。
「書けます」男は言った。「もう、誰でも」
「事実確認をさせてください。土曜から、何枚来ましたか」
男は鞄から手帳を出した。紙の手帳だった。
「三百七十二枚です」
「先月は」
「ひと月で十九枚でした」
「分ける方法は」
「ありません」男は言った。「もう、ありません。前は、書ける人が少なかったので、書けているものが本物でした。それだけで済んでいました」
京香は書いた。慧も書いた。書く速さが違うので、音が二重になった。
「あなたのお仕事は、何ですか」
「分けることです」男は言った。「届いた紙を、行き先ごとに分けて、回します。ほかにも三つ請けています。倉庫の棚卸しと、集合住宅の検針の取りまとめと、あと一つは言いません」
「依頼の中身は」
「読みません。読む必要がないので」
「名前の並んだ紙を扱ったことは」
男は、少し黙った。
「あります」
「どこから来たものかは」
「知りません」男は言った。「私のところへ来るときには、もう封がしてあります。封を切るのは、受け取る側です」
「封を切らずに回すんですね」
「切ると、単価が変わります」
京香はペンを止めた。止めてから、また動かした。
「口座のことも聞かせてください」
「私は、入ったかどうかだけ見ます。金額は見ません。歩合ではないので」
「三つあります」
「三つでした」男は言った。「一つが、土曜から使えていません」
「あとの二つは」
「一つは、たぶん止まります。もう一つは、たぶん止まりません」
「理由を」
「あれは口座ではないので」男は言った。「決済の中継の番号です。止める窓口が、どこにもありません」
京香が慧を見た。慧は首を横に振らなかった。書き取ったものを見せただけだった。火曜に出した書類の控えには、いまも受理番号が一つ返っているだけで、名前は一つも返ってきていない。止まったという通知も来ていない。
「やめますか」京香が聞いた。
「やめます」
「理由を、あなたの言葉で」
「割に合わないからです」男は言った。「三百七十二枚を分けるのに、二日かかります。単価は変わりません。前は、ひと月で十九枚でした」
「正しくないと思ったからではないんですね」
「そういう話は、していません」
京香は、それも書いた。
「あなたのことは、名前を出さずに書きます。会ったことも書きます。やめたことも、やめた理由も書きます」
「片方だけの方が、売れるでしょう」
「売れます」京香は言った。「両方書きます」
男は、笑わなかった。
「次の人は来ますか」
「来ます」
「様式は変わりますか」
「たぶん、変わります」男は言った。「変えるのは私ではないので、いつかは知りません」
男は立ち上がって、卓の上の紙を一枚だけ指した。あの様式の、京香が書いた紙だった。
「これは、こちらでもらっていいですか」
「どうぞ」
「置き場所がないので、捨てます」
男は、それを二つに折って、鞄に入れて、出ていった。ボタンは掛かったままだった。
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京香は、店を出るまで何も言わなかった。
橋の上で立ち止まって、手帳を開いた。日曜の川は水位が低く、下の草が乾いていた。
「三行、書きます」
「どうぞ」
「——事実。受け付けていた人間が一人、やめた」
「——事実。口座は三つのうち、一つが土曜から使えていない。火曜に出した書類との因果は、裏が取れていない」
「——事実。依頼した人間の名前は、一つも出ていない」
京香はペンを持ったまま、しばらく書かなかった。
「四行目を、推測の欄に入れないで書きます」
「書けますか」
「書けます」京香は言った。「事実の欄に入ります」
——止まったのは、この様式のこの回路である。これは、時間を買っただけだ。
慧は、それを自分の手帳へ写した。写しながら、卓袱台に並んでいた五枚のことを考えていた。あの五枚には、人の名前が一つも書いていない。名前の並んだ紙は、封をされたまま、この人の手を通ってどこかへ回っていた。中を見たのは、この人ではない。
回っていた、ではない。
回っている、だ。
「相良さん」京香が言った。「今日、あなたは何を持って帰りますか」
慧は、少し考えた。
「持って帰れないものが一つあります」
「何ですか」
「封を切る側の人の顔です」
京香は頷いて、手帳を閉じた。閉じてから、もう一度開いて、空の欄をそのままにしておいた。
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【観察記録 R-066 ——相良慧】
九月十二日、夜。
数えます。止まったもの——受付が一人。口座が一つ。止まる見込みが一つ。止まらないものが一つ。手元に残った綴りが一冊。
止まらなかったものも書きます。依頼した人の名前はゼロ。渡した人の名前もゼロ。受け取っていた人は捕まっていません。捕まる罪の名前が、まだありません。
次に来るのは、様式を変えた同じ人間です。
今日、紙は一枚も減りませんでした。増えただけです。
検証不能な仮説を書き並べることを、不安と呼びます。
父の写しの三つ目は、今日も見つかりませんでした。
(ep066 了)




